水俣病研究家“放射性物質は海水で薄まる”に「歴史に学べ」

NEWSポストセブン / 2012年6月24日 16時0分

 水俣病研究の第一人者として知られる原田正純さんが6月11日、77才でその生涯を終えた。原田さんが亡くなった3日後の6月14日、熊本市内で開かれた「お別れ会」には、水俣病患者をはじめ約1300人が出席した。

 多忙な原田さんを支え続けた妻・寿美子さん(68才)は、時折涙で声を詰まらせながら、こう挨拶した。

「2007年に脳梗塞で倒れました。奇跡的に回復し、その後も食道がん、白血病といろんな病気をいたしました。それでも、“自分は元気”といいながら最後まで仕事をしました」

 国や企業、そして何より患者の病気と格闘した原田さんは晩年、自らの病魔と闘った。60才直前の胃がんを皮切りに食道がんや脳梗塞を患い、「半身マヒで言語障害が出る」と診断されながら懸命のリハビリで病を乗り越えライフワークの水俣病研究に取り組んだ。

 原田さんが最後に水俣病の患者を検診をしたのは、昨年8月。その後、入院生活を送るも、自らの希望で2012年5月から自宅療養。病床でも気に懸けていたのは、やはり患者たちのことだった。

「“もう一度水俣に行きたい”“行って患者さんたちを診たい”といっていましたが、それもかないませんでした」(寿美子さん)

 たくさんの人が寿美子さんと同じ思いで涙にくれる。お別れ会には、原田さんが胎児性水俣病を発見するきっかけとなった兄弟の弟、金子雄二さん(56才)の姿もあった。金子さんが声を振り絞るように話す。

「先生がぼくを診てくれたことで胎児性水俣病が発見できたんです。その後も会うといつも『どげんしてる?』と心配してくれて、先生の顔を見ると安心できました」

 同じく胎児性水俣病患者で、「原田先生の病気が治るように」と、携帯の待受画面を原田さんの写真にし、願掛けをしていた加賀田清子さん(56才)はこう話す。

「先生には50年以上診察してもらいました。いつも優しい笑顔で、『どげんしてるね?』と足をさすってくれました。先生は神様から生まれてきて、最後は神様として帰っていったんだなと思いました」

 そんな原田さんが私たちに向けた遺言は何か――

 原田さんが最晩年に心を痛めたのが、2011年3月に起きた福島第一原発事故だった。事故後、原発から海に垂れ流された放射性物質について、専門家たちは、「海の水で薄まるから、環境への影響は少ない」と口をそろえた。そんな学者たちの解説を知った原田さんは、「日本は歴史から何も学んでいないのか」とため息をついていたという。

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