"1億円"大迫傑「日本を出たから日本新」
プレジデントオンライン / 2018年10月10日 9時15分
■男子マラソン「大迫傑」日本新記録の裏に名コーチあり
10月7日、男子マラソンの日本新記録が生まれた。大迫傑(27歳=ナイキ・オレゴン・プロジェクト)がシカゴマラソンで出したものだ。大迫が拠点にするのはアメリカで、サポートするコーチもアメリカ人。筆者は8月下旬、そのコーチに会い、そのコーチングのポリシーを取材していた。
その指導内容は、昨今、日本でたびたび報じられているパワーハラスメントのような指導とは対極だった。
2018年は日本のスポーツ界における「パワハラ問題」が次々とあきらかになった。
その発端となったのが、1月、女子レスリングで五輪4連覇を果たした伊調馨選手が、日本レスリング協会の栄和人強化本部長からパワハラを繰り返し受けていた、という報道だった。5月には日本大学アメフト部の危険タックル問題が報じられ、8月にはリオデジャネイロ五輪体操女子代表の宮川紗江選手が塚原千恵子女子強化本部長のパワハラを告発した。
陸上界では今年9月、日本体育大学駅伝ブロックの渡辺正昭元監督によるパワハラが明らかになった。渡辺氏は愛知・豊川工業高校の教諭時代に、部員への体罰を繰り返したとして懲戒処分を受けていることもあり、“厳しい指導”は陸上界で有名だった。そのため、筆者は驚かなかったが、今回の報道で本当に残念な気持ちになった。
なぜなら渡辺氏のキャリアは抜群なものがあったからだ。私立高校やケニア人留学生を擁する学校が上位を占める全国高校駅伝で、愛知県の公立校である豊川工業高校は上位入賞の常連だった。高校を卒業後、箱根駅伝で活躍したランナーも多数いる。
体罰が明るみになった後、同校PTA関係者から指導継続を求める約3万8000人の署名が集められたほど指導者として“魅力”があったのだ。体罰は絶対にいけないことだが、高校スポーツ界で渡辺氏ほど情熱を注いだ指導者がどれだけいるだろうか。
■愛情ベースの暴言なら許されると思っている日本の指導者
渡辺氏は日本体育大学の駅伝監督に就任した後も、予選会から出発した1年目に箱根駅伝で7位。昨年は7位、今年は4位と結果を残してきた。しかし、『フライデー』(9月7日発売号)によると、ペースを乱した選手に対して、乗り込んだ併走車から「ひき殺すぞ」と凄み、故障中の部員には「アイツ障害者じゃないか」といった言葉を浴びせたという。
その後、日本体育大学が公表した調査報告書によれば、実際に「脚を蹴る」「胸ぐらをつかむ」といった暴力行為も複数確認された。選手の人格を否定するような「言葉の暴力」も報告された。渡辺氏はこれらの言動をおおむね事実と認めたものの、「パワハラに該当する認識がなかった」という。
この“認識”が非常に危うい。無意識にパワハラ行為におよんでいるのである。
今年、相次いで報じられたパワハラ事件は氷山の一角にすぎない。スポーツ界では、今なお多くのチームでパワハラに近い指導が行われている。かつてに比べて体罰はみられなくなったが、言葉の暴力にはまだ甘さがみられる。荒っぽい言葉でも、選手育成の“愛情”から出た叱咤激励は許される。そんな感覚をもつ指導者が少なくない。
たしかに、以前なら監督と選手の距離感や信頼関係などで許されることもあったが、昨今は選手が「NO!」を突きつけ、告発に至るケースが増えている。現在は、その転換点にある。ところが監督・コーチたちは恐ろしく鈍感だ。大物であるほど鈍い。
■誰のための「コーチング」なのか? 日米の大きな違い
筆者は陸上競技をメインに取材しているが、強豪チームといえども、監督・コーチの指導法に疑問を持つことが少なくない。最も強く感じるのは、「誰のための指導なのか?」ということだ。
監督・コーチ本人が勝ちたいのか。それとも選手を勝たせたいのか。所属する会社や大学から勝利を求められるケースもあるし、反対に高校や大学の在学中に勝てなくても、将来につながる指導をしたいと考えている監督もいる。
指導者の思いは微妙に違うが、日本のスポーツ界は「指導者>選手」という構図が一般的だ。そうした環境にスポーツ界にとどまらず、日本人の多くが“歪んだ構造”に麻痺している可能性は高い。なぜなら、米国では「指導者=選手」というフラットな関係が普通だからだ。
10月7日、東京五輪「男子マラソン」の星である大迫傑が世界最高峰シリーズ「ワールド・マラソン・メジャーズ」のシカゴマラソンで2時間5分50秒を出し、3位に入った。設楽悠太(26歳=ホンダ)が今年2月につくった2時間6分11秒の日本記録を更新し、日本実業団による報奨金1億円を手にした。
この大会の前に、大迫のコーチであるピート・ジュリアン氏に話を聞く機会があった。日米の指導スタイルに大きな差を感じたので、彼の言葉を紹介したい。
