初代日本人メジャー 村上雅則の後野茂まで30年かかった理由

NEWSポストセブン / 2014年3月14日 16時0分

 今季デビューする田中将大を始め、日本人選手が大リーグでプレーする光景もすっかり珍しくなくなった。しかしこれも先人たちの努力があってこそ。日本人メジャーリーガー第1号の“マッシー”こと村上雅則氏について、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。

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 ヤンキースの田中将大がフィリーズとのオープン戦で2回無失点、3奪三振のデビューを飾った。サバシア、黒田博樹に続く3番手というリレーに、期待の大きさを感じる。公式戦に田中が登板すれば日本人では37人目だが、誰かがメジャーデビューすれば必ず思い出されるのが、“第一号”村上雅則の名前である。

 村上はメジャーリーガーになりたくてなったわけではない。“結果的に”なった男だった。1962年、村上は鶴岡一人監督の下で黄金時代にあった南海に入団する。当時の南海は、メジャーの戦略・戦術を積極的に学び、若手の育成を兼ねて野球留学を行なうなど、時代を先取りしたチーム作りを行なっていた。その留学生の1人に選ばれたのが、“左腕で面白い球(スクリュー)を投げる”と評価されていた村上だった。

 プロ入り2年目、1964年のキャンプ後半に渡米。当初は6月までの予定だったが、期限が過ぎても南海から帰国要請はなかった。「南海には大して必要とされていない」と判断した村上は、そのままアメリカでプレーを続行。ジャイアンツ傘下の1Aフレズノで11勝7敗、防御率1.78の成績を残す。するとそれがメジャーの目に留まり、ベンチの枠が広がる9月1日に合わせていきなりメジャーに昇格、ニューヨークでのメッツ戦のために招集された。

「ニューヨークに着いたのは夜中でした。一流ホテルのレストランで食事をしながら、何か契約書みたいなものにサインをしたのを覚えています」

 村上はこう話していたが、これがメジャーでプレーするための契約書だった。翌日のメッツ戦でメジャーデビューを果たすと、9月29日のコルト45′S(現アストロズ)戦で初勝利。この年は9試合に登板し、1勝1S、防御率1.80の好成績を残した。

 ジャイアンツは翌年も村上との契約を望んだ。実は留学生受け入れにあたり、南海とは「メジャーに昇格した選手がいたら、ジャイアンツが1万ドルで買い取れる」という取り決めがあった。そのため1万ドルを支払ったが、ここに来て南海も村上を手放すのが惜しくなった。

 結果、なんと南海も村上と契約。村上はいわば、日米での二重契約のような形になってしまった。一度は1万ドルを受け取っていたあたり、さすが商魂逞しき南海らしいといったところだが、ともかくこのゴタゴタが影響し、1965年終了をもって日本帰国が命じられる。結局、メジャーでは2年で5勝1敗、防御率3.43という成績に終わった。

 偉業を達成しながら、「契約でゴタゴタを起こした男」というイメージがアメリカで先行してしまったのは気の毒だった。その後1995年の野茂英雄まで、日本人メジャーリーガーが誕生しなかったのは、「日本人と契約すると揉める」というイメージが強かったためだとも聞く。

※週刊ポスト2014年3月21日号

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