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超大企業が海外NGOに社員を送り込む狙い

プレジデントオンライン / 2017年12月12日 9時15分

ジャーナリストの田原総一朗氏とNPO法人クロスフィールズ代表理事の小沼大地氏

パナソニックや日立製作所といった大企業が、若手社員を新興国のNPOやNGOに派遣する「留職」を始めている。平均期間は約3カ月。短期間だが、確実に社員の意識を変えるという。プログラムを手がけるのは、外資系コンサルティング会社出身の35歳。なぜエリートコースを捨てて、挑戦したのか。ジャーナリストの田原総一朗氏が聞いた――。

■シリアで見つけた人生の目標

【田原】小沼さんは小学生のころ、その後の自分のキャラクターを方向づける経験をされたそうですね。

【小沼】小学1年生の国語の授業である文章の感想を聞かれて、少し変わったことを話しました。すると先生は、模範的な回答をしたほかのクラスの子と僕を討論させた。いまでいうディベートです。最初はクラス40人が半分に分かれて議論していましたが、僕の側は1人減り、2人減りで、最後は1対39に。このまま続けると泣いてしまうギリギリのタイミングで、先生が「はい。小沼君に拍手」といってタオルを投げ入れてくれました。

【田原】それでどう思ったの?

【小沼】授業の後、友達から「おまえ、意外にやるじゃないか」的なことをいわれました。そこで感じたのは、変わった主張でも、それをいい続けると賞賛されることもあるということ。承認欲求が満たされたことが気持ちよくて、それから人と違っても臆せず自分の意見をいい続けることが僕の軸になりました。

【田原】大学は一橋大学。友達はみんな就職したのに、小沼さんは青年海外協力隊に入った。なぜですか?

【小沼】もともと教師になりたかったのですが、少しは就活しようと思って、部活のOBに会いました。大企業のサラリーマンから学校の先生までさまざまな先輩に会いましたが、話が1番おもしろいと思ったのが青年海外協力隊の方でした。会社の人は「うちの会社は~」、先生も「うちの学校は~」と所属している組織を主語にして説明してくれましたが、青年海外協力隊の人は「俺はスリランカでこんな体験をした」と自分を主語にして話してくれた。僕が将来教師になったとき、こんなふうに1人称で話せたらいいなと思って、青年海外協力隊に入りました。

【田原】希望の地域はあったんですか。

NPO法人クロスフィールズ 代表理事 小沼大地氏

【小沼】中南米に行きたかったですね。美人が多いと聞いていたし、向こうでスペイン語を習得すれば将来役に立つかなと。でも、実際に決まったのは中東のシリアでした。正直、悩みました。当時のシリアは内戦状態ではありませんでしたが、中東全体にきな臭いイメージがあったので。最終的には、みんなが不安に思うところに飛びこんだほうがおもしろい人間になれると考えてシリア行きを決めました。

【田原】シリアでは何を?

【小沼】青年海外協力隊は現地からの要請があって派遣されます。そのときの要請内容は環境教育。ところが現地に飛んで配属先の団体に行くと、「環境教育活動はもうやっていない。いまはマイクロファイナンスだ」といわれまして。まあいいかと、そのままその手伝いをしました。

【田原】具体的に何をやったのですか。

【小沼】その団体は、村人にお金を貸して、そのお金でミシンや牛などを買って生計を立ててもらい、お金を回収する事業をやっていました。僕の仕事は、その事業で村人の生活が本当に豊かになったかの調査でした。

【田原】調査するといっても、言葉はできないでしょう?

【小沼】派遣前にJICA(国際協力機構)の語学研修でアラビア語を習いました。ただ、調査対象の村で使われていたのもアラビア語ですが、研修で習ったのは標準語のようなもの。僕が話すとニュースキャスターが話しているように聞こえたらしく、大笑いされてしまいました。逆に村人たちが話すと、訛りがきつくて何も聞き取れない。仕事も言語も日本で聞いていた話とまったく違って、途方に暮れたのを覚えています。

【田原】帰ろうとは思わなかった?

