"人生100年も生きたくない"はワガママか

プレジデントオンライン / 2018年6月6日 9時15分

写真=iStock.com/imtmphoto

まもなく「人生100年時代」がやってくる。だが、それは無批判に歓迎すべきことなのだろうか。ネットニュース編集者の中川淳一郎氏は「100歳以上が100万人を超えるというのは度が過ぎている。生きることは尊いことだが、『100年も生きたくない』『さっさと死にたい』と考えることも、一方で認められてもよいのではないか」という――。

■100年も生きたくない

「人生100年時代」が始まろうとしているのだという。国連の推計では、2050年には日本の100歳以上の人口は100万人を超えるというのだ。これを聞いた瞬間、うんざりした。“長寿”はめでたいものだが、度が過ぎているだろうよ、と。

厚生労働省が2017年9月15日に発表した情報によると、住民基本台帳に基づく100歳以上の高齢者の総数は6万7824人。老人福祉法が制定された1963年には全国で153人しか存在せず、1981年に1000人を突破。1万人を超えたのは1998年のことだという。それから考えると、まさに激増である。

6万7824人という数は、国民のおよそ0.05%に相当する。このレベルであればまだ「めでたい」と感じられるかもしれない。しかし、自分も含めて周囲が100歳超だらけになったとしたら、はたしてどんな感想を抱くだろうか。

私は別に「高齢者差別」をしたいわけではない。ただ、個人的に「そんなに長く生きたいか?」と思うのだ。もちろん、生きることは尊いことであり、長寿の方々の人生を否定するつもりなど毛頭ない。とはいえ、個人の意志として「100年も生きたくない」「さっさと死にたい」と考えることも一方で認められてもよいのでは? と思うのである。

2010年の厚生労働省のデータによると、当時の男性の平均寿命は79.55歳で、女性は86.30歳。一方、「健康寿命」は男性70.42歳、女性73.62歳だった。ちなみに健康寿命とは、世界保健機構(WHO)の定義によれば「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」を指している。つまり男性は9.13年、女性は12.78年の「健康ではない人生」を送っているのである。そのなかには認知症を含む重い要介護状態にある人や、「胃ろう」「人工呼吸器」などを使った延命治療を受けている人も含まれていることだろう。

延命治療を受けたい人は受ければいいし、その判断は尊重する。だが、私は受けたくない。延命治療を施すかどうかの選択を迫られた段階で、多分「オレはほぼ天寿を全うした」と考え、延命治療を拒否することだろう。自然の摂理に反し、科学の力でなんとかしてまで生き永らえたいとは思えないのだ。

■突然、自分の「健康寿命」が尽きたら

以前、生まれついて身体に障害を持つ人物と話した際、とても印象に残った言葉がある。

「私は生まれたときからこのカラダなので、そこまで絶望感はありません。事故などにより、突然、健常者から身体障害者になった人の絶望感は、また別のものだと思います」

この人物も生まれてから常に差別を受けたり、奇異の目で見られたりしてきた経験を持っている。にもかかわらず、こんな発言ができることに、私は深い敬意を抱いた。そして、自分自身に置き換えて、そうした状況を想像してみた。ある日突然、自分の「健康寿命」が終わり、要介護「5」になったり、延命措置を受けることになったりしたら、私はどう思うだろう。もしくは、もはや自分では何も判断できるような状況になく、身近な人が「せめて生きていてほしい」と延命治療を施す判断をしたら、周囲の人にどんな思いをさせてしまうのだろう。

仮に平均寿命が男性でも90歳を超え、健康寿命も延びたとしよう。だが、人間は突如として進化しないもの。それ以上に医療技術のほうが早く進歩する。となれば、平均寿命の延びよりも、健康寿命の延びは鈍化し、現在の「不健康寿命」である「男性9.13年」「女性12.78年」が「男性12.35年」「女性16.08年」のようなことになるかもしれない。

こうした数字は予想できるものではないが、少なくとも私は約10年ものあいだ、ろくに動けないまま、カネの心配をしつつ日々を送るような生活はしたくない。ネットで若者から「だから人数がやたらと多い団塊ジュニアのクソジジイ、クソババアなんかに対して医療費を厚くしなければよかったんだ」などと書かれるのかと思うと、絶望的な気持ちになる。

