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《日本で最初の大規模ニュータウン》大阪の「千里ニュータウン」が限界化しない理由 1970年万博をきっかけに開業した鉄道

NEWSポストセブン / 2025年1月31日 7時15分

 なぜなら、ニュータウン住民の多くは勤め人だったからです。会社まで通勤できなければ居住(移住)できません。職場から遠い場所に団地を造成しても、交通手段がなければ意味がないのです。

 1962年9月に第一期入居が始まった千里ニュータウンは、大阪府吹田市・豊中市の広大な丘陵地に築かれました。ニュータウン以前の千里丘陵は都市化とは無縁の大地だったので、当然ながら公共交通は整備されていません。行政は、そこに万人もの人工都市を出現させたのです。

 高度経済成長期に計画がスタートした多くのニュータウンは、約半世紀を経て住民が高齢化しました。一部のニュータウンは「オールドタウン」と皮肉をこめて呼ばれるようになりました。

 最近は高齢化や人口減少なども顕著で、ニュータウンに以前のような活気は見られません。そうしたニュータウンは「限界集落」になぞらえて、「限界ニュータウン」と揶揄されるようになっています。

万博のおかげで開通した北大阪急行

 千里ニュータウンは限界ニュータウン化していませんが、以前に比べれば活気が乏しくなっているのは事実です。それでも多くのニュータウンが衰退している中、千里ニュータウンが今も10万2673人の人口を抱え(2024年、吹田市・豊中市千里ニュータウン連絡会議「千里ニュータウンの資料集」調べ)、ある程度の活気を保っているのは、北大阪急行電鉄によって大阪市中心部へのアクセスが抜群だからです。

 しかし、当初の千里ニュータウンは、公共交通を整備するという概念は希薄でした。それよりもモータリゼーションの時代に適合させるかのように道路整備に力を入れ、マイカーを中心とする都市計画に傾斜していました。

 道路整備に力を入れていた千里ニュータウンでは、住民が大阪市内へと通勤するのには一苦労でした。入居開始時にニュータウン内を走る鉄道はなく、その翌年となる1963年に、ようやく阪急バスが運行を開始します。しかし、同バスはニュータウン内を走るといっても南端の千里山駅から吹田駅に向かうルートでした。そのため、大阪市内への通勤には不向きだったのです。

 こうした公共交通の整備状況から、千里ニュータウンは長らく陸の孤島と化していました。それを解消する鉄道は1970年から走り始めます。

 千里ニュータウンに鉄道が整備されたのは、言うまでもなく千里丘陵を会場地にした日本万国博覧会(大阪万博)が1970年に開催される影響でした。大阪府は万博会場までの輸送を担う鉄道整備を迫られていたのです。

 大阪府は万博会場へと向かう鉄道を大阪市営地下鉄(現・OsakaMetro)御堂筋線・江坂駅から延伸させる予定にしていました。

 大阪府は大阪市に御堂筋線の延伸を打診しましたが、大阪市は採算面や千里丘陵が大阪市外であることを理由に拒否します。大阪市に袖にされた大阪府は阪急を頼り、大阪府も出資する第3セクターの北大阪急行電鉄を設立。そして御堂筋線の江坂駅から継ぎ足す形で万国博中央口駅までを開業させたのです。

 万国博中央口駅は会場の最寄駅として機能しましたが、万博閉幕後は少し位置を変えて千里中央駅になりました。駅名とともに役割も変わり、ニュータウン住民の足を担うようになるのです。これが今に至るまで交通至便なニュータウンという位置付けとなり、千里ニュータウンは全国のニュータウンが急速に衰えていく中で活気を保ち続ける要因にもなっています。

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