「言語の死」という概念に疑義を突きつける稀代の書

NEWSポストセブン / 2018年8月4日 16時0分

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『エコラリアス 言語の忘却について』/ダニエル・ヘラー=ローゼン・著

【書評】『エコラリアス 言語の忘却について』/ダニエル・ヘラー=ローゼン・著/関口涼子・訳/みすず書房/4600円+税

【評者】鴻巣友季子(翻訳家)

 言語の忘却と記憶の影について書かれた独創的な言語哲学の書だ。喃語(なんご)期の乳児はあらゆる音声を発音する能力があるという。それが母語の音声システムに適応していくにつれ、母語にある音しか発音できなくなる。つまり、人間は発話能力を忘れることで、言語習得を開始するのだ──本書はそんな定義から始まる。しかしその記憶は完全に消え去るのではない。

 十か国語に通じた著者は、言語学、哲学、文学、神学、心理学など広い領域の文献を渉猟しながら、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、ペルシャ語、アラビア語などの古典言語から、ある谷の方言やコーンウォール語などのマイナーな言語の間を自在に行き来し、ひとつの言語には別な言語の「痕跡」が「谺(こだま)」として残っていると主張する。

 たとえば、コプト人はイスラーム教徒になった時アラビア語を話すことになった。このようなケースを著者は、弱い言語が強い言語に吸収されて消滅したとは考えない。コプト語の話者はコプト語をさまざまな形でアラビア語の中に連れていったはずである。それはアラビア語に組み敷かれたのではなく、近代エジプト方言を構成する「融合物」となったと、著者は考える。

 ひとつの言語の中には、別な言語の影がしばしば垣間見える。アルゼンチンのカスティリャ語にはイタリア語のリズムが感じられ、ロシア語のtcheという狭窄音を聞けば、ドイツ語のtschが想起されるかもしれない。

 二十数年前、米国政府は「現代ほど、地球全体を脅かすレベルでの大量の(言語の)消滅」に直面した時代はないと警告を発した。英語でもって諸言語を一番圧迫しているのは米国なのだが、ともあれ、言語の絶滅に対する懸念はこの四半世紀の世界的ブームだ。

 しかし本書の著者は「言語の死」という概念に疑義を突きつける。言語は一見忘却されながら、他言語に谺を響かせている。その谺の反響や共鳴が言語と文化の新たな生成に寄与するのだ。忘れることの創造性を説く稀代の書。

※週刊ポスト2018年8月10日号

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