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テレ東が隅田川花火を中継する歴史的理由

プレジデントオンライン / 2018年7月28日 11時15分

2015年の隅田川花火大会で、ビルの間から花火を見上げる人たち(写真=時事通信フォト)

毎年100万人近くを集め、テレビ東京が生中継を放送する「隅田川花火大会」。ほかにこのような花火大会はない。なぜ隅田川花火大会だけが特別なのか。宗教社会学者の岡本亮輔氏は、「200年以上前から続いてきたのは、花火大会が飢饉や火災、戦争などの死者を慰めるものだったから。別格となったのには歴史的な背景がある」と指摘する――。

■もともとは「両国花火」だった

例年7月下旬に行われる東京都台東区の隅田川花火大会。毎年100万人近くが集まる一大イベントだ。19時の打ち上げ開始に先駆け、夕方から付近の道路は規制され、東京メトロ銀座線や都営浅草線は大混雑になる。浅草ビューホテル、両国ビューホテル、第一ホテル両国といった川沿いのホテルでは、花火大会のための特別プランも提供される。川沿いには、今年も大勢の観覧客が詰めかけるだろう。隅田川花火大会は、今では本格的な夏を告げるイベントだが、時代とともに花火の意味合いは変化してきた。

隅田川花火大会はもともと、「両国花火」と呼ばれていた。隅田川のもう少し下流で行われていたのである。今では相撲のイメージが強い両国は、江戸最大の繁華街だった。両国という名は、この場所が武蔵国と下総国の国境に位置したことに由来する。江戸時代の地理感覚では橋を渡ればそこは別の国であった。こうした境界的・周縁的な場所だからこそ、軽業・占い・物まねといった見世物や物売りが両国に集まったのである。

■無縁仏をとむらうための両国「回向院」

両国を語る上で外せないのが、回向院(えこういん)の存在だ。同寺が作られたきっかけは、明暦の大火(1657年)である。江戸市中の半分以上が焼け、10万人を超える死者が出たといわれている。死者の中には身元不明の者、身寄りがなく引き取り手のない者が数多く含まれていた。

こうした無縁の人々をとむらうために、万人塚を築くよう4代将軍・家綱が命じたのが回向院の始まりである。正式名称は諸宗山無縁寺回向院だ。宗派とは無関係に、社会の中で安定した居場所と死に場所を確保できなかった人々の霊を鎮めるための寺といえるだろう。

回向院の敷地に入ってゆくと、7メートルはある巨大な「力塚」が最初に目につく。1768年以降、回向院で「勧進相撲(かんじんすもう)」が行われたことにちなむものだ。勧進相撲とは、公共事業の寄付金集めなどを目的に行われた興行を指す。1833年からは回向院が春秋2回の定場所となった。先述の通り、両国には境界性・周縁性があったからこそ、力士という異形の人々の場所になったといえる。

関東大震災の翌年、新聞記者として東京を取材した作家・夢野久作は、両国の異界性を敏感に書きとめている(『街頭から見た新東京の裏面』)。

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昨年の変災の折、あれだけの生霊を黒焦にした被服廠――。
その傍を流れて、あれ程の死骸を漂わした隅田川――。
その岸に立つ回向院――。
それ等はかほどまでに「江戸」を呪った……そうしてこの後も呪っている、或る冷たいたましいのあらわれに他ならないのである。
……墨堤の桜……ボート競漕……川開きの花火……両国の角力や菊……扨(さて)は又、歌沢の心意気や浮世絵に残る網舟……遊山船、待乳山の雪見船、吉原通いの猪牙船……群れ飛ぶ都鳥……。
両国橋の上に立って、そうした行楽気分を思い得る人は幸福である。

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両国は相撲と墨堤の桜を楽しむ行楽の場ではなく、回向院を核として、大都市・江戸東京の裏面を引き受けてきた場所だったのだ。

両国花火の起源も、1733年に行われた川施餓鬼だとされている。前年、江戸ではコレラが流行し、関西は飢饉に襲われた。その大量の死者たちを慰めるために、花火が用いられたのである。

■「国威発揚」に活用された明治時代

花火大会は、鎮魂・慰霊の側面と、イベントの側面を同時に持ち合わせていくようになる。1870年代、現在の靖国神社である東京招魂社への参拝者は多くなかった。そこで政府が人集めのテコ入れとして、競馬や相撲とともに花火大会を催した。花火は招魂社の名物となり、大祭の時には花火見物のために立錐の余地もないほど参拝者が集まった。1877年11月には、西南戦争で亡くなった兵士のために臨時祭が行われた。この時には、遺族には花火見物のために桟敷席が用意された。

そして明治になるとさらに花火の意味合いは徐々に変化し、国威発揚や顕彰にも用いられるようになる。天皇が行幸から東京に戻る時には、たびたび花火が打ち上げられた。また、天皇主催で各国の外交官などを浜離宮に招いた宴席などでも、余興として花火が使われたのである。鉄道や橋の開通、皇族外遊の見送りでも、花火が打ち上げられた。慰霊というよりも、景気づけとしての性格が強くなり、徐々に軍や戦争と結びついてゆく。

