満員の武道館観衆は鉄の爪・エリックの右手1本に酔いしれた

NEWSポストセブン / 2012年5月20日 16時0分

 今年は新日本プロレスと全日本プロレスが旗揚げ40周年を迎え、昭和のプロレスが再び脚光を浴びている。ここでは、DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第1巻(小学館)より、1960~70年代にかけて日本中を震撼させた「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックの足跡を紹介しよう。

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 フリッツ・フォン・エリック、本名ジャック・アドキッセンは、13歳のときにドイツから米国テキサス州ダラスに移民、大学時代はアメリカン・フットボールの花形プレーヤーとして鳴らし、1954年にプロレス入り。
 
 デビュー当初は本名でファイトしていたが、スパン32センチの巨大な右手と、握力計の針を吹っ飛ばして推定130キロといわれ、軟式野球のボールを軽くパンクさせた驚異的な握力で、相手の顔面をわしづかみにする新技アイアン・クロー(鉄の爪)を開発、リングネームをドイツ風のF・V・エリックと改名して、一気に開花した。

 1962年1月には、バーン・ガニアからAWA世界王座を奪取、同王座を巡ってのガニアとの抗争は、AWAの黄金カードだった。

 その後、地元ダラスに『サウスウェスト・スポーツ』を設立、同地区の興行を一手に取り仕切る大ボスとなり、“ダラスの帝王”と呼ばれて、1975年8月には当時全盛のNWA会長に選任されている。ダラスでは、銀行やスーパーマーケットの大株主となり、自宅前の道路は「アドキッセン通り」と呼ばれるほどの名士だった。

 初来日は1966年11月の日本プロレスで、ジャイアント馬場のインター王座に大阪と東京で2度、挑戦して敗れているが、凄まじいばかりの人気だった。この1966年は、10月に東京プロレスが旗揚げ、アントニオ猪木が初来日のジョニー・バレンタインと名勝負を演じて話題となった。

 それまで一団体時代にあぐらをかき、招聘外人レスラーの人選も手抜き気味だった日プロが、東プロに対抗すべく打った手が、高額のギャラを奮発してのエリックの初来日と、「大きすぎる」と敬遠していた日本武道館のプロレス初使用だった。

 12月3日の日本武道館大会は超満員、5万余の観衆がエリックの右手1本の迫力に酔いしれた。エリックは、1人で日本武道館を満杯にした男なのである。エリックは、日プロには5回来日、1973年4月に崩壊した日プロの最後のシリーズ名は『アイアン・クロー・シリーズ』だった。

 エリックは1982年6月6日にダラスのテキサス・スタジアムで引退記念試合を行い、キングコング・バンディからアメリカン・ヘビー級王座を奪取、1951歳で男の花道を飾った。

 エリックには6人の息子がいたが、長男は幼いときに感電死し、「5人の世界チャンピオンを生む」ことを夢としてプロレス入りさせた。その夢は四男ケリーだけがNWA世界王者となり果たしたが、現在は次男ケビンを除く全員が変死を遂げ、“呪われたエリック一家”といわれている。なおケビンの息子であるロスとマーシャルは現在、日本のノアで修業中だ。

※DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第1巻(小学館)より



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