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日本で「名門女子校」が生まれた理由

プレジデントオンライン / 2015年4月19日 10時15分

(左から)女子学院、神戸女学院

戦後になっても、男子のための中学校設立が優先され、女子は後回しにされた。そんななかでも「ハイカラ」な女学校文化が花開いた理由とは。

■女子校にミッション系が多い理由

戦前、女子は正式な「大学」に通えなかった。戦前から存在し現在に続く女子大学、津田塾や日本女子大や東京女子大などは、戦後になるまで正式には大学とは認められていなかったのだ。また、明治になって全国に急ピッチで学校が整備されてきたときも、男子のための中学校設立が優先され、女子のための中等教育機関は後回しにされた。

女子のための教育の整備に消極的な明治政府に対し、日本における女子教育の先鞭を付けたのがキリスト教各派の宣教師たちだった。いわゆるミッション系の学校が、明治の初期から設立されはじめた。現在でも女子校にミッション系が多いのはそのためだ。

1868年、アメリカ人宣教師の妻が築地の居留地内につくった英語塾が女子学院の始まり。横浜のフェリスも1870年にアメリカ人女性宣教師によって開かれた私塾「ミス・キダーの学校」がその祖。1871年には横浜共立の前身である「アメリカン・ミッション・ホーム」が設立されている。神戸女学院は1873年にできた私塾がそのルーツ。外国人が多い港町で、日本の女子校文化は産声を上げたのだ。

しかし富国強兵政策を支える良妻賢母の育成を求め、キリスト教教育を認めない国と、ミッション系の学校との間には常に軋轢があった。

1899年に高等女学校令が発布され、私立でも申請をすれば正式に高等女学校として認められる制度が整うが、たとえば女子学院は各種学校のままであり続けた。国による制約を受けずに独自の教育を行うことを選んだのだ。

ただしそれでは高等教育機関への入学資格が得られない。そこで女子学院は、5年間の「本科」の上に「高等科」を設置し、独自に高等教育を行ったのである。その高等科が母体となって、東京女子大学が設立された経緯がある。

神戸女学院は、1899年の高等女学校令公布に際して、国の定める高等女学校としての認可を正式に受けた。しかしその結果、キリスト教主義でありながら、式日には教育勅語を読まなければいけなくなった。キリスト教教育をやめるようにと、圧力もかかった。

そこで当時の院長は、「学院は政府から何も特典を与えられようとは思わないから、学院の宗教教育についても政府の干渉を何も受けたくない」とする書状を本国アメリカの伝道会に送った。伝道会もそれを認めた。

1903年に専門学校令が公布されると、1909年神戸女学院はその高等教育部門に当たる「高等科」を「専門部」として、専門学校としての認可を受けた。そして中等教育部門を専門学校に付属する「普通科」とすることで高等女学校の認可を返上し、政府の干渉から逃れたのだ。

こうしてミッション系女学校各校は、時の権力との距離を保つことで、独自の学校文化を発展させた。より詳細は拙著『名門校とは何か? 人生を変える学舎の条件』を参照されたい。

■多様で個性的な女子校文化が花開いた理由

ミッション系以外の女学校としては、跡見やお茶の水女子大の源流が明治の初期に登場している。

現在のお茶の水女子大である東京女子高等師範学校の同窓会「桜蔭会」が、関東大震災直後に設立した学校が、あの桜蔭である。桜蔭は、間接的ではあるが、お茶の水女子大学の伝統を受け継いでいるのである。大正デモクラシーの気運の中、女性解放運動の盛んだった時期、国による女性教育の足らざる部分を拡充したい思いもあったのだろう。

埼玉県立浦和第一女子高校(以下、浦和一女)は、1899年の高等女学校令を受けてつくられた。明治以降、埼玉県は教育環境として劣悪だった。政治的な対立のせいで、学校の設立がなかなか進まなかったのだ。

埼玉県立浦和第一女子高校

1925年、県の財政難のために、県下に5つあった女学校のうち、4つの修業年限が4年間に縮小され、上級学校には進学できなくなった。県下で唯一、上級学校への進学資格が得られる高等女学校が浦和一女だった。つまり県下の才女がこぞって浦和一女を受験するようになったのだ。以来、浦和一女は、一度も、入試の際に定員割れを起こしたことがない。押しも押されもしない名門女子校として知られるようになった。

戦後公立高校は一律共学化されたが、浦和一女は女子校であり続けた。しかも「一女」というナンバースクールとしての名称も保持した。浦和一女の伝統に対する誇りと頑なさが感じられる。

こうして戦前にはたくさんの女学校が作られた。大正初期にはすでに、男子中学校317校に対し、それと同等の教育を行う高等女学校は330校であった。男子のための中学校より、女子のための高等女学校のほうが多かったのである。しかも高等女学校はどこも華やかで個性的だった。

つまりこういうことだ。男子のための中学校は、国の規定により厳しく設立や運営が厳しく管理されていた。しかし女子のための学校は、国としての優先順位が低く、管理も緩かったからこそ、百科絢爛の「ハイカラ」な女学校文化が花咲いたわけである。

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おおた としまさ
教育ジャーナリスト

麻布高校卒業、東京外国語大学中退、上智大学卒業。リクルートから独立後、数々の教育誌の企画・監修に携わる。中高の教員免許、小学校での教員経 験、心理カウンセラーの資格もある。著書は『名門校とは何か? 人生を変える学舎の条件』『男子校という選択』『女子校という選択』『進学塾という選択』など多数。

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(教育ジャーナリスト おおた としまさ)

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