今上天皇、結婚直前に語られていた「天皇職業制」への希望

NEWSポストセブン / 2019年1月27日 7時0分

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かつて語られていた意外にも思える言葉とは(写真/JMPA)

 今上天皇が敗戦を迎えたのは、11歳のときだった。天皇制の行方も定まらぬなか、自らの将来をどのように描いていたのだろうか。『天皇メッセージ』著者であるノンフィクション作家・矢部宏治氏は当時の今上天皇の作文などから「自分の運命を早くから受け入れていた」と指摘しているが、天皇という「役割」については、戦後の新しい憲法のもと根本的に改革する意志を抱いていたという。

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 明仁皇太子(当時)は、25歳で美智子妃と結婚する直前には、

「ぼくは天皇職業制をなんとか実現したい。(略)毎日朝10時から夕方の6時までは天皇としての事務をとる。(略)そのあとは家庭人としての幸福をつかむんだ」

「ぼくは皇居内に住みたくない。皇居はなるべく早く開放して、大衆向きの公園に使ってほしい。(略)天皇になっても、ぼくは街の中に住む」

 と、親しい友人に対して語っていたと報道されています。(昭和34年(1959年)4月6日/結婚式の4日前の「東京タイムズ」)

 実はおふたりが結婚された1959年の翌年1月には、皇居東側の「東御苑」が一般に開放されることが閣議で決定されています(実際の一般公開は1968年から)。

 いつの日か、自分が即位するまでには、皇居全体を市民に開放したいと明仁皇太子が考えたとしても、けっしておかしくないような現実の状況があったわけです。

 けれどもその後の半世紀におよぶ歴史を振りかえってみると、美智子妃という最良のパートナーを得て、「家庭人としての幸福をつかむ」ことには見事に成功された明仁天皇でしたが、もうひとつの、

〈皇居は国民に開放して公園にし、自分は天皇になっても街中に住んで、そこから「職場」に通いたい。そして勤務時間外は普通の人間としてすごしたい〉

 という希望は、ついにかなえられることがありませんでした。

 テレビには、よく天皇皇后のおふたりが、35万坪ある広大な皇居の中を散歩されている様子が映し出されています。なかでも住居である御所をかこむ皇居の西側(吹上御苑)は、東京の都心部ではすでに消滅した、野生を残す森林地帯になっているのです。

 そこをふたりで歩きながら、いっしょにツクシをつみ、それをおひたしにしようか、炊き込み御飯にしようかなどと話しあわれる姿は、本当にほほえましい。

 けれどもよく考えてみると、その広大な「住居」から外の世界に引っ越す自由を、おふたりは事実上、もっていないのです。どんな庶民でももっている「住居を選ぶ自由」も「職業を選ぶ自由」も「言論の自由」もない。選挙権もない。

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