プロ野球“銭闘”の歴史を切り開いたのは金田正一氏

NEWSポストセブン / 2019年11月25日 16時0分

400勝投手は賃上げ交渉も巧みだった

 令和初のプロ野球契約更改で「保留第一号」となったのは、中日の中継ぎ投手・祖父江大輔(32)だった。3年間で130試合に登板した貢献度をアピールした祖父江に対し、球団は「評価するが(査定の)ポイントにはない」と主張。意見の食い違いは大きかったが、それでも2度目の交渉で当初の提示額から100万円増の年俸3500万円を勝ち取った。

 こうして選手と球団が歩み寄るケースもあれば、交渉が難航し、球史に残るドロ沼劇に発展したこともあった。

 1956年に阪急に入団した350勝投手・米田哲也は「我々の時代はそもそも球団と交渉の余地がなかった」と振り返る。

「大卒の初任給を歌ったフランク永井の“1万3800円”が流行した昭和30年代、僕の初任給は月給3万円でした。1年目に9勝すると、オフの交渉で9万円になり、21勝をあげた2年目オフには18万円、23勝の3年目オフには20万円と上がっていった。

 だけど、その先がなかなか上がらない。“40勝も50勝もできるわけじゃないんだから、もっと上げてほしい”と球団に言うと、“客が入らんからな……”の一点張り。そう言われてしまうと反論できなかった」

 1949年に中日に入団した杉下茂も「交渉なんてなかった」と語る。

「球団代表にすべて任せていた。戦後間もなくだったから、野球ができるだけで幸せだったからね。あとで聞くと、“サラリーマンの生涯賃金を10年で稼げる”という基準だったと説明を受けました」

 そんな時代ながら、自ら賃上げ交渉していたのが、400勝投手の金田正一(1950年に国鉄に入団)だった。かつて、本誌記者にこう明かしていた。

「ワシの初年度の月給は2万5000円。1年目のオフはまだ未成年だったから監督が更改に同席したが、翌年からは他人に任せたらダメだと自分で交渉したもんじゃ。

 参考にしたのは麻雀だった。役がつくたびに点数が倍々と上がっていく。だから年俸も倍々ゲームで交渉した。結果を残せば倍になると思ったら頑張れたよ。交渉では“成績を残したから上げろ”ではなく“来季はこれだけ勝つから前払いしてくれ”と要求した。ワシは食べ物や体のケアに金をかけたので、毎月のように給料の前借りをしていた。球団の提示額と選手の希望額の中間で決まると何となく分かってからは、できるだけ高い金額をふっかけていたよ」

“銭闘”の歴史を切り拓いた“元祖”はカネやんだったのである。(文中敬称略)

※週刊ポスト2019年12月6日号

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