1904年7月、それまで日露戦争の影響で不景気だった老舗花火師・鍵屋に注文が殺到する。日露戦争の勝敗を握ると思われた旅順攻囲戦における、日本軍の有利が伝わったためだ。各地から陥落後の祝勝用の花火の注文が殺到した。特に陸軍からの注文は大口で、旅順が陥落した夜に行列を出し、皇居前で3色に変化する鍵屋の特製花火数百発を打ち上げようというものだった。

この年は8月20日の隅田川の川開きに合わせて両国花火が催されたが、その10日ほど前に旅順でロシアの戦艦レトヴィザンに決定的被害を与えたことが報じられ、祝勝ムードによって空前の人出となったのである。

■「非常時代空軍」から「輝く平和の曙」へ

1911年には、前年に南極探検に旅立った白瀬矗(のぶ)中尉の後援会によって、寄付金集めのための花火大会が開かれた。会場は芝浦の「ろせったホテル」だ。これは英国製の大型汽船をホテルに改装したもので、当時、最先端の海上ホテルであった。花火はホテルの横の埋め立て地から打ち上げられ、見物人は18000人にも及び、1人につき5銭の入場料が徴収された。

両国花火にも劣らぬ量と質の花火が打ち上げられたが、残念だったのはクライマックスの仕掛け花火だ。予定では、南極のペンギンと白瀬中尉をモチーフにした花火になるはずだったが、花火師が勘違いして、白瀬中尉ではなく、旅順攻囲戦の英雄・廣瀬中佐の花火を作ってしまっていたのだ。だが、見物人には大受けし、寄付集めは大成功した。

日中戦争前後から、時節柄しばらく両国花火は中止される。再開したのは、戦後1948年になってからだ。8月1日、両国花火組合主催・読売新聞社後援で11年ぶりに復活する。戦前、最後に行われた大会の仕掛け花火が「非常時代空軍」だったのに対し、この年は「輝く平和の曙」がクライマックスとなった。この夜には100万人が両国に押しかけ、招待席にはもちろん米軍将校たちが居並んでいた。

しかし、この復活した花火大会も1961年を最後に再び中断してしまう。理由は交通事情の悪化のためである。この時期、隅田川沿いではオリンピックに向けて首都高の橋桁工事が行われており、危険が予測されたのである。再開は、1978年になってからだ。この時に、警備と交通整理を理由に、両国よりも少し上流で打ち上げられることになり、名称も隅田川花火と改められた。

今ではおなじみのテレビ東京(当時の東京12チャンネル)での実況中継も、この年に始まった。東京都だけではまかなえない予算を負担することで東京12チャンネルの独占契約となったようだが、ほかのメディアからのクレームもあったという。いずれにせよ、17年ぶりの復活がいかに注目されていたかがわかる。

花火大会当日7月29日(土)のテレビ欄を見てみると、19時から2時間特番で独占生中継をしている。総合司会は宮田輝、ゲストには三波伸介、ピンクレディー、榊原郁恵、こまどり姉妹、菅原文太、愛川欽也などが呼ばれている。裏番組には『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ)、『クイズダービー』(TBS)、『8時だヨ!全員集合』(TBS)といった伝説の番組が並んでおり、当時から花火中継はキラーコンテンツだったことをうかがわせる。ちなみに、ピンクレディーは同時間帯のフジテレビの『ズバリ!当てましょう』にも出演し、「歌って踊って着物で奮闘」している。

■2017年には視聴率10.0パーセントを記録

2017年のテレ東による第40回隅田川花火大会の中継は、平均視聴率10.0パーセント(ビデオリサーチ調べ、関東地区)という驚くべき数字を記録した。40年前と同じく同時間帯には他局の人気番組が並んでいるが、花火中継は健闘以上の結果を残している。テレ東では、マンパワーの問題もあり、花火中継はスタッフの誰もが一度は通る道となっているという。花火だけでなく、その中継もある種の伝統になっているのだ。

テレビ東京では今年も生中継を予定(『第41回隅田川花火大会 独占生中継』HPより)

長い中断を挟みながらも、200年以上に渡って隅田川での花火大会は続いてきた。現在は2万発もの花火が打ち上げられる。この間、打ち上げ場所は異界の街・両国から娯楽の街・浅草へと近づき、花火に向けられるまなざしも、慰霊から国威発揚、そして娯楽へと変遷してきたと言えるだろう。花火を見上げながら、その歴史にも思いを馳せてみてほしい。

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岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授
1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。専攻は宗教学と観光社会学。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)、『宗教と社会のフロンティア』(共編著、勁草書房)、『聖地巡礼ツーリズム』(共編著、弘文堂)、『東アジア観光学』(共編著、亜紀書房)など。

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(北海道大学大学院 准教授 岡本 亮輔 写真=時事通信フォト)

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