【小沼】思いました! でも、「帰りたい」という意思すら通じなかったので、どうしようもなかった(笑)。

【田原】英語もダメですか。

【小沼】ダメです。現地にも英語の先生がいましたが、先生も英語を話せませんでした。多くの村人にとっては、僕が生まれて初めて見た外国人。数カ月後に友人のスペイン人を村に連れていったら、彼も「ダイチ」と呼ばれていました。どうやら僕の自己紹介を聞いて、「外国人=ダイチ」だと思ったみたいです。

【田原】そんな状態じゃ仕事にならないでしょう。

【小沼】最初はジェスチャーでコミュニケーションをして、1~2カ月で簡単な会話程度ならできるようになりました。その村にいたのは半年。最後には何とかミッションを果たして、調査結果を報告することができました。

■目の輝きを失った大学時代の友人たち

【田原】じゃ、活動は成功だ。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【小沼】いや、それが怒られてしまって。配属先に調査結果を自信満々にプレゼンしたら、「あなたは環境教育のために呼んだ。期待と違う」。「プロジェクトの設計を間違えたのはそっちだ」と文句をいいましたが、通じません。そのままでは自宅待機になるので、自分でシリアのさまざまな機関を回って環境教育の仕事を探しました。結局、3つの小学校で環境教育を継続的に行うプロジェクトを自分で立ち上げました。日本に帰国したのは、その1年後です。

【田原】帰国後はマッキンゼーに入社します。これはどうして?

【小沼】もともとビジネスと国際協力は別ものだと考えていました。大学でマルクス経済学を教わって、むしろビジネスに悪いイメージを抱いていたくらい。ところが、シリアで僕の上司になったのはドイツ人のコンサルタントで、その人はビジネスの力でマイクロファイナンスのプロジェクトをよりよいものにしていった。その姿を見て、自分もビジネスの世界に身を置いて、社会貢献と世界をつなげたくなりました。

【田原】なぜマッキンゼーだったんですか?

【小沼】その上司から、「ビジネスを学ぶならコンサルタントがいい。日本ならマッキンゼーかボスコン(BCG)」とアドバイスをもらいました。両方受けましたが、ボスコンは書類選考で落ちて、たまたま受かったマッキンゼーにお世話になることにしました。

【田原】マッキンゼーにいるときに、仲間たちを集めて勉強会を始めたそうですね。経緯を教えてください。

【小沼】日本に帰ってきてまず驚いたのが、就職した友人たちの目が輝いていないように見えたことでした。もともとみんな熱いやつらだったんです。でも、帰国して僕がシリアで経験したことや社会貢献の大切さを語ると、「そんな話をしていると、日本の会社では浮いてしまうぞ。早く大人になれ」という。僕の目には、彼らよりシリアの人たちのほうがエネルギーに満ちて幸せそうに見えました。ただ、そういう僕も会社で働くうちに熱さを失ってドライな大人になっていくかもしれない。それが嫌だったので、まだ目が輝いている友人たちと月1回飲む会をつくりました。それがきっかけです。

【田原】最初は何人で始めたんですか。

【小沼】4人です。この熱さに耐えられる人をそれぞれ連れてこようという話になって、飲み会が10人になり、20人になり。人数が増えたところで、「コンパスポイント」と名前をつけて、きちんとした勉強会にしました。いまも会は続いています。

【田原】マッキンゼーは3年でお辞めになった。どうしてですか。

【小沼】自分がやりたかったのはビジネスと社会貢献の世界をつなぐこと。それができるキャリアをつくることが目的でしたから、最初から3年で辞めると決めていました。

【田原】2011年にクロスフィールズを立ち上げます。パートナーになった松島由佳さんとは、どのような出会いだったんですか?

