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「小1問題」の本質は学校の古臭さにある

プレジデントオンライン / 2018年4月8日 11時15分

汐見稔幸・白梅学園大学前学長

小学校に入学したばかりの1年生が学校生活に適応できない。春になるとそうした「小1プロブレム」が問題視される。だが東京大学名誉教授の汐見稔幸氏は「教室のイスに座っていられない子どもたちの問題ではなく、そういった旧来の学びスタイルに問題があるのではないか」と問い直す――。

※本稿は『本当は怖い小学一年生』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

■先生たちを悩ます「小1プロブレム」

4月、真新しいランドセルを小さな背中に背負い、頬を紅潮させ、親に連れられて小学校の門をくぐる。「これからどんな楽しいことが待っているのかな」というワクワクした気持ち、緊張し、ぎこちない仕草で友達の待つ教室に入る。小学1年生はいつの時代もピカピカに輝いて、大人たちはみなすがすがしい気分になる。

ところが、小学校関係者にとってはあまりうれしい季節ではない。

いざ授業が始まると、イスに座っていることができず、教室内を歩き回る子がいたり、配ったプリントを紙飛行機にして飛ばしたり、先生の話を無視して近くの友達にしゃべりかけたりする。中には教室から廊下、校庭に飛び出して(脱走して)しまう子どももいる。そんなクラスがあちこちで見られる季節でもあるからだ。

この先生たちを悩ます問題は「小1プロブレム」と呼ばれ、一般には否定的に語られてきた。そして「今の子どもたちはしつけられていない」などのレッテルが貼られてきた。この言葉が知られるようになって10年以上がたつのに状況は改善されていない。

どうして改善されないのか。それは、小1プロブレムのとらえ方に問題があるからではないか。小1プロブレムを、むしろ小学生による学校への「反抗」、既成の教育への未熟な「異議申し立て」としてとらえ、その背景や原因を探ってみよう。

生徒や学生が「反抗」するのは先例がある。1960年代の学生運動、70年代はじめの高校生の紛争、70年代末から80年代初頭にかけての中学生の「校内暴力」。そして、80年代中頃からは小学校高学年の子たちの「荒れ」が取り沙汰されるようになった。その流れにならっていえば、今は小学校の低学年の子どもたちが「反抗」していると見ることも可能だ。1995年以降の話だ。

新聞などのメディアはこれを「学級崩壊」として取り上げたが、その後問題が低年齢化し、とりわけ小学校入学直後の1年生の状況を指して、学校関係者が名づけたのが「小1プロブレム」である。そういう歴史的な流れに置いてみると、この問題が違ってみえてくる。

■授業がつまらないから勝手に歩く

授業が始まってもおしゃべりをやめず、「静かにしなさい」と注意しても聞く耳を持たない子どもがいる。時には「うるせぇーよ、バーカ」「オマエなんか死んじまえ」と乱暴な言葉が返ってくることさえある。

教師への反発心が生じると、「○○ちゃん、ちょっと先生のところに来てくれるかな」と呼んでも、いっこうに応じようとしなくなる。声を荒らげても態度は変わらない。すると、教室の他の子どもたちも「あっ、先生の言うことを聞かなくてもいいんだ」と勝手なことをし始め、授業が成立しなくなる。

心配した親を集めた保護者会でその話をすると、「うちでは私の言うことをよく聞いています。それは先生の教え方がおかしいんじゃないですか?」と反論する母親たちもいる。

「うちの子からは、『先生は僕の言うことを聞いてくれない』と聞いています」「風邪気味だったのに無理して遠足に連れて行ったようですね」と、逆に突き上げをくらうこともある。学校の先生たちからの「今の小学1年生は怖い」というぼやきが増えてきた所以だ。

これに対してマスコミも学校関係者も、「授業時間中に、おとなしくイスに座っていることができない」「先生の話を聞いていることができない」子どもたちが増えてきたその背景や原因は、「家庭でのしつけができていない」とか、「幼稚園や保育所が子どもに我慢することや集団的な規律を学ばせていない」からではないかと問題を外に見出そうとしてきた。

果たして、そうなのだろうか?

そもそも子どもたちは3月まで、どんな日常を送っていただろう。幼稚園や保育所ではお散歩だったり部屋遊びだったりと、その子の興味、好奇心に応じて基本的には自由に遊びを楽しんでいたのだ。それが4月になったら急に座ることを要請され、一方的に話を聞くことを強制される。これ自体にどうも無理があるように思われる。

海外では徐々に机での勉強を体験させていく慣らしの期間を設けるところがあるが、日本ではほとんどそうした慣らし期間が設定されていない。仮に、大人の言うことを聞いて、すぐに全員が静かに座っていられたら、どうだろう。むしろ、そちらのほうが気味が悪い。

■定型的なカリキュラムの落とし穴

私は、小1プロブレムの問題は、教室のイスに座っていられない子どもたちの問題ではなく、そういった旧来の学びスタイルを今世紀になっても続けていることから起こる問題ではないか、と考えている。旧来の学びスタイルへ無意識に、もしくは意識的に抵抗を示そうとする子どもたちからの「サイン」ではないか、と考えている。

汐見稔幸『本当は怖い小学一年生』(ポプラ新書)

多くの子どもたちは、小学1年生の授業を実際に受けて「ああ、楽しい」「面白い」と感じているだろうか。学びの喜びを感じているだろうか。アリの巣を発見して、時間を忘れてその場にしゃがみ込んでいたり、大好きな電車の絵を夢中で描いていたりする喜びを、小学校でも感じているだろうか。

もちろん「勉強」は必要だ。だが、子どもたちの中には(たとえ静かにイスに座り、先生の話をおとなしく聞けていても)、「学ぶということはじっとガマンして聞いていることなのだ」ととまどいを感じ、小さく失望し、やがて退屈でつまらないものだと感じるようになる子が大勢いるはずだ。

そこにはカリキュラムの内容や教え方など、さまざまな要因が考えられるが、もっと俯瞰的に見ると、子どもたちが時代のカナリアとなって、日本の教育の時代に合っていないところを明るみに出し、大人たちにイエローカードを突きつけているように映る。

子どもたち一人ひとりは、本当はすごい能力を持っている。うまく育てて導くと、大人がびっくりするようなことをやってのける。大人たちが既成のルールや枠にはめようとせずに、各人の潜在能力を発揮する場を与えれば、驚くような才能が花開くはずだ。

教える側は子どもたちの言い分を聞き流すことなく、じっくりと耳を傾け、深く共鳴していくべきだ。子どもだとばかにしていると、われわれの世界を支えていく次の世代を育て損なうことにもなりかねないし、ひょっとすると歴史をつくり損ねるようなことになってしまうかもしれない。本当に「怖い」のは日本の教育のあり方かもしれないのだ。

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汐見稔幸(しおみ・としゆき)
白梅学園大学前学長、東京大学名誉教授
1947年、大阪府生まれ。東京大学教育学部卒、同大学院博士課程修了。専門は教育学、教育人間学、育児学。育児や保育を総合的な人間学と位置づけ、その総合化=学問化を自らの使命と考えている。『小学生 生きる力を育てる』『本当は怖い小学一年生』など著書多数。近著に『「天才」は学校で育たない』(ポプラ新書)がある。

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(白梅学園大学前学長、東京大学名誉教授 汐見 稔幸)

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