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日本のVIPだった朝鮮のラストエンペラー

プレジデントオンライン / 2018年10月1日 9時15分

東京都心に今も残る旧李王家邸(現・東京ガーデンテラス紀尾井町・赤坂プリンスクラシックハウス)(写真=PIXTA)

韓国の文在寅大統領が10月前半に首脳会談のため来日するとの報道があった。もし実現すれば、今年5月に続く2度目の来日となる。著述家の宇山卓栄氏は、文大統領が来日した際にはぜひ訪れてほしい場所があるという。日本で教育を受けて陸軍中将まで上り詰め、日本の皇族の女性と結婚もした朝鮮王朝のラストエンペラー、李垠殿下の旧邸だ。その理由とは――。

■訪日する文在寅大統領に訪れてほしい場所

10月前半、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が訪日する方向で調整が進んでいます。1998年10月に採択された「日韓パートナーシップ共同宣言」採択から20周年を迎えるにあたり、両国の関係構築を進めることを目的に、日本で首脳会談が行われる予定です。

98年の「共同宣言」は、当時の金大中(キム・デジュン)大統領と小渕恵三首相が、未来志向に基づく両国の関係構築を定めたものです。その20周年の節目に話し合う相手として文大統領がふさわしいかどうかは、正直いささか疑問です。慰安婦問題の「最終かつ不可逆的な解決」を示した2015年の日韓合意について、「政府間の公の約束であっても、大統領として、この合意で慰安婦問題が解決できないことを改めて明確にする」と表明するなど、外交上の約束を平気で破るような態度を示してきた文大統領と、はたして「未来志向」の話し合いが成立するのでしょうか。

それでも文大統領が訪日するというなら、両国の関係を健全に振り返ってみる上で、ぜひ訪れて欲しい場所があります。その場所とは、かつての李王家邸、現在の「東京ガーデンテラス紀尾井町・赤坂プリンスクラシックハウス」です。

この場所は2011年に閉館した「赤坂プリンスホテル」の旧館としても知られ、1930年に朝鮮王家の李垠(り・ぎん)殿下と方子(まさこ)妃の邸宅として建てられたものです。

■日本で教育を受け、宮家の女王と結婚

日韓両国の歴史を考える上で、李垠殿下の存在は欠かせません。にもかかわらず、日本の学校でも殿下についてはほとんど教えられることがないため、知っている人は少ないと思います。

李垠殿下は、朝鮮王・高宗の子です。伊藤博文の建議で1907年に日本に渡り、幼少期から日本で教育を受け、学習院や陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校をに進学。卒業後は日本陸軍に少尉として任官します。異母兄の純宗が1926年に死去すると、日韓併合に伴う朝鮮王室の処遇を定めた王公族制度に基づいて李王となり、李王家の当主になりました。

軍人として有能だった殿下は順調に昇進し、宇都宮歩兵第59連隊長、北支那方面軍指令部、近衛歩兵第2旅団長などを歴任。最終的には陸軍中将にまで上り詰めます。1936年の二・二六事件の際には、李垠殿下は宇都宮歩兵連隊長として大隊を率い、反乱軍の鎮圧にあたっています。

李垠殿下は1920年、戦前の11宮家の一つであった梨本宮の守正王の第1王女、方子女王と結婚します。方子女王は昭和天皇の妃候補の一人でもありました。朝鮮独立運動家の徐相漢という人物が、この結婚に反対して李垠殿下夫妻暗殺を計画しましたが、準備中に発覚して逮捕されています。

ご夫妻は千代田区紀尾井町の旧北白川邸跡に建てられたチューダー様式の洋館、李王家邸で暮らしました。李垠殿下は寡黙な性格で真面目であり、夫婦は仲睦まじく、「皇族らしく振舞われている」と高い評価を得ていました。

■李承晩政権が帰国を拒絶

第二次大戦終結後の1947年、日本国憲法の施行とともに王公族制度が廃止され、李垠殿下は李王の位を喪失し、一介の在日韓国人となります。夫妻は帰国を大韓民国に申請しますが、当時の李承晩(イ・スンマン)大統領が王政復活を警戒し、帰国を受け入れませんでした。

とはいえ、そのとき帰国できなかったことは不運ともいい切れません。中国の清王朝の宣統帝溥儀が撫順戦犯管理所に収容されたように、李垠殿下も強制収用所のたぐいの施設に入れられたかもしれないからです。日本陸軍で活躍していた経歴から戦犯として裁かれ、見せしめに処刑された可能性さえあります。

朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代の1962年、李垠殿下は方子妃ともに韓国籍になることを認められます。1963年、夫妻は韓国へ帰還しますが、李垠殿下は脳梗塞を患っており、ソウルで入院生活を続けました。

1970年、李垠殿下は死去します。方子王妃は韓国に残り、昌徳宮の楽善斎で暮らしながら心身障害児の教育事業に尽力。1989年に世を去りました。

■殿下は韓国併合の「人質」だったのか?

日本が朝鮮を侵略し、幼い李垠殿下を人質として日本に連れて来たという説明をよく見かけますが、それは事実ではありません。

日本は当時の大韓帝国首相の李完用(イ・ワニョン)らの求めに応じ、1910年、大韓帝国を合法的に併合しました。これに伴い、李王家は皇族としての身分を失い、代わりに、大日本帝国の皇族に準じる王公族の身分を与えられ、保護されました。李垠殿下が日本で教育を受けはじめたのは1907年で、併合の3年前のことです。

伊藤博文自らが李垠殿下の教育係となり、明治天皇や皇太后も、幼かった李垠殿下に愛情を注ぎ、皇太子(後の大正天皇)と同等に教育をしました。李垠殿下が人質ではなかった証拠に、殿下は何度もソウルに里帰りしています。

学校さえまともになかった当時の朝鮮を哀れみ、日本は李垠殿下をはじめとする朝鮮王族の子弟に教育の場を提供しました。王族だけではありません。朝鮮人で優秀な者は身分を問わず、陸軍士官学校で学ばせ、日本の軍人として活躍の場が与えられたのです。朴正煕大統領などはその代表です。

ちなみに、朝鮮併合後に日本が最も力を注いだのも、朝鮮における公教育の制度化と、各地での学校や病院の建設でした。

■歴史を単純化することの危うさ

日本は朝鮮王族や朝鮮人が高度な教育を受け、世界の情勢を理解できるようになり、日本人の同胞として育っていってくれることを期待しました。ヨーロッパ列強は帝国主義を振りかざし、他国を踏み潰し植民地化しましたが、日本と朝鮮との関係は植民地というより、むしろ連邦国家の関係に近かったと言えます。我々が考える以上に、戦前の日本人は朝鮮人を尊重していたのです。

そうでなければ、朝鮮王族が日本皇族と対等に、縁戚関係など結べるはずがありません。朝鮮王族をないがしろにしたのは、むしろ李承晩政権です。李承晩だけでなく、韓国の国民も自分たちの国の王族を忘れ、受け入れようとはしませんでした。

文在寅大統領は「慰安婦」問題に執着しているようですが、近代史における日本と朝鮮との関係は、「日本が一方的に朝鮮を奴隷化した」といった単純なものではありません。そのことを知るためにも、文大統領は訪日した際に、李垠殿下夫妻が暮らした旧李王家邸を訪れるべきなのです。

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宇山卓栄(うやま・たくえい)
著作家
1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『「民族」で読み解く世界史』(日本実業出版社)などがある。

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(著作家 宇山 卓栄 写真=PIXTA)

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