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《築地市場の誕生と鉄道との関わり》”貨物列車シフト”で作られたカーブを描く外観、早朝のセリに合わせたダイヤ調整も

NEWSポストセブン / 2025年2月6日 7時15分

 そんな過密都市・東京だったこともあり、約133万4000人が罹災、死者は5万8000人超という大災害になりました。

 日本橋魚河岸は地震によって損壊し、その後の火事で焼失。しかし、すぐにバラックで仮営業を始めた卸売商もいました。

 もともと日本橋魚河岸は、江戸時代から鮮魚の卸売市場だったので、震災以前から魚の汚臭や魚の処理に伴って発生する汚水を理由に中心部からの移転を求められていました。

 関東大震災で焼失したことを機に、日本橋魚河岸の移転計画は大きく動き出します。移転議論では、あまり遠くへ移転すると顧客が離れてしまうという懸念が出ました。そのため、日本橋から離れつつも以前の場所から近いことが新天地の条件に課されました。

 その条件をクリアしたのが築地です。築地には海軍省が保有する広大な用地があり、東京市は水運に恵まれているという立地も卸売市場に適していると考えました。海軍から借り受ける形で震災から3か月後には、臨時的に築地へと市場が移転します。しかし、これはあくまでも仮という扱いでした。なぜなら、築地への移転に抵抗感を示す日本橋魚河岸関係者が少なくなかったからです。

 同様に関東大震災で被災した京橋青物市場でも、同じ場所で商売を続けたいと考えていた卸売商が多くいました。

 こうして意見はまとまらないまま時間が過ぎ、また日本橋・京橋それぞれの足並みも揃わず、築地市場への移転は間延びしていきます。それでも1934年には築地市場の建屋が完成。築地への移転が既定路線になりました。

銀座にあった踏切

 築地に新設された建屋は、弧を描くように設計されました。弧を描くように設計された理由は、長編成の貨物列車が入線できるようにとの考え方に基づいています。築地市場内部に敷設された線路とプラットホームは、貨物列車に積載されていた農産物・水産物をそのままセリ場へと運べるような構造になっていました。

 築地市場で取引される鮮魚は、早朝に地方から同駅へと到着していました。そして、そこから再び各地へと発送されていきます。

 国鉄では早朝のセリに間に合うように貨物列車のダイヤを調整していました。戦後、東海道本線は夜行列車が多く走っていたこともあり、早朝に間に合うようにダイヤを調整することは至難の技でした。築地市場へと向かう貨物列車は時間厳守のため、国鉄のダイヤ作成担当者は常に頭を悩ませていたようです。

 築地市場の近隣には汐留貨物駅がありましたが、築地場内にも東京市場駅があり、1997年まで両駅では物資輸送が続けられました。汐留貨物駅から東京市場駅の間には都道316号線が横切っていて、1970年代以降は自動車が激しく往来する道路になっていました。運転本数が少ないとはいえ、この道路を貨物列車がゆうゆうと走り、その間は遮断機が降りて自動車の往来が塞がれていたのです。その自動車交通を止める役割を果たしていた踏切は名物になり、東京市場線が廃止された現在もひっそりと残されて過去の歴史を伝えています。

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