オウム死刑囚・井上嘉浩 獄中記と「死後に届いた手紙」

NEWSポストセブン / 2018年12月20日 11時0分

 その自分が、ただ師に「つき従ったこと」を悔やみ、最後となった四度目の面会では、こう語った。

「本当に自分が“解脱”を求めていたなら、そして、おかしい、と思ったら麻原のもとを離れなければなりませんでした。そうあるべき自分が“そうではない、これについていかないといけない”と思い、若さで妥協してしまいました。

 しかし、“若い”からこそ、私は離れなければなりませんでした。お釈迦さまは、自分の師から離れ、自立していきます。師から学び、そこから自立してこそ、本当の弟子のはずです。それなのに、私はオウムの中でただ“盲信”してしまい、おかしいと思っても、黙っていました。そこに私の弱さがあったんです。その意味で、すべての罪はわが身にあり、と思っています」

 すべての罪はわが身にあり、と嘉浩は何度もくり返した。

「坂本弁護士事件も、私は、薄々気づいていました。これはおかしい、と心の中で思っていました。でも、その疑問を口に出さず、黙っていたんです。完全にわかったのは、もちろん逮捕されてからですが、なぜ、それでも(オウムから)離れられなかったのか、それが私の罪なんです」

 坂本事件(*2)にも触れながら、嘉浩はこうつづけた。

【*2/1989年、オウム真理教幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた坂本堤弁護士(当時33歳)の一家3人を殺害した事件】

「私が十六歳でオウムに出会ったこと、これも自己弁解にすぎません。私には、(師を)止められるはずだったと思います」

 私の脳裡には、その時の嘉浩の声が今も残っている。

◆罪の「償い」とは

 麻原、そして教団との対決の道を選んだ嘉浩には、常に激しいバッシングがつきまとった。それはオウムやその弁護士、さらにはマスコミにも及んだ。しかし、周囲の多くの支えによって目醒めたこの若者は、「真実を語り、二度とこのような犯罪を起こさせないことが自分にできる被害者への最大の償い」という信念で、法廷でさまざまな証言をおこなっていった。

 嘉浩は自らの「死」の直前まで、真実究明の闘いを展開した。最後まで争ったのは、目黒公証人役場事務長の假谷清志の死の真相である。一九九五年三月一日、前日にオウムに拉致された假谷は、中川智正の供述によれば、嘉浩に電話をかけにいった午前十一時前後の十五分ほどの間に舌根沈下を起こして死亡したことになっている。だが、嘉浩は、二〇一四年の平田信の第九回公判でこう証言した。

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