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元日で90歳になる倉本聰氏インタビュー「まだまだ書きたいことがある」衰え知らずの創作意欲と野望を語る

NEWSポストセブン / 2024年12月30日 7時15分

 1974年には大河ドラマ『勝海舟』の脚本を依頼される。

 だが、30代の有望なライターはここで躓く。資料の読み込みなどに半年を費やし、台本の5分の3ほどを書き上げたところで、NHKの演出側とぶつかったのだ。台本を断りなく書き換えられたりしたことで、両者の間では軋轢が生じていた。

「あの頃、ものすごく冴えていたんですね。と同時に、驕りというようなものも自分の中にあったんだと思う。だから、必要のない衝突を繰り返しちゃったわけです」

 札幌へ逃避し、原稿を送り続けたが、溝は埋まらず、倉本は放送途中に降板を余儀なくされる。

「もうシナリオライターを続けられるとは思わなかった。それで札幌でタクシーの運転手になろうと思ったら、北海道の連中が『あんたの顔はタクシー向きじゃない。トラックのほうが儲かる』と言う。実際、中古のトラックを買うつもりで、教習所にも申し込み用紙を取りに行きました」

 しかし、このとき北海道で絶望を味わい彷徨ったことで、倉本の人生は大きな弧を描いて新たな道を示し始める。周囲もまた有望な脚本家を放ってはおかなかった。

 40歳を迎えた1975年には『前略、おふくろ様』(日本テレビ系)がスタート。萩原健一、桃井かおり、梅宮辰夫といった役者陣を揃えたドラマは一世を風靡し、板前ブームを巻き起こした。

 そしてその2年後、倉本は北海道・富良野へと移住し、ゼロから荒れ地に家を建て出し、少しして『北の国から』(フジテレビ系)に取り組み始めるのだ。

都会のあほらしさが見えてきた

『北の国から』シリーズの第一話は、黒板一家の純(吉岡秀隆)の「電気がなかったら暮らせませんよッ」という父・五郎(田中邦衛)に向けた台詞から始まる。まさにそれは、電気もガスも水道もない富良野にやってきた倉本自身の目線だった。

「暮らし始めた最初は見るもの聞くものが珍しく新しくて、まさに純の視線でした。でも、北海道の人と出会い、荒れ果てた森と向き合ったりしながら、少しずつわかってきたら、シリーズの後半からは五郎の目線になっていった。経済だけしか見てない都会のあほらしさが見えてきたんです」

 バブル期前後の社会の矛盾や人間の喪失感を射た倉本は、シリーズ最終話「2002遺言」まで最果ての地から世の中に「本当にそれでいいのか」と問い続けた。

 倉本は一方で、テレビという媒体に対しても常に石を投げ続けてきた。老人ホームを舞台にした『やすらぎの郷』(テレビ朝日系、2017年)にも容赦ないテレビ批判が込められていた。

 タバコをくゆらせながら、倉本聰はこう語る。

「昔、一緒に仕事した連中、情熱を共有していた人たちはみんな死んじゃったし、若い人のテレビ離れもあるし、時代は変わってしまっている。テレビも映画も、昔は感動をめざしていたけれど、いまは快感を目的につくられているでしょ。面白ければいい、すぐに忘れられてもいい、と。でもね、昔の映画とかは、いま見返しても泣けちゃうんです。心に残る、何度でも見られる、それが本物の作品なんじゃないかなと思います。そんないい外国映画を見たときには、書きたいという創作意欲、情熱も湧いてくる。書ける間はまだまだ書き続けたいと思ってます」

 60年以上にわたって第一線を駆け抜けてきた脚本家は、たったいまも今夏放送予定の新ドラマと格闘している。卒寿を迎えた倉本聰は、いったいどんな問いを私たちに投げかけてくるのだろう。

取材・文/一志治夫

※週刊ポスト2025年1月3・10日号

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