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「筋トレ」なんて、いますぐ辞めてしまえ

プレジデントオンライン / 2018年10月5日 15時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/Zinco79)

幸せな人生を手に入れるには、なにが必要なのか。ネットニュース編集者の中川淳一郎氏は、「若さやモテ、出世など、いろいろなことを諦めるたびに人生がラクになった」と語る。今回、取り上げるのは「筋トレ」。中川氏はリフティング大会で入賞するほど筋肉を鍛えていたが、35歳のときにトレーニングを辞めてしまった。その理由とは――。

■十代のころ、筋トレにハマる

ここ数年でいろいろなことを諦めた結果、人生がラクになった──といった話は、これまでも当連載で何度か書いてきた。具体的には「出世」「モテ」「若くあり続けること」を諦めたわけだが、さらに諦めたことがある。それは「筋トレ」である。

筋トレは50代だろうが60代だろうが取り組めることであり、筋肉は鍛え方次第で、その年代なりに増やすことが可能だ。テレビ番組で筋骨隆々としたおじいちゃんが紹介され、スタジオの出演者が「オーッ」などと驚くシーンを見たことがある人もいるだろう。

私が筋トレを始めたのは17歳のころ。当時はアメリカの高校に通っていたのだが、一般的な体育の授業のなかに、トレーニングマシンなどを用いた筋トレが組み込まれていたのだ。試しに続けてみたところ、自分の筋肉がみるみる増えていく様を目の当たりにして、がぜん楽しくなってしまった。

■ある日「もうこれでいいか」と諦観をおぼえる

大学入学後も、筋トレの習慣は維持されることになる。体育会の学生が使う筋トレ室を体育会非所属ながら利用し、主に上半身を鍛えていた。4年生の秋には「せっかく鍛えたのだから、何か結果を残したい」とさまざまな大学の体育会が出場する「関東学生パワーリフティング選手権大会」にエントリー。60kg級に出場し、ベンチプレスの部で5位に入ることができた。

就職後は忙しくなり、なかなか鍛える時間が確保できなかったものの、東京・田町の勤め先から徒歩で行くことができた森永製菓のトレーニング施設に週2回は行くようにし、土日はどちらか1日、母校である大学の筋トレ室でトレーニングをしていた。そして32歳で一戸建ての二階屋に引っ越した際、スペースが空いていたこともあって、ついにベンチプレスを自宅に導入してしまった。

あれから13年、このベンチプレスは気が向いたときやイライラしたときに上げる程度である。イライラしているとき、身体に思いきり負荷をかけるとササクレ立った気分が解消される。いまでは身体のためというより、精神の安定のために筋トレをやっているようなものだ。

35歳のとき、熱心に鍛えることを辞めた。それまでの18年間でついた胸と上腕の筋肉はベースとして残り続けていくだろうし「もうこれでいいか」と考えるようになったからだ。現状維持に気を配りながら、さらに上を目指すような筋トレは、そこで諦めた。それから10年がたち、いまではすっかり筋トレへの未練も消えてしまっている。

■「終わりの見えない状況」は疲れるだけ

何かを「諦める」ことは、一概にネガティブなことではない。というのも「終わりが見えない」という状況は、人生において多大なストレスをもたらすからだ。

たとえば「定年」は、社会人生活におけるひとつの区切りとして存在し、ひとまずの「終わり」を示してくれるものだ。だからこそ人は「60歳までは、なんとか働こう」と考えることができるのだと、私は思う。一方、いま私が携わっているフリーランスのウェブメディア編集という仕事には終わりが見えない。

紙メディアの社員編集者、それも新卒で出版社に入ったような人材であれば、先はイメージしやすい。あくまで一例だが、若手のうちに激務の週刊誌編集に従事した後、いくつかの雑誌で編集を経験し、最初に配属された週刊誌にデスクや副編集長といったマネージャー職として復帰する、といったキャリアが考えられる。そこからは編集長になれるかどうかのレースが始まる。

そのレースに敗れたら、次は書籍編集の道に進み、ヒット作を手がけることがひとつの目標となるだろう。もちろんそこでも、編集長レースは存在する。さらにその先には、編集部門を統括する部長職、局長職を目指すレースもある。また、定年の5~10年前には「役員になれるかどうか」という岐路もやってくる。これが、会社員人生の「終わり」を見通すにあたってのメルクマールとなる。役員になれないことが見えてきた場合は、早期退職の道を選ぶこともあるだろう。