■報奨金1億円大迫選手を育てた米国人コーチの手腕
大迫は早大時代に箱根駅伝で活躍するなど、学生時代から日本トップクラスのランナーだった。大学卒業後は、日本の実業団チームに進むも1年で退社。2015年春から米国に練習拠点を移して、さらなる高みを目指している。その中でコーチのジュリアン氏はどんな指導を心がけてきたのか。
「選手とコーチの関係は日本と違いますね。アメリカでは『パートナー』という意識が強い。トレーニングするときも、次は何をしようか? とお互いに意見を出し合い、戦わせながらメニューを調整しています。アメリカでは上下はなくて、対等な関係が一般的です。文化の違いもあるので、どちらがいいというのはありませんが、私も学生時代はそういうコーチングをされてきましたし、そのやり方しか知りません」
日本の場合は、「俺の言う通りにやればいいんだ!」という指導者が少なくない。特に高校、大学の指導で実績を積み上げてきたタイプは自分のやり方に自信を持っているせいか、選手たちの声にあまり耳を傾けようとしない。それどころか、自分のやり方を少しでも乱す選手がいれば気に入らないのだ。
その結果、パワハラまがいの指導が行われている。そういう監督・コーチのもとで過ごすと、選手たちは「自分で考える力」を養わなくなる。常に監督の顔色をうかがうため、選手として自立できなくなってしまう。
■「感情的にならず、パートナーとして選手に意見を言います」
選手は自分の意見を持たず、監督のやり方にも疑問を持たない。いや、監督・コーチが自分たちのやり方に疑問を持たせないように、パワハラや鉄拳制裁を用いて、選手たちを“洗脳”する。それが中学、高校、大学に跋扈するカリスマ指導者の正体なのかもしれない。だが、ジュリアン氏の指導はまったく違う。
「選手は自分の目標を持ち、コーチである私の責任は、それを守ってあげること。アスリートは、目の前のことに過剰な反応を示すこともありますが、もっと先のことを考えられるようにアドバイスするなど、未来までイメージさせてあげることがパートナーとしての私の役割だと思っています。そのため、アスリートの意見を常に聞くようにしています。自分のカラダですから、私よりも知っている。私はその情報をもらってプランをつくる。意見が異なるときもありますが、感情的にならず、パートナーとしての意見を出すことが正しいと思っています。良いアスリートになってほしくて協力しているわけですからね」
ジュリアン氏から指導を受ける大迫も、こう話す。
「一番大切なことは、自分がどうありたいのか。明確なビジョンをしっかり持つことです。それに対してのステップを自分で考えて、コーチと相談します。自分の意見を通すこともあれば、変わることもある。いずれにしてもベストな選択ができるような関係を築くことが大切じゃないでしょうか」
ジュリアン氏も学生時代は陸上競技の選手だった。そして、当時のコーチと同じようなスタイルの指導者になった。大迫は日本を出て最先端の練習環境に身を置き、日本人とは異なるアプローチのジュリアン氏に出会った。そのことが大迫を一皮むけさせ、今回の男子マラソン日本新記録=報奨金1億円にもつながったのだ。
■「上下関係からフラットへ」日本のスポーツ界は変われるか
日本はどの競技でも総じて上から押さえつけるような指導者が多い。そう考えると、日本スポーツ界が“負の連鎖”を断ち切ることは、かなり難しいのかもしれない。
日本のスポーツ界は学校の「部活」を中心に発展してきた。
そこには明確な上下関係が存在する。いわゆる体育会系の世界だ。その中で身についた「礼儀」などは、日本的で美しい作法といえるかもしれない。しかし、スポーツをする上で“上下関係”はむしろ弊害をもたらし、昨今立て続けに起きるパワハラ事件の教訓と言えるのではないか。
監督・コーチが高校・大学の先輩(OB・OG)に当たれば、さらに意見は言いづらくなる。必然的にトップダウン式の指導になりがちだ。そして、監督は“裸の王様”になっていく。パワハラや体罰があっても、誰も止めることができないのだ。
日本のスポーツを変えるのは選手ではなく、指導者の“意識”だと筆者は思っている。
特に学生スポーツの場合は、試合で結果を残すことよりも、大切なことがあるはずだ。選手たちの“夢”をかなえるために、どんなサポートができるのか。そのために、大迫を世界トップ選手に育てサポートするジュリアン氏に象徴される「選手とフラット」というスタンスと距離感を深く理解することが必要なのではないだろうか。
(スポーツライター 酒井 政人 写真=AFP/アフロ)
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