「道徳」が必要なのは小学生より中高年だ
プレジデントオンライン / 2018年10月12日 9時15分
※本稿は、寺脇研『危ない「道徳教科書」』(宝島社)の一部を再構成したものです。
■勉強ができても自己肯定感はナシ
読書や映画に耽溺して劣等生になった中学高校時代とは違い、私は小学校のとき、勉強がよくできたほうだったと思う。テストがあれば満点を取るのもしばしばで、図工、音楽、体育、家庭を除いた教科ではクラスのなかでいつも1番の成績をおさめていた。
しかし、そんな自分に対しどれだけ自己肯定感があったかというと、実はほとんどないに等しかった。年の近い私の従兄弟は、心根が優しいと評判で、祖父母にいつも「お前は心がいいから」と褒められていた。それを脇で聞くたびに、少年だった私は「お前は勉強はできるけれども心はよくないね」と言われているような気がして、落ち込んだものである。実際、私は嘘をついたりズルい行いをする子どもだったし、それを自覚もしていた。
つまり、勉強ができても肝心なのは心だから、それが良くなければたとえどんなにテストの点が良くても、心が美しい子どもより劣っている――当時の私は密かにそう感じていたのである。
■社会や家庭で培われた規範意識
それは決して「勉強ができる」のを無条件に称揚する装置である学校で教えられたものではなく、社会や家庭のなかで培われたひとつの規範意識だった。昭和30年代半ばまでは、4年制大学への進学率はまだ10%にも満たない時代で、「勉強ができる人間がすごい」という尺度がまかり通るのはせいぜい、まだ少数派だったサラリーマン世帯と学校の同級生の間くらいだった。
その後、高度経済成長とともに受験戦争が本格化し、進学率も急上昇して高学歴であることの価値は飛躍的に高まっていくが、人格形成期に「勉強ができる」ということを過大評価されてこなかった世代である私は、子どもの頃、いつも心のどこかに「たとえ勉強ができたとしても」という気持ちを持っていたように思う。このことは、現在の私の道徳に対する考え方に少なからぬ影響をもっているかもしれない。
■「心のノート」で考えた「押し付けではない道徳」
道徳とは何か――そのことについて文科省時代、深く考えさせられたのは2002年に文科省が配布した「心のノート」の作成に関与したときだった。
「心のノート」は、90年代後半に起きた、いくつかの少年犯罪をきっかけに作られている。私は、これが果たして少年犯罪の抑止につながるだろうかと懐疑的だったが、後に文化庁長官になり、私がその下で働かせてもらうことになる心理学者の河合隼雄先生が作成の中心になるというので関心を持った。河合先生には、「ゆとり教育」と蔑称される羽目になった2002年以降実施の指導要領のもととなる中教審答申(河合先生が中心となって起草された)が1996年に出された頃に知遇を得て、議論の場や酒席もご一緒させていただく関係だった。
学校教育を所管する初等中等教育局を中心に「心のノート」の作成が始まったとき、生涯学習政策局担当の大臣官房審議官だった私は、生涯学習や社会教育の立場から、「道徳」とはそもそも何だろうということについて河合先生にお伺いした。
「子どもたちに何かを押し付けるようなものであってはならないと思います。しかし、押し付けではない道徳とはいったい何でしょう」
私がそう質問したとき、河合先生は次のようなことを言った。
「押し付けがいけないことはその通り。だが、社会にはごくわずかではあるが、どのような場合にでも人間の共通理解となり得る汎用的ルールというものがあるかもしれない。そのことを念頭において『心のノート』を作ってみよう」
■「人間の共通理解となり得るもの」とは
このとき、河合先生は具体的に何がその「共通理解」に該当するものなのか、結論を出したわけではない。ただ私はその後、このとき河合先生が言った「人間の共通理解となり得るもの」について考え続けてきた。
命を大切にする、弱いものに対しては自分のできる範囲で助けていくといった考えは、思想信条の壁を越えて、ほぼ、人間の守るべき規範として共通理解を得られるかもしれない。だが、「親を大切にする」とか「国や郷土を愛する」「集団のなかで決まりを守って生活する」といった規範については、すべての人に理解を得られるとは限るまい。子どもが素直に親を大切にできる家庭は幸せだが、世の中にはそういった関係が築けない家庭も現実的にはたくさんある。国や集団に対する考え方も同じだ。何が全員の共通理解となるか、それを国民全体で議論してみる価値はある。
