解明! なぜ「東芝の悲劇」が繰り返されるのか
プレジデントオンライン / 2015年12月21日 15時15分
■歴史は繰り返される「東芝の悲劇」
東芝の不適切会計の不祥事は西田厚聰、佐々木則夫という2人の大物元社長の確執が発端として表面化した。
西田が社長に抜擢した佐々木と対立。その後、佐々木は副会長に棚上げされる形で、田中久雄が社長に就任。その後、西田が会長を退任するときには、社外に出ていた室町正志が会長に返り咲き、佐々木はそのまま副会長に留任するという屈辱的な人事が行われた。
こうした権力闘争の中で、西田、佐々木、田中といった経営者たちが無理やり実績をつくろうとしたところから売り上げの水増しなどが行われる誘因となっていたとみられている。
しかし西田、佐々木、田中の元社長3人が去った今でも、東芝に対する強い不信感を感じるのはなぜなのだろうか。
今から約50年ほど前に、一人の経済評論家が現在起こっていることを予知するかのような人事抗争の内幕「東芝の悲劇」を書いている。著者の名は三鬼陽之助。財界研究所所長で、財界や産業界などのトップの間では「財界の鬼検事」と呼ばれていた男だ。
三鬼の著書『東芝の悲劇』によると、当時の東芝は会長の石坂泰三と社長の岩下文雄の確執が東芝の業績悪化を引き起こしたと指摘している。
「東芝という会社は、日立製作所、東京電力、八幡製鉄とともに、日本の代表的大会社であるが、押しよせた不況に、業績が急悪化し、その悪化の最大原因が、首脳人事部にあると取りざたされていたからである」(「東芝の悲劇」より)
石坂が土光敏夫の社長就任を公表したのに対して、岩下が真っ向からこれを否定。10日間にわたって攻防が繰り返され、結局土光が社長に就任した。この背後には石坂と岩下の確執があったといわれている。
■石坂泰三vs岩下文雄の確執
石坂は1949年に第一生命保険から社長として招聘されたいわばよそ者だ。帝国大学法学部を卒業後に逓信省に入省、岡野敬次郎法制局長官の紹介で第一生命保険相互会社(現・第一生命保険株式会社)の矢野恒太社長に紹介されたのが機縁となり、1915年(大正4年)逓信省を退官し、第一生命に入社し、矢野社長の秘書となり、38年に社長に就任する。
戦後、吉田茂から大蔵大臣就任を打診されたが拒否。三井銀行(現・三井住友銀行)頭取佐藤喜一郎と東京芝浦電気(現・東芝)社長津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年)東京芝浦電気取締役、翌年社長となる。東芝は当時、大労働争議のため労使が激突し倒産の危機にあった。あえて火中の栗を拾った形となった石坂は、真正面から組合と交渉し、6000人を人員整理し、東芝再建に成功した。
一方で岩下は東芝の生え抜きで重電出身。東芝の中でも重電はエリートコースで「副社長時代に、社内の実務の9割9分握っていた」(『東芝の悲劇』より)という。
一高から東京大学の政治学科を卒業し、東芝の前進、東京電気に入社。1945年には若くして取締役に抜擢され、その後常務、専務、副社長と昇進。1957年に石坂の後を受けて社長に就任した。
「岩下は石坂のように押し出す、恰幅がない。弁も立たない。人前でしゃべることもへたくそである。性格的にはあかるさにとぼしい。……だからといって岩下は、社内では実力者である。再建の功労が石坂に全部規せられたような世間の評判に、不満をいだいた。……二人の仲は、だんだん悪くなっていった。しかし、決定的に悪化したのは、昭和39年の秋であった。石坂は、土光を後任社長に推して、岩下退陣を迫ったのである」(『東芝の悲劇』より)
しかも1962年をピークに東芝は売り上げと利益を急速にダウンさせた。もちろんこれは東芝にかぎらず、日立製作所や三菱電機も同じだったが、問題なのは、ライバル日立がすぐに業績を回復させ、水をあけられたことだった。
「東芝のライバルは、あくまでも日立である。過去もそうであったし、現在もそうである。自動車のトヨタと日産である。東芝の敵は三菱ではなく、あくまで日立である。天下の大東芝を自負するものが、まけいくさになって、いまさら、敵をかえるのはひきょうである。岩下が、連続減配で経営責任をうんぬんされたときに、そのなかに、日立に負けたという意味がたぶんにあったことはうなずけるのである」(『東芝の悲劇』より)
ではなぜ東芝が泥沼にはまり込んでいってしまったのか。三鬼は「東芝の悲劇」の重大原因として、石坂が社長を岩下文雄に譲ったことにあるという。その結果、岩下の側近政治でゴマスリばかりが周りに集まり、有能や人材を登用できなかった。しかも重電の役員たちの暴走が始まる。
当時、重電では大谷元夫副社長をトップに青木孝一、田中俊夫といった役員たちが結束、設備資金の大部分を獲得し、暴走した。この設備投資が東芝にとっては大きな傷となる。
■「大東芝」という体質は残った!
なぜ、岩下はこの暴走を止めることができなかったのか。
東芝には1939年に重電の芝浦製作所と軽電力の東京電気が合併し、東京芝浦電気となった。重電と軽電という2つの事業部は対立が続いていたという。
石坂さえも「東芝は、合併、発展、巨大になった会社である。各事業部をエントツに例えれば、大きな事業部が何本も立ち並んでいる形だ。いきおい最高首脳は、その煙を集めて判断する、受身経営に追い込まれる。僕でさえ、この社風に苦労したよ」(読売新聞)と語っている。
さらに石坂は「日立が時勢の流れを見きわめて、締めるときには締めていたのにたいし、東芝は日立に追いつくあせりがから、ひたすら売りまくり戦法にでて、みずから傷を深くした」と批判をしている。
三鬼はこう言う。
「東芝は石坂の表現どおり、エントツが、勝手に煙をはいていた。まさに、合併会社の悩みである。トップは、その煙にあてられて、判断をくもらせてきたわけだ。その代表例が重電の設備投資だったといえる。計画や予算が、事業部の中でねられ、それが上にあがっていくと、調整がなかなかむずかしかったといわれる。いきおい、トップは受身になっていたし、ならざるをえなかった」(『東芝の悲劇』より)
これが景気の悪化で一気に加速したが、派閥の長である岩下は大ナタを振るうことはできなかった。
しかも東芝の名門意識が組織を硬直化し、耳に痛いような情報はトップに届かない組織になってしまい、組織改革ができないような仕組みとなっていたという。
三鬼は東芝には戦前から「大東芝」という意識があり、石坂は経営の立て直しには成功するが、東芝のそうした体質を変えることができないまま、岩下に引き継いでしまった。そこに大きな問題があったことを指摘している。
「人間に歴史が尊重されると同様、企業にも、歴史が尊重され、伝統が高評価される。企業とは歴史、伝統の累積ともいえる。しかし、皮相に考えると、歴史はアカ(垢)の累積である。そして、このアカは、見方によると貴重であるが、へたをするとやっかい千万である。東芝はなるほど天下の一流企業であるが、現在、転落の悲劇がうんぬんされるのは、要するに、悪い意味のアカがたまりすぎたからである」(『東芝の悲劇』より)
まさにその指摘は今の東芝にも通じる。果たして、このアカを取り除くような改革ができるのか、東芝は今、それが問われているのだ。
(ジャーナリスト 松崎 隆司 撮影=宇佐見利明)
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