元飛行隊操縦員「戦場で生きたい本能を殺すのは苦衷の極み」

NEWSポストセブン / 2013年9月12日 16時1分

 いまや、総人口の8割近くが戦後生まれ。太平洋戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今でこそ、あの大戦を振り返るべく、元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみた。

 証言者:大澤昇次(93) 元海軍攻撃252飛行隊操縦員

 大正9年生まれ。昭和10年、横須賀海兵団に入団。13年、霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。18年、艦上攻撃機操縦員として空母「翔鶴」に乗り第一次ブーゲンビル島沖航空戦などに参加した。戦争体験を綴った著書『最後の雷撃機』(潮書房光人社刊)がある。

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 雷撃機は3人乗りで、操縦、偵察、通信をそれぞれ分担する。敵艦の進行方向や速度を計算し、魚雷が到達する1分後の位置を予測して発射するから、雷撃は難しい。

 初めての出撃は昭和18年11月5日夜。ブーゲンビル島沖の米艦隊を攻撃するため九七式艦上攻撃機で飛び立った。我々が出撃するのは常に夜間で、レーダーに映らないよう海面スレスレを進んだ。

 月のない闇夜だった。突然、敵弾が幾重にも飛んできた。敵艦船の速力も進行方向もわからないまま夢中で魚雷を発射し、帰還した。命中したかどうかもわからず、「戦争とはこんなものか」とフワフワした気持ちだった。

 5日後、2回目の攻撃ではじっくり偵察して1艦に突っ込んだが、エンジンに被弾。プロペラがスルスルッと空回りした。「もうダメだ」と思い、我ながらあきれるほど簡単に死を決意して、海面に激突すべく舵を切った。

 直後、機長で偵察員の渡辺譲大尉が「待て!」と叫んだ。それで我に返りなんとか着水。暗闇の海でゴムボートに乗り移ったが、どの道、助からないそう思った矢先、2㎞ほど先にうっすら島影が見えた。必死になって水を掻き、翌朝島に着いて九死に一生を得た。

 その後、19年10月の台湾沖航空戦や11月のフィリピン沖戦など何度も出撃した。「敵艦に3度雷撃して生還した者はいない」と言われたが、幸運が重なって生き残った。

「戦時中の日本人は強かった」と言われるが、決してそんなことはない。私自身、もし特攻を命じられたら……と脅えたこともある。特攻で悲壮な死を遂げた戦友らも、口には出さなかったし、遺書にも書いていないが本当は怖かったと思う。戦場で「生きたい」という本能を殺すのは本当に苦衷の極みだった。

●取材・構成/清水典之(ジャーナリスト)

※SAPIO2013年10月号

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