1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

【逆説の日本史】最近世間を騒がせた二つのトピックス「高野連の発表」「大東亜戦争の呼称」について考察しよう

NEWSポストセブン / 2024年6月24日 16時15分

 いわゆる「先の大戦」については、基本的にそれを「大東亜戦争」と呼ぶべきなのである。なぜなら、それが歴史的事実だからだ。本来呼ぶか呼ばないかが議論になる話では無い。と言ってもわからない人も大勢いるようなので、わかりやすく説明しよう。

 たとえば、テロリストの集団がいるとする。その集団が人質を取って政府に身代金を払うよう要求したが、政府が拒否したので人質が全員殺されてしまったような事件があったとしよう。そのとき、テロリスト集団が「人質を処刑した」と発表したら、記者はそれをどう報道すべきか? おわかりだろう。「テロリスト集団は人質を処刑した、と発表しました」である。

 もちろん、それは本当の意味の「処刑」では無い。処刑というのは基本的に法治国家で法律に基づいて執行されるもので、この場合は殺人である。しかし、テロリストがそれを「処刑」と称したなら、その事実は事実として報道しなければならない。もちろん「これは処刑などでは無く、残虐な殺人です」と記事に付け加えることは必要だが、それは「論評」であり事実の報道とは違うものである。

 この場合「お前は処刑という言葉を使ったな、テロリストの行動を容認するのか!」という人間がいたら、あなたはどう思うか? 少々頭がおかしいなと思うのではないか。「事実の報道」それは「正確な用語を使う」ことでもあるのだが、それをしたからと言ってそれは「テロリストの行動を容認した」ことにはならない。あたり前の話である。

 同じことである。「大東亜戦争」という言葉を使ったからといって、それはその戦争を全面的に支持することとイコールでは無い。あたり前の話ではないか、事実を事実として報道するためには、まず正確な用語を使わなければならない。これもあたり前の話ではないか。日本はあの戦争を「大東亜戦争」と呼称して始めたのである。だから、その事実は決して消去してはならない。そのうえで「これは侵略戦争でした」とか、逆に「いや、アジア解放のための崇高な戦争であった」などと論評するのは、思想の自由および言論の自由の問題であって、議論が始まるとすればそこからだろう。

「アジア解放」の理想

 では、日本ではなぜ「大東亜戦争」という言葉自体を使うべきではないと考える愚かな人々が存在するのだろうか。本連載の読者にはいまさら改めて言う必要も無いだろうが、わからない人がまだまだいるようなので念のために言っておく。言霊である。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください