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なぜ北海道帯広の英語学校に1000人の生徒が集まったのか

プレジデントオンライン / 2015年6月29日 16時15分

三宅義和 イーオン社長

地方の人口が減り続けている。政府は「地方創生」を成長戦略の柱と位置づけ、地方活性化の取り組みが始まった。北海道帯広市の英会話学校「ジョイ・イングリッシュ・アカデミー」は1977年に開校され、多くの受講生を抱えている。学院長の浦島久氏に話を聞いた。

■サラリーマンとしての挫折

【三宅義和・イーオン社長】地方創生が国の成長戦略の重要な柱になっています。そこで今回は、北海道帯広市で「ジョイ・イングリッシュ・アカデミー」という地域に根差した英語学校を経営している浦島久さんにお話を伺います。浦島さんは北海道出身で大学卒業後は大手企業に就職をされたわけですが、その後Uターンを決意されて帯広に戻ってこられ、語学学校を始められました。なぜUターンを決意され、語学学校を始めようと思われたのかを教えていただけますか。

【浦島久・ジョイ・イングリッシュ・アカデミー学院長】サラリーマンとしての挫折でした。実は大学時代に英語を勉強して、卒業後は国際ビジネスマンをめざして松下電器産業(現パナソニック)に入りました。けれども、残念なことに国際部門へ配属されず、国内営業の部門でのセールスマンを命じられたのです。正直がっくりきてしまいました。そのときが人生で一番腐っちゃったときです。夢も破れてしまって、営業マンとしての成績も最悪でした。

【三宅】そんなことはないでしょうけど。

【浦島】セールスマンを1年ぐらいやっていましたが、売り上げがまったく伸びず、もうどうにもならないところまで追い込まれました。このまま会社にいてもダメかなと思って、退職を決断したわけです。それが23歳のときです。

僕はずっと生まれも育ちも北海道でした。北の大地で生活していた頃は自分たちが北海道という島に住んでいる「島民」だという感覚がなかった。ところが本州に行って初めて自分たちは島民だとわかりました。同時に、故郷を離れて初めて北海道の良さというのがわかったのです。松下電器時代の勤務も大阪だとか横浜でしたから。

【三宅】宇都宮にもいらっしゃった。

【浦島】いました。北海道民にとって、緑が多いということは当たり前です。ところが大阪なんか行くと、緑はとても少ない。気候にしても、僕は本州には合わなかったのでしょう。そこで心機一転、北海道に戻ろうって。Uターンに際して、じゃ、何ができるのかと考えているとき、たまたま宇都宮で英会話学校をちょっと覗いてみました。その英会話学校は残念ながらイーオンではなかったですが(笑)、そこの校長先生がもうニコニコしながら生徒さんたちと話している姿を見て「これだ!」と思いました。これを地元でやってみたいと。

ただ英語関係の学校をやろうにも、僕自身は教員の免許も持ってないし、英語を教えたという経験もない。唯一、大学時代に英語研究会といいますか、英語クラブに籍を置いていたぐらいです。それでも24歳になる3日、4日前、いまだに覚えていますけど、1976年11月30日に松下電器を辞めて、12月1日には北海道に戻りました。12月4日が誕生日だったものですから、とにかく24歳になる前に地元に戻って、新しいチャレンジをしようと。お陰でボーナスはもらえませんでした(笑)。

■英語は喜んで学ぶのが一番です

【三宅】普通はボーナスをもらってから辞めますよ。そこがまた、浦島先生らしいところですね。

【浦島】みんなに「バカだ」と言われました。「ボーナスをもらわないで独立すると資金面で致命的になるよ」なんて言う人もいましたね。だけど、やっぱり自分としてはあんまりいいビジネスマンじゃなかったし、会社には迷惑をかけてきたから、ボーナスはもらいづらいなというのが正直なところでした。

実は辞める前に、少しずつ準備はしていたのです。大学の先輩に公認会計士がいて、彼が「やるんだったらスーパーの2階なんかで開校するのではなく、はじめから教室、いわゆる校舎を建てろ!」とアドバイスしてくれたのです。「借金してでもそうしろ」ということで、校舎の建設資金として700万円を借りました。もちろん20代前半の若造ですから、銀行も貸してくれません。父親が借り、それをまた借りし、僕が父親に返していくというような感じでのスタートでした。翌年4月、実際には3月23日がオープンの日でしたが、その時点で教室がひとつと待合室がひとつ、それから事務室という施設ができていました。

浦島久 ジョイ・イングリッシュ・アカデミー学院長

【三宅】学校の名前が「ジョイ・イングリッシュ・アカデミー」。ジョイという名前にした由来は何ですか。

【浦島】最初は「イングリッシュハウス」という名前を考えました。これはいわゆるスクールじゃないと。そんな大きな学校でもないし、まさに家だと。ところが、大阪に「イングリッシュハウス」という英語学校があったのです。そこで、イングリッシュハウスだけではまずいということで、イングリッシュハウスに何か足そうということを考えたわけです。

ところが、これがなかなかいい案が出てこなくて、頭に浮かんだ単語をいっぱい並べて考えました。ケンブリッジとオックスフォードを重ねてケンフォードとかオックスリッジとか(笑)、そんな試行錯誤をしていました。最終的に「イングリッシュハウス・ジョイ」に行き着いたというのは、英語の楽しさを感じて欲しいということです。当時も受験を考えると、英語学習自体が苦しみというか、我慢しながら勉強するというようなイメージがありました。これからの時代はより楽しくやる。喜んで学ぶのが一番だという気持ちを込めたつもりです。