【小沼】就職活動で同じコンサルティング業界を受けていて、面接で一緒だったんです。僕がシリアでこんな活動をしてきたと話したら、松島もカンボジアでNPOの活動をした経験があって、同じことを考えていたことがわかりました。勉強会に真っ先に誘ったのも松島でした。

【田原】小沼さんは別の女性とご結婚されていますね。そんなに気が合うなら、どうして松島さんと結婚しなかったの?

【小沼】そんなにストレートに聞かれたのははじめてです(笑)。妻とは大学1年生のときからずっとつき合っていましたから。もちろん妻と出会っていなくても、松島と結婚したかどうかはわからないですが(笑)。

【田原】さて、小沼さんはクロスフィールズで何をやろうとしたのですか。

【小沼】「留職」プログラムを企業に提供しようと考えました。企業に勤めている人を海外に派遣して、NGOやNPOの活動に従事してもらうリーダー人材育成プログラムです。

【田原】留学ならぬ留職というネーミングがおもしろいですね。いつ名づけたんですか。

【小沼】創業した11年の初めです。

【田原】マッキンゼーの退社日が11年3月11日。ちょうど東日本大震災のあった日だった。

【小沼】震災が起きて大企業とのアポイントはすべて吹っ飛び、急にからだが空きました。このタイミングでからだが空いているのは何かの運命。東北のために何かしようと、南三陸や気仙沼に物資を届ける活動をしていました。2カ月ほどして、状況が少し落ち着いてからまた大企業へのアプローチを再開しました。

【田原】大企業の反応はどうでした?

【小沼】100戦全敗でした。海外のNPOで働くことの意義をうまく伝えることができなくて。100社以上回りましたが、取り合ってもらえないところがほとんどでした。

【田原】よく途中で嫌になりませんでしたね。

【小沼】100敗は痛かったですが、まず100試合できることに価値があると思っていました。じつは100試合組んでくれたのは友人たち。僕が会社を飛び出したのを見て、応援してやろうと自分の勤める会社の人事部を紹介してくれた。そうなると頑張らざるをえません。

【田原】どこから風向きが変わりましたか。

【小沼】IBMの視察をしにアメリカに行ったときからですね。IBMはいろんな国の社員をチームにして、これからIBMが進出したい国のNPOに送り込み、現地の社会課題をICTで解決するというプログラムをやっていました。IBMは事業寄りで、僕たちが考えていたのは人材育成寄りですが、やっていることはほとんど同じ。IBMの取り組みを日本企業に伝えると、僕たちの留職プログラムにも関心を持ってもらえるようになりました。

【田原】具体的には、どんな会社が興味を示したのですか。

【小沼】パナソニックとテルモです。事例がテレビにも取り上げられて、問い合わせが増えました。

【田原】派遣を受け入れるNGOやNPOはどうやって見つけるの?

【小沼】実際に現地に飛んで話をしました。NGOやNPOを横でつなげるキーパーソンが各国にいるので、そういう人たちに協力してもらって、「こういうキャリアの人がいるけど、どこか受け入れられないか」と探すんです。いま、10カ国、800団体以上のネットワークがあります。

【田原】NGOやNPOからお金は取るんですか?

【小沼】取りません。留職した人の給料や渡航費、宿泊費は企業が払います。また、企業からお支払いいただく研修プログラムの料金が僕たちの事業収入になります。

【田原】これまで留職者は何人?

【小沼】派遣人数は127人、派遣国数は10カ国、約80団体です。留職期間は平均3カ月。

【田原】留職3カ月で、行って帰ってきた人の意識は変わりますか?

