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生類憐みの令“野良犬天国”の「その後」

プレジデントオンライン / 2018年4月23日 9時15分

春の浜松城公園に建つ徳川家康像(写真提供:浜松観光コンベンションビューロー)

今年は明治元年(1868年)から数えて満150年という節目にあたる。明治維新は、まさに近代への幕開けとなる大きな出来事であったが、それは同時に、260余年の長きにわたって続く江戸時代の終焉をも意味していた。初代家康、5代綱吉、15代慶喜などの歴代の将軍や、“水戸黄門”として知られる徳川光圀(みつくに)にまつわる逸話など、徳川家の知られざる「その後」を紹介しよう――。

※本稿は『誰も書かなかった日本史「その後」の謎大全』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■「鯛の天ぷら説」は間違い!? 徳川家康の本当の死因

江戸幕府の初代将軍・徳川家康が駿府城(すんぷじょう/静岡県静岡市)にて病没したのは1616年4月17日のことで、享年75であったから、戦国を生きた人物としては長寿といってよい。だが、それはただ単に運がよかったためだけではなく、医学書を読みあさることをはじめ、自身で漢方薬を調合したり、鷹狩りによく出掛けては体を健康に保っていたなど、俗にいう“健康オタク”であったことがその背景にあるようだ。

このように人一倍健康に気を配っていた家康であるが、彼はそもそもどのような最期を迎えたのか。何とも皮肉なことに、家康の体調が悪化したのは鷹狩りに興じた直後のことだった。1616年1月21日、鷹狩りから戻った家康は、徳川の家臣・榊原照久が献上し、茶屋四郎次郎が油で揚げて蒜(ひる/ニンニク、ネギなどをさす古名)をかけた鯛を食したが、鷹狩りでよほどお腹が空いていたのか、大食いした。すると夜中に腹痛や吐き気など突然の食中毒症状に襲われ、以降、体調が回復しないまま、3カ月ほど経った4月17日に死去したのである。

一般的には長らく、家康の最期についてはこう伝えられてきたが、実際のところはどうだったのか。実は、家康が体調を崩した直接の原因は鯛を食したことにあるようなのだが、それ以前から彼の体に巣食っていた、ある病に真相が求められるという。

それは「胃がん」である。寛政年間に幕府によって編纂(へんさん)された系譜集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には「御腹中に塊あり」と記されていることから、家康の腹部にしこりがあったことが認められる。また、鯛の揚げ物を食べたのが1月21日で、亡くなったのが4月17日というタイムラグを考えても、食中毒が直接の原因とは考えがたいのである。

■生類憐みの令で、犬たちはどう扱われたか?

江戸時代に出された法令の中でもっとも有名なものの1つが「生類憐みの令」。この法令は5代将軍・徳川綱吉によって1685年頃から出されたもので、彼の21年におよぶ在位期間中、60回も発令されたという。綱吉の気まぐれな法令といっても過言ではあるまい。

この法令で保護の対象となったのは、犬をはじめ、猫、鶏、牛、馬、亀、蛇など多岐にわたる。魚介類もその対象で、生きたまま売ることが禁止されたため、ウナギやドジョウをあつかうこともできなくなった。

生類憐みの令において多くの保護規定が出されたのは、犬に関することだった。これは「犬公方」とも呼ばれた綱吉の意向を反映したものであるが、法令違反者に対する罰則はかなり厳しく、家来が犬に噛み付かれたためその犬を斬り殺したところ、なんと切腹を命じられた藩主がいたり、銃で鳥を撃って商売していた与力や同心らは、それが発覚して11人が切腹を命じられたほか、子どもも流罪(るざい)に処せられたほどだった。

そんな状況であるから、誰も犬に近寄らなくなり、エサをやることもなくなったため、野良犬が増えてしまう。対策に困った幕府は、当時は田園風景が広がっていた江戸近郊の中野や喜多見、四谷などに犬小屋(お囲い)を設け、そこで犬たちを飼うことにした。特に、中野の犬小屋は16万坪もの広大な敷地に築かれ、収容された犬の頭数は実に8万2000頭、年間のエサ代は9万8000両(現在のお金に換算すると数十億円)に上ったというから驚きである。しかも、その金を負担したのは江戸や関東の村々だったのである。

中野区役所前に設けられた犬たちの像(写真:KADOKAWA)

このように、「悪法」の異名を持つ生類憐みの令だったから、綱吉が「この法だけは自分の死後も存続させるように」と言い残したにもかかわらず、彼の死後10日ほどで犬のための税などは廃止されることになった。ただし、一説によると、この法令が出されたおかげで命を大切にする風潮が世に広まり、人殺しが減ったともいわれている。綱吉の生き物への慈しみの精神はその後も受け継がれ、現在は同令を良法と捉える見方もあるほどだ。