■膨大な団塊ジュニアが高齢者となる未来図

それこそ将来の若者は「100歳税」の導入を主張するかもしれない。「100歳まで生きてきたジジイとババアは、70歳あたりから30年間、何も生産することなく国に寄生してきた連中である。そんなに長生きしたいのなら、100歳以降は毎年、資産の10分の1に相当するお金を税金として納め続けろ」みたいな税だ。

現在、40代を迎えているわれわれ第二次ベビーブーム世代(団塊ジュニア)は、年間200万人以上生まれていたとあって、とにかく人数が多い。少子化が著しい、いまの子どもたちが成人し、社会で活躍するようになるころには、きっと厄介な存在になっているだろう。若者からすれば、自分がいくら稼ごうとも、社会保険や税金に多額のカネを吸い取られてしまうような状況に「老人がいるからオレの人生は不幸なんだ」といまいましく思う日が来るかもしれない。となれば「何が“長寿”だ!」と、むしろ長生きのことを“長害”と捉えるようになるかもしれない。

だったら、これからの時代は老人もできるだけ働いて、税金を納めればいいじゃないか──そう指摘する人もいるだろう。実際、政府は高齢者の雇用促進を今後の課題として掲げてもいる。しかし、いくら「人生100年時代」「生涯現役」を政治家や役人がうたいあげ、「一億総活躍社会」の実現を政府が掲げようと、老人ができることには限界がある。寄る年波は容赦なく、人を劣化させるものだ。

正直、現在44歳の私にしても、以前この連載で書いたように、もう体中にガタがきている。どれだけ働こうが元気でいられたのは、たぶん32歳くらいまでだろう。当時は10キロメートル走ろうが体はピンピンしていたし、睡眠時間が連日2~3時間でも一向にパフォーマンスは落ちなかった。生殖機能も実に優れていたと思う。どこに行くにしても徒歩か自転車であり、タクシーに乗ることなんてよほど急いでいるときだけの、年に数回しかないレア体験だった。出会った人は名刺を交換するだけですぐに名前を覚えられたし、仕事でやりたいことはガンガン提案して、実際に形にしていた。

■さっさと死ぬ

それがいまや、食事をするたびに歯のあいだには食べ物が挟まり、文字を読むときはメガネを外さなければほんの一行ですらまともに読み進めることもできない。夜中に小便のために何度も起きたり、歯が抜けたりすることはまだないものの、年を取れば取るほど、かつては容易にできていたことが、どんどんできなくなっていくのを実感している。走ることもほぼない。32歳くらいまでは走ってばかりだったのに、人生100年だとしたらその2倍以上の68年は走らない人生だ。仕事でも、何か新しいことを提案する意欲は衰え、いまある業務を維持してこなすだけで手一杯である。

中高年向けの雑誌では「人生100年時代の資産防衛術」などを頻繁に特集するが、もはや社会保険は将来的に破綻することがほぼ見えている。年金の75歳受給開始案まで検討されているような時代にあって、「資産防衛」をするためのもっとも手っ取り早い方策はコレだと考える。

さっさと死ぬ。

私はまともに休みも取らず、1年中働き続ける人生をこの12年ほど送っているが、いいかげん疲れてきた。

「年齢を重ねれば重ねるほど人生が豊かになる」といったことを述べる人もいる。そう思える人は思えばいいし、何歳になろうとも向上心を失わずに生きていけばいい。

だが、私のような凡人かつネガティブ志向の人間は、決してそうは思えないのだ。20代前半のころのような気力、体力はもう戻らない。日々、ただ生きているだけで友人が増えたり、新たな出会いが次々と生まれたりした時代は追憶のかなたである。毎年、疎遠になる知り合いの累積人数が増え続けるだけだ。

恋愛系のドラマや漫画に接して素直に心を揺さぶられ、さらにはドラマや漫画の世界をトレースするかのごとく、出会って心を揺さぶられた女性と「自分たちは青春真っ盛り!」とばかりに恋愛をした。だが、すでに40歳を過ぎた人間がそんな昔の自分を懐かしんでいても「キモイ」と言われるだけである。