【小沼】変わります。たとえばたいへんなことがあると「嫌だな」といっていた人が「よし、やってみるか」と口癖が変わったり、いままで失敗しないように仕事をしてきた人が積極的にリスクを取りにいくようになったり。変わるのは、角度でいうとほんの1度や2度で、たいした違いはないように見えるかもしれません。でも、50歳になったとき、わずか1度の違いがその人をまったく別の場所に連れていくと思っています。

【田原】日本企業は組織内の空気を乱すことを許しません。典型例が東芝です。7年間も不適切な会計処理をしていたのに、誰もおかしいといえなかった。神戸製鋼所だってそうですね。留職プログラムをやると、そこでおかしいといえる人になりますか。

【小沼】はっきりしたことはいえませんが、少なくとも自分に嘘をつかなくはなるでしょうね。留職プログラムをやると、働く意味と向かい合わざるをえなくなります。自分がやっている仕事に矛盾を感じれば、何かしらの行動を起こすんじゃないかと。

【田原】とてもいいことですね。留職を経験した人に、ぜひ硬直した日本の大企業をかき回してほしい。ただ、社員が扱いづらい人材になるなら留職なんて認めないという会社は多いかもしれない。そこはどう思う?

【小沼】日本の企業は必死に変わろうとしています。真ん中の層がどう考えているのかわからないところがありますが、経営者はこのままではいけないと危機感を持っているし、若手は社会を変える仕事をしたいと思っている。出る杭は、むしろ歓迎されますよ。

■「ありがとう」につながる感覚

【田原】これまで企業が人材育成のために人を外に出すというと、MBAが一般的でした。留職はMBAと違ってどんなメリットがありますか。

【小沼】仕事のやり方を学ぶ目的なら、MBAは素晴らしい仕組みです。でも、いま企業で問題になっているのは、働く人が社会とのつながりを実感しづらいこと。自分がやっている仕事や自分の持っているスキルが、誰かの「ありがとう」と本当につながっているのか。その感覚が持てないからモチベーションが高まらず、生産性も低いのです。留職は、その問題を解決するプログラムです。

【田原】というと?

【小沼】日本の大企業では仕事と社会のつながりを実感するのは難しいですが、ベトナムの農村で「この人の生活をよくしたい」と働くのはわかりやすい。留職なら、働く意義をもう1度実感して、日本に持ち帰ってもらえる。熱い社員が増えたら、それがその企業の強みになります。

【田原】留職するのは若手だけですか。

【小沼】若手中心ですが、最近は管理職層に途上国の現地を見てもらうプログラムにも力を入れています。留職者が熱い想いを持って帰ってきても、組織内にその理解者がいないと、会社や世の中を変えていくのは難しい。管理職の方にも問題意識を持ってもらって、孫悟空を見守るお釈迦様のように留職者を応援してもらえれば、会社や世の中が変わるスピードがもっと速くなるはずです。

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小沼大地(こぬま・だいち)
NPO法人クロスフィールズ 代表理事 
一橋大学社会学部・同大学院社会学研究科修了。青年海外協力隊(中東シリア・環境教育)に参加後、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。2011年3月、NPO法人クロスフィールズ設立のため独立。

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■小沼さんから田原さんへの質問

Q.日本人は何を目標に働けばいいですか?

戦後、日本人ははっきりした目標を2つ持っていました。1つは、もう2度と戦争しないこと。もう1つは、焼け野原を復興させて、1人前の経済国家になること。目標があったのでどのように頑張ればいいのかも明確でした。ところが、前者については、冷戦が終わって、100%対米従属でいいのかと迷い始めた。後者の経済成長も、“失われた20年”を経験して、どのような成長を目指せばいいのかと迷いが生まれています。

いまはアメリカについていくこと、経済成長することが本当に幸せなのかというと、必ずしもそうとはいえなくなってきました。いったい何を目標にするのか。新しい幸せの定義から始めなくてはいけないと思います。

田原総一朗の遺言:新しく幸せを定義しなおせ

(ジャーナリスト 田原 総一朗、NPO法人クロスフィールズ 代表理事 小沼 大地 構成=村上 敬 撮影=枦木 功)

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