ちなみに、東京の中野に設けられた犬小屋の跡地は、8代将軍・徳川吉宗の頃に桃園に変えられ、庶民の憩いの場となった。そして、中野の犬小屋の名残は現在、中野区役所前にある犬のオブジェのみとなっている。

■最後の将軍・徳川慶喜の意外なる余生

1867年10月14日、大政奉還の上表を朝廷に提出したのち、将軍の座を追われた徳川慶喜は、二条城、大坂城、江戸城を転々としたあと、1868年2月より上野寛永寺において謹慎生活を始め、4月には水戸の弘道館での謹慎生活を余儀なくされる。そして同年5月、慶喜は徳川家を継いだ家達(いえさと)の後見人・松平確堂から駿府(現・静岡県静岡市)への移転を求められ、これが新政府によって認められたことから、同地で生活することとなった。

さて、その後の慶喜だが、実は彼はとても好奇心が旺盛で、さまざまな趣味を楽しんだようだ。まず、静岡において慶喜が興味を示したのが油絵。当時は東北地方においてなおも戦闘が続いている状況であり、慶喜は隠居生活をすごす常盤町の宝台院を出られる立場になかった。そのため、家の中でできる油絵が最適だったのだ。

晩年の徳川慶喜(『近世名士写真 其2』より/国立国会図書館蔵)

さらに慶喜は、明治への改元以降、身が軽くなったのと比例するかのように多彩な趣味を持つようになり、狩猟、鷹狩、囲碁、将棋、投網(とあみ)、能、刺繍(ししゅう)などに取り組んだ。駿府城公園の濠(ごう)ではウナギ釣りまでしていたという。

なぜ慶喜が多趣味だったかといえば、彼の進歩的な考えが影響している。「写真を撮られると寿命が縮む」といわれた時代、数多くの肖像写真を遺したのも彼だし、将軍の座に就く以前から洋食を好み、「豚一(ぶたいち)」というあだ名で呼ばれたこともあった。「豚一」とは、「豚を好んで食する一橋」(「一橋」は慶喜の相続先)という意味である。

■「水戸黄門」は晩年、家老を刺殺した!?

常陸国の水戸藩主・徳川光圀が30年におよぶ藩主の座から退いたのは1690年10月のこと。そして光圀は、権中納言(ごんちゅうなごん)に任ぜられた。光圀は一般的に「黄門さま」と称され、親しまれているが、これは、その「権中納言」を古代中国の官にあてはめたときに「黄門侍郎(こうもんじろう)」と呼ばれることによるものである。

さて、江戸を去った黄門さまは、その後どのような晩年を送ったのだろうか。

光圀が隠居の地として選んだのは、父母と妻が眠る瑞龍山(ずいりゅうさん)があり、母の菩提寺である久昌寺(きゅうしょうじ)がすぐ側にあった久慈郡新宿村西山(現・茨城県常陸太田市新宿町)。隠居の家は「西山荘(せいざんそう)」と呼ばれ、質素な生活を送りながら、生涯を通じて編纂した『大日本史』の原稿に目を通すなどしていたという。

雑学総研『誰も書かなかった日本史「その後」の謎大全』(KADOKAWA)

そんな穏やかな晩年を送っていた光圀だが、実は、彼は1人の家老を刺殺している。1694年3月より、徳川綱吉に「大学」の講義を請われ、江戸に滞在していた光圀は、同年11月23日、小石川の藩邸で能を興行し終えたあと、楽屋に水戸藩の江戸家老・藤井紋太夫を呼び出し、刺殺してしまう。つまり、「手討ち」である。

史料をいくら手繰(たぐ)っても、なぜ光圀が紋太夫を殺したのか明らかにならないが、一説によると、紋太夫の専横が目立ったためとか、紋太夫が綱吉の側近・柳沢吉保とともに陰謀を企てていたためともいわれる。ただ、それらの説もあくまで推測にすぎない。

1700年12月、光圀は病床で静かにこの世を去った。手討ちの真相は、光圀があの世へ持っていってしまったため、今後も、事件解明への道のりは険しいものとなるだろう。

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雑学総研(ざつがくそうけん)
珍談奇談の類から、学術的に検証された知識まで、種々雑多な話題をわかりやすい形で世に発表する集団。江戸時代に編まれた『耳袋』のごとく、はたまた松浦静山の『甲子夜話』のごとく、あらゆるジャンルを網羅すべく日々情報収集に取り組む傍ら、最近ではテレビ番組とのコラボレーションも行なった。

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(雑学総研)

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