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「デフレ経済」が江戸幕府の崩壊を招いた

プレジデントオンライン / 2018年5月16日 9時15分

江戸時代、庶民経済は活性化した。錦絵は「江戸八景 日本橋の晴嵐」(渓斎英泉作/国立国会図書館)

学校の教科書は「時代」が変わると仕切り直しになってしまう。しかし現実の歴史は1本のタイムラインで今日までつながっている。江戸時代以降の400年を人口、経済、気温、身長の4つのデータから読み解く。第2回は「経済」について――。

※本稿は「プレジデント」(2018年2月12日号)の特集「仕事に役立つ『日本史』入門」の掲載記事を再編集したものです。

■江戸幕府は慢性的に財政難だった

「江戸幕府は慢性的に財政難だった」というところから話を始めましょう。

徳川家康が天下を取ったのは、織田・豊臣時代にあまりに強力な中央集権化が進められたのと、朝鮮出兵など戦争続きで各国が疲弊した反動で、有力諸侯が「もう領地や富の奪い合いは止め、現状維持でいこう」と“なあなあの体制”で結託したからでした。

その結果、徳川幕府は国土の4割弱の領地しか持てず、そこからの税収で全国の外交と防衛を担うことになりました。それでも、佐渡や伊豆の金山を押さえていたので、当初は余裕で財政が維持できたのです。掘れば掘るほど金が産出できるのは、今でいう金融緩和をしていたのと同じです。

しかし、金の埋蔵量は3代将軍・家光の頃には枯渇し、財政は次第に逼迫していきます。4代将軍・家綱は600万両を相続しますが「これを使い切ったら終わり」という大ピンチ。しかも江戸に「明暦の大火」(1657)が起こり、復興に多額の出費を強いられます。5代将軍・綱吉が就任したときには、幕府の資産は100万両を切っていたとも言われます。

■江戸幕府は「通貨発行益」の“発明”で200年を乗り切った

破綻がいよいよ目前に迫り「いよいよもうダメだ」となったとき、奇跡の金融政策通が現れます――勘定奉行・荻原重秀。彼は、純度86%の慶長小判から純度57%の元禄小判を造る「元禄の改鋳」(1695)を行ったのです。

慶長小判2枚から元禄小判3枚が出来、かつ新旧小判の交換レートは1対1。貨幣量は1.5倍に増え、増加分は幕庫に入ります。幕府の財政は瞬く間に改善し、500万両もの黒字に転じました。いわゆる「通貨発行益」の“発明”により、江戸幕府はその後の200年を乗り切ったと言っても過言ではありません。

ところが、綱吉没後に重秀は6大将軍・家宣の側近、新井白石に失脚させられます。重秀の功績を妬む白石は7代将軍家継のとき、なんと元禄小判の金含有量を慶長小判の水準に戻す“逆鋳造”(正徳の改鋳・1714)を行ったのです。これは今でいう「金融引き締め」にほかなりません。市中に出回るお金が減り、幕府は再び財政難と景気低迷に見舞われました。

家康による天下統一を象徴する慶長小判は金15グラム+銀2.8グラムで94年間も使用される。荻原重秀は慶長小判2枚につき銀を17.3グラム加えて元禄小判3枚を造る画期的な「改鋳」を行い、財政を立て直した。

■吉宗が金融緩和策をとったら東アジア覇権を奪っていた

「お金がないならお金を増やせばいいなどというのは、まったくもって賎しい策なり。懐事情が苦しいならまず無駄遣いを廃し、節約に励むべきである」

あれあれ、どこかで聞き覚えのある台詞ではないですか? 日本の経済史はここから現代に至るまで、景気低迷が続き「いよいよもうダメだ」となると金融緩和・積極財政派が現れて窮地を脱し、しかし本格回復しないうちに金融引き締め・緊縮財政派が復活して経済の活力を削ぐ愚策を繰り返すことになるのです。

さて、家継が早逝して8代“暴れん坊将軍”吉宗が就任すると、白石は真っ先に追放されるのですが、吉宗は経済失策の原因が金融引き締めにあるとは見抜けず、質素倹約(緊縮財政)という明後日の方向に励んでしまうのでした。

吉宗は20年もあの手この手で財政健全化を図るのですがうまくいかず、万策尽きて大岡忠相(大岡越前)の忠告を聞き入れて「元文の改鋳」(1736)を行います。金融緩和の効果は絶大でした。あっという間に財政が改善し、景気が好転したのです。

もし、吉宗が就任直後から金融緩和策をとっていれば、2年で経済再建を終えていたでしょう。そうすれば、当初英国よりも強大だった軍事力をもって、東アジアの覇権を奪えるくらいのことはできたはずなのです。

▼米価安で苦しむ武士に、富む庶民

ところで、江戸時代は国(幕府や諸藩)が苦しかったから庶民も飢えていたかというと、決してそうではありません。

幾度かの大飢饉は別として、庶民はどんどん豊かになっていました。

百姓は年貢を米で納めますが新田開拓や干鰯(肥料)の普及等で、稲作の負担は格段に減りました。空いた時間と労力で野菜、砂糖、芋、絹、紙、各地の特産品が作られるようになり、それを商人が全国各地に流通させ、異国との密貿易で財を成す者も出てきました。江戸時代は身分差別と鎖国制で庶民が虐げられてきたなどという、教科書の記述は嘘。庶民は自由な経済活動を謳歌していたのです。

逆に、武士は「石高制」で年貢や俸禄を米で受け取り、それを市場で売って現金を得ていました。生産量は増えているので米価は上昇しませんが、他の物品は庶民経済の活発化に伴って上昇したので、武士は相対的にどんどん貧しくなっていったのでした。

財政難のたびに商人から借り入れ、担保に年貢の徴収権を取られる藩もあとを絶たなくなりました。幕府がもしその気になっていたら、藩の借金の肩代わりと引き換えにその領地を接収して幕府の財政基盤を強化するとか、民間のパワーを取り込んで幕府主導の藩政改革を行うチャンスもあったのではないかと思います。

■経済を蔑ろにした江戸幕府は倒れるべくして倒れた

ところが幕府は、最後まで現状維持・既得権益の死守に明け暮れてその機を逸してしまいます。金融引き締めと緊縮財政は自由経済で民間が力を付けることをよしとしない、官僚層の抵抗であるとも言えます。これもまた、現代に通ずるところがあるのではないでしょうか。

そうしているうちに幕府はさらに弱体化、人心は離れていきます。欧米列強からは開国を迫られますが、もうこれを打ち払う力はありません。能力ある人を生かせず経済を蔑ろにした江戸幕府は、倒れるべくして倒れたのです。

▼米価安の諸色高石高制への固執も幕府崩壊の要因

幕藩体制は「石高制」で、武士は給料として受け取った米を市場で売って現金に替えていた。新田開発や農機具・肥料の改良で米価は安定していたが、その他の商品作物は値上がり傾向で金銀銭は流出の一途。財政が限界に達すると改鋳を行って金銀銭の価値を下げ(米の価値を上げる)だが、守旧派による揺り戻しがあってデフレ経済に逆戻り。この慢性的な「デフレ・レジーム」が幕藩体制の崩壊を招いたとも言える。

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上念 司(じょうねん・つかさ)
1969年、東京都生まれ。中央大学法学部卒業。日本長期信用銀行、臨海セミナーを経て独立。金融、財政、外交、防衛問題に精通し、評論・著述活動を展開している。
 

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(経済評論家 上念 司)

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