【三宅】イングリッシュは喜びであり楽しみだと。そういうことだったのですか。

【浦島】その後、だんだん学校が大きくなって、子どもだけでなく、社会人やシニア層も増えいきました。そこで、「ジョイ・イングリッシュ・アカデミー」という少し格調高い校名にしたのです

【三宅】創業時には、どんな御苦労があったでしょう。

【浦島】やっぱり一番の苦労というのは、英会話学校で働く先生たちの社会的な地位が低かったということですかね。当時、どうしても塾として見られるし、塾の講師っていうのは、中学校とか高校の教諭がリタイアしてやるという世の中の認識でした。それで「若い人がやるような仕事じゃない」って言われたことを覚えています。

なんか社会悪みたいな感じで見られていたので、僕自身もあまり目立たないようにしなければいけないのかなという感じがありました。昼間に床屋さんに行くと「今日は休みですか」と聞かれたりするわけですよ(笑)。それからうちで働いている女性講師の親御さんが訪ねてきて泣かれたことさえありました。「こんなところでは、うちの子がかわいそうだ」と。

【三宅】そんなことがありましたか。

【浦島】そういう意味で、ずっと僕が考えていたのは、この仕事を通じて当校の先生や職員が、周囲から「立派な仕事だ」って言われるようなところまで持っていきたいなっていうことでした。

■日本一広い駐車場を持つ英語学校

【三宅】それがいまでは、生徒が1000人近くになったのですからね。その間、順調に少しずつ伸びてきたのか、それともある時期に何かのきっかけがあってぐんと受講生が増えたのかどちらだったのでしょうか。

【浦島】イメージとしては、年間80人ぐらいずつ増えていったって感じですよね。あんまり急激に伸びたというよりは、少しずつというか、これが急激だったら今ごろ失敗していたかもしれません。少しずつ上がって、ここに来て少しずつ下がっています。急激に下がったらこれまたやってこられなかったと思いますが、一時1100人ぐらいまで行って、現在は900人ぐらいですかね。

【三宅】人口17万人でしたか、帯広の町は。

【浦島】もう17万人切りました。少子化で子どもたちが少なくなってきているのはどこも同じですね。学校は住宅街にあるのですが、僕が戻ってきた頃には、どの家にも子どもがいっぱいいて、とても活気のある地域でした。ところがいまや、子どもの数がかなり減りました。

【三宅】でも教室には、夕方になると帯広中からお母さま方がクルマを運転して来て、駐車場がいっぱいになる。100台置けるそうですね。

【浦島】帯広中からだけじゃなくて、近隣の町村からも1時間ぐらいかけてみんなクルマで来るというような感じです。よくジョークで言うのですが、うちの売りと誇りは2つだと。ひとつは日本一広い駐車場を持つ英語学校ということ。それともうひとつは暖炉がある。暖炉まであるところはないでしょう。

【三宅】待合室にはピアノもあります。クリスマス会とかいろんなパーティとかイベントも皆さんの楽しみでしょう。

【浦島】スペース的には、あと2つぐらい教室にできたのですが、教室にしないで待合室にして暖炉をつくりました。いちおう僕の夢だったのです。

【三宅】「ジョイ・イングリッシュ・アカデミー」では、小さい子どもさんからビジネスマン、さらにシニアと幅広い年齢層が受講しています。これはイーオンも同じで、受講生のレベルもいろいろですし、目的もほんとに趣味でのんびりと長く続けたいというシニアの方から、大学受験でなんとしても英検準1級、一流大学に受かるぞという高校生も来ています。こうした受講生に対しての、浦島さんのところの英語教育の特長はどんなものでしょうか。

【浦島】一番の特長は、地域に根差していることです。地域の人たちのためを考えて、地域のニーズに合わせてやるということを大切にしています。もうひとつは、普通の人が気軽に通える英語学校。つまり、授業料を抑えていることでしょうか。なぜなら、英語を学びたい人なら誰でも来られる学校にするというのが僕の考え方でした。ですから極力、広告宣伝費もかけてない。宣伝費というのは春に1度出すチラシぐらいです。

【三宅】それにもかかわらず、知名度が抜群ですので、帯広の人にとって「ジョイ」に通うことは一種のステータスで、もう知らない人はいない。

【浦島】いやいや、とんでもありません。どうにかこうにか39年間続けることができただけですよ。

【三宅】地方都市、しかも東京から離れた北海度の町で事業を興されて成功する秘訣は何でしょうか。

【浦島】これは僕が日頃から考えていることですが、地域の人に誠実であるということですね。小さな町だと、仕事だけじゃなくて、僕自身の生活態度も見えてしまいますね。だから、仕事でどんなに格好いいことをしようと、実際の私生活でどこかの居酒屋などで酔いつぶれていてはまずい。もちろん、僕はお酒は飲まないので、そんなことは100%ありえませんが。

ですから、僕が大事にしているのは、普通の私生活で常に人の眼があるということも意識しながら生活すること。それから地域の人たちを裏切らない。とにかくそれはずっと意識してやってきました。

(イーオン代表取締役社長 三宅 義和 岡村繁雄=構成 澁谷高晴=撮影)

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