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民進党は"9条"で分裂する必要はなかった

プレジデントオンライン / 2017年10月19日 15時15分

2015年7月、衆議院平和安全法制特別委員会での採決に抗議する民主党議員たち(当時)。(写真=時事通信フォト)

総選挙を前に「改憲派」(希望の党)と「護憲派」(立憲民主党)に分裂した旧民進党。その分裂を用意したのは2015年の安保法制をめぐる喧騒だったと、東京外国語大学の篠田英朗教授は指摘する。当時朝日新聞が行った憲法学者へのアンケートでは、集団的自衛権の行使は合憲だと答えた学者は122人中2人だけ。他のメディアの調査でもほぼ同様の結果だった。民進党の前身であった民主党もこの路線に沿った議論を展開したが、それでも篠田教授は「合憲」だという――。

■憲法論議を歪めた「試験に出る憲法学」

2015年安保法制の喧噪は、結果的に、2017年選挙をめぐる民進党の分裂を用意した。集団的自衛権は違憲だ、と主張する憲法学者たちは、多くの野党議員たちに一瞬の高揚感を与えた。だが憲法学者などの権威を信じて、自分たちの政策の正統性を確信したのは、浅はかな火遊びでしかなかった。

公務員試験や司法試験の準備をしているだけなら、「迷ったら芦部説(*1)をとっておけ」、と指導する予備校講師にしたがえばいいのだろう。試験に通るという目標にそって、試験委員の面々を確認すれば、それは合理的な指導だ。今までもそうだったし、これからもそうだろう。

だが政策論は、試験対策とは異なる。それどころか、実際の日本国憲法典ですら、試験対策で語られる「憲法学」とは異なる。

大多数の憲法学者が集団的自衛権は違憲だと考えていることを示したアンケートがあった。違憲とは言えないと述べた少数の憲法学者のところには、脅迫状が届き、警察の保護が入った。「大多数の憲法学者」とは、日常的にはプライバシーの権利などを研究している方々である。自衛権の専門家ではない。

自衛権は、国際法上の概念である。日本国憲法には登場しない。しかしマスコミは国際法学者の専門家の意見を求めたりはしなかった。倒閣運動に結集した憲法学者たちの「集団的自衛権は違憲だ」という声だけを報道し続けた。ニュースバリューがある面白そうな場面だ、と思ったからだろう。だがそんなその場限りの面白味が、何年も続くはずはない。

■集団的自衛権が「違憲」とされたのはいつからか

拙著『集団的自衛権の思想史』で明らかにしたように、集団的自衛権が違憲だという解釈が政府見解として固まったのは、1972年である。違憲論が政府答弁で目立つようになったのは、ようやく1960年代末のことである。なぜか。ベトナム戦争の最中に、アメリカに沖縄返還を譲歩させつつ、国内的には安保闘争後の高度経済成長時代の機運に乗っていくことが政策的な方向性だったからだ。

「政府統一見解ではない」と断って披露した1954年の下田武三条約局長の発言(*2)一つだけで、「政府」は一貫して集団的自衛権は違憲だと考えていた、などと主張する論者もいるが、歴史認識として間違っているというよりも、意図的な操作だろう。1940年代・50年代の政府関係者や言論人たちの発言を見ると、集団的自衛権が違憲だというコンセンサスがあったという形跡はない。国際社会への復帰を目指していた戦後初期の日本においては、国際法規範の受入れこそが問題であった。自衛隊は違憲か否かの争いがあったとしても、集団自衛権という権利の行使が違憲になるという認識はなかった。

一方、1960年代末の時代背景を考えれば、日本の集団的自衛権行使の否定は、つまり日本がベトナム戦争に参加する可能性を否定することであった。1969年以降の佐藤政権は、内閣法制局長官の高辻正己を通じて、憲法は集団的自衛権を認めていないという結論を強調していった。ベトナム戦争によって悪化した集団的自衛権のイメージと、反安保・反沖縄返還運動が交流して東大安田講堂事件が進行中であった当時の世情不穏を考えれば、まずは憲法が認める自衛権は個別的自衛権のみで集団的自衛権発動の可能性はない、と断言することに、大きな政治的意味があっただろう。佐藤首相は内閣法制局の憲法解釈を尊重するように振る舞ったが、それは法制局の法的見解を佐藤が政治的に欲していたことの裏返しでもあったはずだ。

■佐藤栄作の「方便」が、なぜか金科玉条に

集団的自衛権違憲論は、アメリカが日本の共産化を恐れていた冷戦時代の産物である。密約を積み重ねて沖縄返還を達成した佐藤栄作に対して、アメリカ側が不満を持ちながらも怒りを爆発させなかったのは、自民党政権を追い詰めて日本に共産主義革命を起こしてしまうことを何よりも恐れていたからだ。そこにつけこんで、 ベトナム戦争においてアメリカの軍事行動を阻害はしないが、積極的には何もしないという姿勢を堅持しつつ、不可能と言われていた沖縄返還を達成した佐藤の狡猾さは、集団的自衛権を憲法が禁止していると信じる憲法学者たちを、後世に大量に作り出す結果をもたらした。