■老いを受け入れ、来る「死」を待つ

年齢というものは残酷なもので、40歳を過ぎてもモテようとしたり、体形を維持しようと努めたりしても、若者からすれば「年寄りの冷や水乙www」などと揶揄されるだけである。どんなに若くあろうとしたところで、年を取れば代謝は悪くなるし、回復力も遅くなる。

もはや40歳を過ぎたら、自分の衰えを認めて生きるのはどうだろう。「いくつになってもキラキラした恋愛」「フルマラソン挑戦」「一生ベンチャー精神」「生涯学習」などの言葉に影響されることなく、自らの老いを受け入れながら、来る「死」を待つ──そんな生き方でもいいのではなかろうか。

個人的な話になるが、私は33歳のとき、31歳だった婚約者を自殺で失った。以来「人はあっさりと死ぬものだ」という死生観を抱くようになった。それゆえ、自分自身もそこまで長く生きたいとは思っていない。ましてや将来的な安定を求めてフリーランスの人生を辞め、いまからなんとか企業に就職をしようとか、60歳になったら老後の蓄えを少しでも増やすべく就職した会社の「定年後再雇用」に応募しようなどとはつゆほども考えない。

■「泣き」と「笑い」の両方でしのばれたい

所詮、自分の人生なんてものは、自分と家族以外にとっては大した意味を持たないものだ。長く生きることこそが美徳だとは思えないし、「人生100年時代」などと役所や政府にあおられて75歳まで働くなんてたまったものではない。

68歳くらいで原因はさておき突然死んでしまい、そこそこの財産を家族に遺すことができれば、それで十分である。そして葬式のときに、「ちょっと早かったけど、最期まで楽しげな人生だったね」と参列者から「泣き」と「笑い」の両方でしのんでもらえる程度の寿命で生涯を終えるのが理想だ。

故人が55歳以下で亡くなっていた場合、基本的に葬儀場は「悲しみ」だけに包まれている。だが、それ以上の没年になると「悲しみ」だけでなく、「おつかれさま!」といった「ねぎらい」や、「アイツ、こんなバカなこと言っていたよな」と皆でイジったりしながら「笑い」とともに見送るような空気も醸されてくる。そして80歳を過ぎてから亡くなった人の葬式は、どちらかというと「笑顔で見送ってやろう」という空気のほうが強いように感じる。さらに90歳を過ぎると「あのエロジジイ、天国でも楽しくやってるんだろうね(笑)」みたいなエンタメ的反応すら起きてくる。

■長生きはしたくない。でも、自殺はしない

私には、スポーツの「マスターズ大会」みたいなものに出る高齢者の気持ちはわからないし、それをことさらに持ち上げる風潮にもあまり共感しない。

老人のスポーツは本来、個々人ができる範囲で楽しめばよいものであり、大会出場をいちいちメディアで取り上げ、騒ぎ立てるほどのものではないように感じる。若者による最高峰のレベルの競技が存在する以上、「年寄りなのにすごい」ということでゲタを履かせてもらい、ちやほやされる老後を自分は送りたくないな、と思う。「目標を持つのは重要」とは言うものの、「この年になってまで“目標”を持てだなんて、勘弁してくれよ……」と言ってしまうことだろう。まあ、あくまでも個人的な価値観だが。

私は、自分に悔いが残らないくらいまで生きたら、他人の世話になることなくさっさと死にたい。少なくとも「100歳」まで生きたいとはまったく考えない。

とはいえ、どんなに長生きしてしまったとしても、自ら死ぬという選択は絶対にありえない。なぜなら、自殺で大事な人を失うことのつらさは、イヤと言うほどわかっているから。

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【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」
・「人生100年時代」を迎えるというが、その未来は決してバラ色ではない。
・「長生きしたい」と願うのも自由だが、「長生きしたくない」と望むのも自由。
・老いて劣化していく自分を冷静に見つめる姿勢も必要。

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中川淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者/PRプランナー。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライター、「TVブロス」編集者などを経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』『ウェブでメシを食うということ』『バカざんまい』など多数。

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(ネットニュース編集者/PRプランナー 中川 淳一郎 写真=iStock.com)

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