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《『もう辞めたい』『私にはできない』中山美穂が泣いた日》14歳から39年見続けた“芸能界の父”が明かした素顔、「棺で眠る美穂はきれいでした」最期の別れ

NEWSポストセブン / 2024年12月30日 16時12分

 何度か事務所に来るようになった中山さんと母親の3人で食事をした時に「ママに家を建ててあげたい」と、涙ながらに夢を打ち明けたという。

「その言葉を聞いて、私はこの子の夢を叶えてあげたいと思い、人生を懸けてみようと決心しました。私の母親の旧姓が“中山”だったことが縁で、芸名は本名の『中山美穂』に決めました。しかし、大きな仕事は決まらず、小さなカタログなどの仕事をする日々。オーディションも1年間で20社以上受けて全部落ちましたが、美穂の身長は158cmと、それほど大きくないのに華があってどこにいても目立ちました」

 当時人気だったのは石川秀美(58)、堀ちえみ(57)らのような優しい印象がする“タヌキ顔” で、中山さんのような“猫顔”が受け入れられる時代ではなかったという。

「美穂は中森明菜にずっと憧れていました。レコード会社のオーディションではいつも『スローモーション』を歌っていました。担当者から明菜のレコードをたくさんもらってとても喜んでいましたね。だけど結果は『いいものを持っているけど、素で出しても難しい。まずはCMやドラマを決めてイメージを付けたほうがいいんじゃないか』と、断られ続けました」

 そんなオーディション終わりに中山と渋谷駅で別れ、途方に暮れていた山中氏にチャンスが訪れる。偶然、すれ違ったかつての部下から『TBSが中学生の女の子を探していて、明日オーディションがあるからどう?』と紹介されたのだ。

「部下に頭を下げて、翌日にTBSへ行きました。TBS前のアマンド前で待ち合わせをしていたら、学校帰りの美穂がセーラー服で現れ、爪に真っ白なマニキュアをしていたんです。これも運で、役がかわいらしい不良少女役でしたのでオーディションも盛り上がり、その夜に合格の電話が来ました。すぐに美穂を呼んで、事務所近くのステーキレストランで食べたディナーがこれまでの人生で一番美味しかったご飯です」

 そのドラマが思春期の性への関心をテーマにした、のちに世間を騒がせることになる1985年に放送された『毎度おさわがせします』(TBS系)だった。

「美穂はツッパリ娘の役でしたが、台本を受け取って2人で読んだら内容が過激すぎて、美穂も躊躇して“マズい”と思いました。急いでディレクターに『内容を変えていただけませんか』とお願いしましたが、『出演したい人はたくさんいるので、辞めていいですよ』と、断られました。小さな事務所でしたし、私は美穂を説得するしかありませんでした。撮影が始まると、大勢のスタッフの前でまだ中学生だった女の子が過激な演技を求められ、現場で泣いたこともあった。『もう辞めたい』『私にはできない』と、言い出すことも。でも、やるしかありませんでした」

 なんとかオンエアまでこぎつけた同ドラマの初回放送。一夜にして世界が変わった。それまで街を歩いていた中山さんは、視聴者に顔がバレてしまい、撮影が行われていた緑山スタジオまで電車で通えなくなり、事務所の電話も鳴り止まなかった。

 ドラマ終了後の1985年、中山さんは都立北園高校定時制に入学した。

「しかし、1学期で学校を辞めてしまい、『私は芸能界に就職する』と。仕事の空いた時間には、台本を読まないといけないので、2人で漢字の勉強をたくさんしました。美穂もたくさん努力して、病気以外で仕事を休んだとか、すっぽかしたというのは1度もなかったです。根性がある子でした」

 後編では、中山美穂さんと人気アイドルらとの恋愛を止めなかった当時事務所社長の思惑、彼女がプライベートで見せていた孤独感の理由、離婚後の息子との本当の関係などを語っている。

(後編に続く)

 

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