集団的自衛権はなぜ違憲だと言えるのか。それは自衛権を「例外」として認めるという独特の考え方の帰結である。憲法9条が全ての武力行使を全面的に禁止していると考える東大法学部系の憲法学の伝統では、自衛権は後から留保をかける程度のものでしかない。留保が、国連憲章51条(*3)そのままだとは言いたくないらしいので、個別的自衛権と集団的自衛権との間に超えられない一線があるといった、「ガラパゴス」自衛権論を掲げる。

個別的自衛権と総称される、憲法学者が例外として認める自衛権とは、いったいどんなものなのか。拙著『集団的自衛権の思想史』で論じたが、例外の設定にあたっては、プロセイン憲法を模倣して大日本帝国憲法が制定された際に、ドイツ留学者によって編成された沿革を持つ東大法学部の特徴が発揮される。ドイツ国法学の伝統では、国家は単に法人格を持っているだけではなく、実際に意思する実体であるかのように語られる。ヘーゲル流のドイツ観念論の強い影響下で、有機体的な国家観が、標準理論だとされる。

国際政治学者や国際法学者が、排するべき危険な邪説として警戒する「国内的類推(domestic analogy)」の純粋形態である。つまり国家を大真面目に、自然人と比較し得る人格を持ったものだと仮定する。その仮定を基盤にして、法体系を構築するのが、ドイツ観念論的な特有の発想法である。

■自衛権をめぐる奇妙な「物語」

国家を生きる実体だと考えるから、憲法典に書かれていないが、国家が自分自身を守る自然権を持っていることは認められる、といった観念論的な発想が生まれる。国家が自分自身を守るという自衛権は、自然人が自分自身を守る正当防衛と、完全な相応関係にある、などとされてしまう。憲法典には書かれていないが、国家が自分自身の存在に内在する自然権を基本権として行使することは、憲法典も例外として認めるはずだ、というのが、自衛権を合憲とする憲法学者の論理構成である。

この発想を絶対視する学会にだけ属していると、「単なるドイツ観念論の発想」が、あたかも不変の絶対法則であるかのようなものとなる。「個別的自衛権は国家が自分自身を守る自然権的な基本権の行使と言える」「集団的自衛権は国家の自然権的な権利ではない」、といった、フィクションにフィクションを積み重ねるかのような物語が構築されていく。

石川健治・東京大学法学部教授によれば、国連憲章における集団的自衛権は、政治的に「自衛権」の規定に「潜り込ませ」られたに過ぎず、「国際法上の自衛権概念の方が異物を抱えているのであって、それが日本国憲法に照らして炙りだされた、というだけ」なのだという(*4)。つまり憲法学者の自衛権の理解によって国際法の自衛権の理解を制限すべきことを示唆するのである 。

国内法の正当防衛に集団的正当防衛がないのだから、本来は集団的自衛権は存在するべきではなかった、という一方的な推論で、国際法が否定される。異物を抱えているのが国際法で、純粋で美しいのが日本国憲法だ、といったガラパゴスなロマン主義が蔓延することになる。

■最初から的外れの憲法解釈

憲法学者の問題性は、国際法の論理を理解しないということだけにとどまらない。初めの一歩のところから的外れである。国家は自然人と同様に意思する有機的実体、などではない。ほんらい日本国憲法が依拠している考え方では、国家とは一つの制度に過ぎない。国家の存在目的は、国家という制度を構成して運営している自然人たる人間である。

国際法ではどうだろうか。国家の基本権のようなものを認める国際法は、古い19世紀的な国際法である。現代国際法では、人権法や人道法も発達し、国家は自然人を守る制度として認識されている。

集団的自衛権が違憲となるのは、日本の「憲法学」の世界観である。現代国際法の世界観ではなく、国際協調主義を謳う日本国憲法典の世界観でもない。ほんとうの憲法は、国際社会の法秩序と協調して平和を達成していくことを宣言している。

(*1)日本の憲法学の代表的教科書である岩波書店『憲法』の著者、故・芦部信喜東京大学法学部第一憲法学講座担当教授(1923-1999)の憲法解釈。
(*2)第十九回国会 衆議院外務委員会議事録第57号(昭和29年6月3日)
(*3) 国際連合憲章第51条「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない」
(*4)「座談会 憲法インタビュー―安全保障法制の問題点を聞く―:第2石川健治先生に聞く」、『第一東京弁護士会会報』、2015年11月1日、No.512、5頁。

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東京外国語大学教授 篠田英朗(しのだ・ひであき)
1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』(講談社選書メチエ)、『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保」(風行社)、『ほんとうの憲法 ―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。

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(東京外国語大学教授 篠田 英朗 写真=時事通信フォト)

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