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日本人が“日本人の発想”を超えるには -日産副会長 志賀俊之

プレジデントオンライン / 2014年9月3日 16時15分

日産副会長 志賀俊之氏

■アベノミクスはラストチャンス

――サントリーホールディングスの社長に新浪剛史ローソン会長の就任が決まるなど、プロフェッショナルな社長が日本でも登場してきました。サントリーは同族企業の代表格ですが、佐治信忠社長がグローバル化を推進する役割を担えるトップとして、外部の新浪さんを起用した形です。

【志賀】今までは終身雇用の延長線として長年勤め上げたサラリーマンが、経営幹部や社長になっていました。しかし、これからは状況に応じて、プロの経営者を外部から招聘するケースは増えるでしょう。有力なサッカーチームが、監督や選手を世界から集めるのに似ています。しかも、決断された佐治社長は高級ビール市場を創出するなど、創業家出身のトップというだけではなく、真に実力のある経営者ですから。企業は人で決まるのです、間違いなく。

――理事長を務める日産財団でリーダーシップ養成講座を企画しています。その狙いは。

【志賀】グローバルリーダーの育成です。12月に開講しますが、米ペンシルベニア大学ウォートンスクールと早稲田大学ビジネススクール、そして日産が共同運営。ゴーンと私も講義を持ち、受講者と直接対話します。

今回これを企画したのは、2つの理由からでした。アベノミクスの第3の矢、成長戦略は、わが国が持続的に成長していくためのラストチャンスであると私は考えます。そのために重要なのが民間の活力。だから人づくりをしたいと思ったのです。もう1つは、自身の経験です。1997年にNECや花王など異業種の人たちと、GEのジャック・ウェルチについての勉強会を持ちました。社外との交流は大変な刺激となり、その後経営者になる私を支えた。それで、同じような開眼の機会をつくりたいと以前から温めていたからです。

――ケーススタディはNRP(日産リバイバルプラン)が中心でしょうか。

【志賀】NRPと、その後の中国参入のケースは盛り込みます。

――ゴーン社長との出会いなどを含め、当時についてお話しください。

【志賀】98年、私は経営企画室にいました。役職は次長。年齢は43歳。ルノーとの交渉団の一員でしたが、社内では交渉そのものが極秘でした。しかし、ルノーのルイ・シュバイツァー会長(当時)から、「(ルノー上級副社長だった)ゴーンを日産の役員に紹介しておきたい」との申し出があった。そこで、一計を案じ、「ルノーのコストダウン」という講演をする名目で、ゴーンは初めて日産に来たのです。98年10月でした。講演を企画したのは私でしたから、末席で聴きました。そのときのゴーンのエネルギー、そして迫力に私は圧倒され、塙義一社長(当時)に思わず、訴えました。「ルノーと組むのだったら、ゴーンさんに来てもらいましょう」と。

――半年後には現実となりますね。

【志賀】 アライアンスの調印が済み(99年)4月になると、ゴーンは日産再建に集中していました。経営企画室として問題だったのは、98年以降に中期経営計画を作成できなくなっていたこと。利益計画が立たないためです。中期計画は、やがてNRPとなって10月18日に発表されます。

――ゴーンさんの会見には私も出席しましたが、日本中が衝撃を受けた。

【志賀】NRPは村山工場閉鎖や人員削減、コストカットなど8割方はリストラの内容です。ところが、NRP発表と同時期ぐらいに、私たち経営企画は成長戦略の計画策定に着手していくのです。具体的には、米国にキャントン工場を建設していくという内容でした。村山は閉鎖するけれど、収益を見込める米市場には打って出ていく。内部にいて本当に驚きました。リストラを終わらせてから次に進むのではなく、同時に検討に入ったという点にです。リストラだけでは成長はできないというゴーンの考え方でした。

――日本人の発想を超えてますね。

【志賀】私は半年間で米国の計画を策定しました。しかし、もっと大きな動きが始まります。忘れもしない、2000年2月14日。そう、バレンタインデーでした。この日、私はゴーンに呼ばれて、常務になる内示を受ける。喜びもつかの間にその場で、「アメリカだけではダメだ。中国に出る」と突然、ゴーンから言われたのです。再び衝撃を受けました。考えてもいないことでしたから。しかも、「おまえが、中国をやれ」と、立案ばかりか実行を委ねられる。2カ月ほどで、中国参入戦略をつくり経営会議に提出しました。そのときには東風(汽車公司)が、パートナーとしてプランに入っていました。

――世界の主な自動車メーカーはみな中国に進出していたので、最後発の参入でしたね。最後に残っていた東風は名門でしたが、経営は厳しかった。

【志賀】他社と同様に、最初は東風と合弁子会社をつくるスキームで交渉を進めていく。ところが、中央政府との交渉では予想だにしない展開になる。NRPの1年前倒しによる成功がほぼ見えた01年夏でした。当時の国家経済貿易委員会主任だった李栄融さんと国務院副総理だった呉邦国さんは、日産再建で名を上げたゴーンの経営手腕に着目。ルノーが日産に資本注入したような包括的資本提携、すなわち日産が東風に資本を入れての東風再建を提案してきたのです。中国戦略で出遅れていたゴーンは、すぐにこれを受け入れる。この結果、従来にはない方式での展開ができ、日産は一気に中国事業を拡大させていったのです。

■ゴーンがいなければ、フツーの会社員だった

――日系で年100万台以上を中国で販売しているのは日産だけ。いま、中国では4位です。ところで、ゴーンさんに対して志賀さんはどういう思いを抱いていますか。

【志賀】ゴーンがいなければ、私は普通の人でした。部長にはなれたかもしれませんが。常務からCOOになってからも、本当に多くを学びました。NRPが成功した後、ゴーンは自身を「クラフトマン(職人)」と表現した。彼は経営のプロなのです。

――昨年、副会長になってから、大学で講義をする機会が増えているそうですが、どんな話をしているのですか。
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険しい「リーダーへの道」

【志賀】グローバル人材の育成が大半ですが、刺激的にやってます。例えば、軽自動車は日本でしか通用しないガラパゴスと言われますが、日本の大学生も同じくガラパゴスです。なぜ、軽は660㏄エンジンなのかわかりますか。国内の道路はみな舗装されているからなのです。ところが、外国の道はほとんどがデコボコ道。660㏄では走れない。日本の大学は、舗装された道を歩く学生ばかりを育てている。ある調査では、日本の大学生は授業以外に1日39分しか勉強していないんですよ。「志賀さん、ひどい!」と学生から非難されますが、刺激的でしょ。

12月のグローバルリーダー養成講座では、ケースを材料に自分の意見を持っていただきたい。グローバル人材、グローバルリーダーになっていく糸口に、私はダイバーシティ(多様性)があると考えます。違いを受け入れて、互いに距離を縮めていくのです。

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日産副会長 志賀俊之
1953年、和歌山県生まれ。和歌山県立那賀高校、大阪府立大学経済学部卒。76年、日産自動車入社。企画室長、アライアンス推進室長を経て2000年常務、05年最高執行責任者(COO)、13年副会長に就任。

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(日産自動車 取締役 志賀 俊之 永井 隆=構成 的野弘路=撮影)

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