広島・堂林の覚醒 監督交代で花開いた“遅咲き選手”の系譜

NEWSポストセブン / 2020年7月23日 16時5分

現時点で両リーグ唯一の4割打者である堂林翔太(時事通信フォト)

 入団11年目、今年29歳を迎える広島・堂林翔太が開幕から打ちまくっている。22試合を消化し、打率4割2分9厘、39安打、出塁率4割6分9厘と3部門でセ・リーグトップ(記録は7月22日時点。以下同)。開幕は7番でスタートしたが、7月17日のヤクルト戦から3番に昇格し、いきなり4安打を放った。

 2009年、夏の甲子園の優勝投手である中京大中京の堂林は、同年のドラフト会議で広島に2位指名され、打者に転向。3年目の2012年、野村謙二郎監督に開幕スタメンに抜擢され、144試合フル出場を果たす。“飛ばない”と言われた統一球に各打者が苦しむ中、エルドレッドの11本塁打を抑え、チーム最多の14本塁打を記録。三振はリーグ最多の150、失策29という数字も目立ったが、将来のブレイクを感じさせる1年だった。

 しかし、翌年以降は伸び悩み、2015年に緒方孝市監督が就任するとともに、出場機会は減っていく。緒方政権下の5年間で、わずか3本塁打しか打てなかった。野球担当記者が話す。

「当然、監督が変わることで選手の出場機会も変わってきます。それぞれの監督に“目指す野球”というものがあり、そこに合致するかどうかで選手起用を見直すようになるのです。1980年代の巨人・王貞治監督は攻撃的な野球を目指していたため、ショートに打力のある鴻野淳基や岡崎郁、勝呂博憲を起用した。しかし、1989年に就任した投手出身の藤田元司監督は守備を重視するため、川相昌弘をレギュラーに抜擢し、岡崎をサードに回した。監督交代は選手起用の変化の大きなきっかけになるんです」(以下同)

 佐々岡真司新監督の就任と同時に、堂林が“覚醒”したように、監督交代とともに“遅咲きの大ブレイク”が起こった例は過去にもある。

 PL学園の清原和博、桑田真澄の話題で持ち切りだった1985年のドラフト会議で日本ハムに1位指名された広瀬哲朗も、代表的な1人だ。社会人出身の即戦力として高代延博に代わるショートとして期待されたが、同年のドラフト3位である高卒の田中幸雄が2年目から頭角を現し、3年目には全試合出場を果たす。広瀬は守備要員の域を脱しきれず、田中がケガで棒に振った1992年もスタメン出場は限られていた。

「1993年、9年ぶりに復帰した日本ハムの大沢啓二監督が33歳の広瀬哲朗をキャプテンに指名。5月になると、大沢監督は田中の守備に物足りなさを感じたのかレフトに回し、広瀬にショートを任せた。最初の試合で、広瀬はいきなり猛打賞でチームもサヨナラ勝ち。一塁にヘッドスライディングするなど闘志を剥き出しにする広瀬は、大沢親分好みの“チームを鼓舞できる選手”でした」

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