■「筋肉が減り、脂肪が増える」という恐怖

このように、ある程度「終わり」が見えていると人生設計は組み立てやすい。ただ、ウェブメディアの場合、どうにも終わりが見えないので、最近はこの仕事にかかわることが正直つらくなってきた。

毎日、記事の拡散とページビューの数字に追われ、刹那的に消費されるだけの記事を出し続ける日々。ときおり「あの記事、読みましたよ」などと言ってもらえたりするのは編集者・著者冥利に尽きるが、そうした喜びもその瞬間だけのことであり、再び終わりのない“ウェブ編集小作農”としての活動がいつまでも続いていく。

同じように筋トレにも「終わり」がない。なにしろ70代になっても、鍛えれば筋肉は成長するのだから。日常的に筋トレに取り組んでいる人にとっては「あるある」だろうが、数日ほど筋トレから離れただけでも、胸の筋肉が薄くなり、肩の隆起も小さくなったと感じてしまう。そして「やばい、早く筋トレをやらなくちゃ」などと焦りを覚えるものだ。

そんな調子なので、長期出張や旅行に出向くときには、ホテルにジムがあるかどうかが宿選びの重要な判断材料となってくる。ジムがない場合は、部屋で腹筋や腕立て伏せをやるなどして、とりあえずは心の安定を図ろうとする。

■筋トレで自己肯定感が高まるのは“麻薬”

加えて、筋トレをしばらくやらない状態でそれまでと同量の食べ物を摂取し続けてしまうと、往々にして腹が出てくる。筋肉量が多いということは、すなわち「燃費の悪い身体」であることを意味している。筋肉がエネルギーを大量消費してくれるので、少しくらい暴飲暴食したくらいでは太らないのだ。

それどころか、鍛え続けることで筋肉量は増加していくので「ウヒヒヒヒ、我がカラダはin good shapeだぞ」なんて自己満足の極地を味わうことができる。そんな経験をしてしまうと、筋肉の量が目に見えて減っていき、それと入れ替わるように脂肪の量が増えていく状況は恐怖でしかない。

筋トレを熱心にやっていたころは、銭湯やプールに行くときでさえ誇らしい気持ちになった。知らない人から「うわー、触っていいですか」なんて言われたときのうれしさといったら。女性芸能人が「筋肉質な男性が好き」なんて言っていたら、「おぉ、もしかしたらオレも○○さんと付き合えるかな」と妄想することもあった。

とにかく“筋肉が多い”というだけで、ありとあらゆることに自信が持てるようになり、自己肯定感が高まるのである。この麻薬のような感覚を一度でも味わってしまうと、筋トレをしないことが大きなストレスとなり、筋量が減ってしまう状態はたまらなく悲しいものになる。しかし、終わりが見えないだけに「オレは一生涯、筋トレを続けなければならないのか?」と、心の弱い部分が訴えかけてくるのだ。

■気持ちが楽になった途端、年収が増えた

実は20代のころにも、何度か筋トレを辞めようとしたことがある。会社で忙しいなか、森永製菓のトレーニングセンターに行くのがキツくなってきたのだ。それでも筋トレを続けたのは、意地としか言いようがない。おかげで、激務で不規則な生活を続けてもなんとか体形は維持できた。

30代になり、フリーライターとして猛烈に忙しくなったときも辞めようと思ったが、自宅にベンチプレスを導入することでなんとか続けられた。そしてついに35歳のとき、踏ん切りがついた。仕事がさらに忙しくなっただけでなく、同時期に狭い家へと引っ越したので、ベンチプレスのセッティングが大変になってしまい、ようやく決断することができたのだ。

「いまが辞め時だったのだ」「もう無理にやることはない」──そう決めたところ、途端に気持ちがラクになった。それ以来、純粋に仕事に集中できるようになり、年収は大幅に上がっていった。

■焦燥感を煽る、あのCM

熱心に筋トレに取り組む人を否定する気は毛頭ない。ただ、すべての物事には「終わり」が見えたほうがいいのではないか、と近ごろとみに思うようになっただけのことだ。私は35歳でようやく「よいカラダ」を追い求める競争から撤退することがかない、10年かけて完全に諦めの境地に至ることができた。

「デキる人ほどいくつになっても身体を鍛えている」といった言説は、ビジネス書やビジネス雑誌などで、これまでもさんざん語られてきた。また、最近は「RIZAP(ライザップ)」の人気などからも見て取れるように、たるんだ中高年が一念発起してワークアウトに取り組み、見事な体形を手に入れることがもてはやされる風潮もある。

ライザップのCMを見て、本気で焦りを覚える人も多いのではなかろうか。だからこそ会員が増加しているのだろうし、そもそも素直に焦る人(=CMを見て入会する人)が多くなければ、あそこまで大量にCMを流すことなどできない。もっとも「筋骨隆々な身体を手に入れよう」という競争から完全に降りた私は、あのCMを見ても何も感じないわけだが。

■デブになった友人の“決断”に感じ入る

そんな心境なので、かつて体育会に入っていた友人がすっかりデブの中年になっている姿を見たりすると、妙に安心する。彼らは学生時代、毎日のように過酷な練習をこなし、素晴らしい肉体美を誇っていたわけだが、卒業後は残業と飲み会の日々を送り、「もう昼メシくらいしか楽しみはねぇよ!」とばかりに高カロリーのランチを食い続けた結果、2年程度でデブになる。

学生時代、178cm/75kgなんて筋肉質だった人物が数年で103kgくらいになり、「オマエ変わったなぁ!」と友人からイジられ、「ガハハハハ、部署内一のデブだぜ!」なんて豪快に笑い飛ばしているのを見ると「あぁ、こいつも“終わりの見えない競争”のひとつから降りることができたんだな。本当によかった」と、しみじみ感じ入ってしまうのだ。彼らの英断を、私は心から支持したい。

■少しくらいラクをしたって構わない

さて、筋トレから降りたいま、心の平安を得ることはできたが、一方で身体が弱くなったことは実感している。

先日、知人のクルーザーに乗り、海遊びをする機会があった。参加者は男性が5人、女性が8人だったので、男性が率先して力仕事をこなす必要があり、SUP(スタンドアップパドルボード。水上を立ち漕ぎで移動する大型のサーフボード)を長距離運んだ。SUPは長さが4メートルほどで、空気を入れるとなかなかの重さになる。バランスよく運ぶには、かなりの力が必要だった。そして、それを漕ぐにもけっこうな腕力が求められた。

その後、海で泳いだのだが、波に逆らって泳ぐのは思いのほか重労働で参った。お笑いコンビ「ANZEN漫才」のみやぞんが今年の『24時間テレビ』で1.5kmスイムをこなす姿を見て「大したことないだろ」と思っていたのだが、自分が海でほんの少し泳いだだけでも疲れ切ってしまった事実を前に、みやぞんを見直すしかなかった。

翌日は全身筋肉痛で、日ごろ鍛えていないことの弊害がモロに出た感じだったが、かつてよく味わっていた筋トレ後の心地よい疲労感を覚え、「たまにはこんな疲れを感じるのも悪くないな」と思った。とはいえ「筋トレ」から降りたことに、やはり後悔はない。

人生は決して長くない。だからこそ、ストレスは少ないに越したことはない。本当はよいとわかっていることでも、無理を感じ始めたらさっさと辞めてしまっても構わないだろう。たとえばそれは「健康志向が過剰な食生活」「日経新聞を毎日必ず読む」「禁酒」「禁煙」などさまざまだが、ストイックすぎる人生は疲れるだけだ。少しはラクをしてもいい。

仕事や家事など人生のベースとなる部分をキチンとこなしているのならば、それ以上の部分においては、自分を甘やかすことに罪悪感を覚える必要はないのだ。

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【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」
・ストイックすぎる生活は疲れるだけ。こだわりを持って続けてきたことでも、無理を感じるようになったら辞めてしまって構わない。
・幸せな人生を送るには、いかにストレスを減らすかが重要。そのために何かから「降りる」勇気を持て。
・仕事や家庭生活など、本当に大切なことだけキチンとこなしていれば問題ない。

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中川淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者/PRプランナー。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライター、「TVブロス」編集者などを経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』『ウェブでメシを食うということ』『バカざんまい』など多数。

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(ネットニュース編集者/PRプランナー 中川 淳一郎 写真=iStock.com)

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