そうやって確定したすべての人に共通理解を得られる汎用的ルールさえ、学校に限らずどこかで子どもたちに学び取ってもらえれば、その他のさまざまな項目を学校で教科書を使って教え込む必要はない。
河合先生は、「人間の共通理解となり得る汎用的ルール」があったとしても、本来それは国が押し付けるのでなく、たとえば日本PTA全国協議会のような民間の社会教育団体が提唱するのがいい、とおっしゃっていた。私が道徳教育の必要性は認めながらも、学校での教科化には反対する土台はそうした考えにある。
■「ネット右翼」の平均年齢は40代前半
小学校の道徳教科書には、時代を反映してSNSを題材とした教材が盛り込まれている。学校図書(5年生)の教科書には「自分や相手の顔が見えないやりとり」として、次のような設問が立てられている。
<いつでもどこでも友達と交流できるSNSは、とても便利ですが、思わぬごかいやトラブルにつながることがあります。自分の都合だけでなく、受け取る相手の立場に立って、楽しく正しく利用しましょう。文字だけのやりとりだからこそ、どんなことに気を付けたらよいか、考えてみましょう。>
ネット上における誹謗中傷や悪意のもとに行われる情報発信は、しばしば社会的な問題にもなっている。「近頃の若いやつは……」と眉をひそめる向きもあろうが、実はこうした問題の当事者となっているのは、子どもたちではなく、40代以上の中高年に多いことが分かっている。
若手評論家、作家の古谷経衡は著書『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)のなかで、いわゆる「ネット右翼」と呼ばれる人々の平均年齢を「38.15歳」と推測している。これは2013年の大規模調査による数字で、状況が大きく変わっていなければ、5年後の現在は40代前半が平均値ということになる。
また、2014年10月に『毎日新聞』が公表した読書世論調査では、16歳以上の男女3600人に聞いたところ、「嫌韓・嫌中」本やマスコミ、ネットなどで関連記事を読んだ層(全体の10%)のうち、45%が60代以上で10代後半は3%、20代は8%にすぎなかった。
■エリート官僚も「事件」を起こす
もちろん、調査の方法によって数値の傾向は変わってくるだろう。それでも、ネット上でイデオロギー論争を繰り広げたり、攻撃的な主義主張を繰り広げたりする層の中心が、中高年であることはほぼ間違いないようだ。ネットでなくても、「LGBTのカップルには生産性がない」とか、肺がん患者の国会での訴えに「いいかげんにしろ!」とヤジを飛ばすとか、セクハラ撲滅を訴える議員たちを「私にとって、セクハラとは縁遠い方々」と揶揄するのはみな、中高年の議員の暴言だ。テレビ局の女性記者に対し信じられないセクハラ発言をしたのも、還暦間近の高級官僚である。
2013年には、総務省から復興庁に出向していたキャリア官僚(当時45歳)が、ツイッターで「皆で福島に行ってしまえば、議員対応も法制局対応も主計対応もできなくなるから、楽になりそうだ」「左翼のクソどもから、ひたすら罵声を浴びせられる集会に出席。不思議と反発は感じない。感じるのは相手の知性の欠如に対する哀れみのみ」などと発信していたことが報じられ、停職処分を受けた。
この官僚を知る人々は、各紙の取材に対し「普段は丁寧で腰が低い人物で驚いている」と証言しているが、知識や学力は十分にあるはずのエリート官僚がこうした考えられないような「事件」を引き起こすのは、ある意味不思議なことではない。それは、どんなに高学歴で広範な知識を持つ人物であったとしても、どのように生きるべきか、どう行動すれば美しい人生なのか、そうした判断力は、知識とはまた別物なのである。
■子どもよりも「キレる老人」が問題
年配層の「暴走」は何もネットのなかだけの話だけではない。近年さかんに指摘されているのは「キレる老人」の問題だ。
公共の場で非常に高圧的な態度を取ったり、自己中心の権利主張が強かったりするのは若者よりむしろ高齢者のほうであるという指摘が、多くの日本人に共感を呼ぶという現実がある。もちろんこれは、少子化と高齢化が進むなかで高齢者の人口比が多くなっていることも無関係ではないだろうが。
一方、子どもはどうだろうか。
私自身、80年代から90年代にかけてよく見かけた、電車に乗ってくる子どもの集団が傍若無人に大騒ぎする状況に、最近はまったく遭遇しない。電車に社会見学や部活動での移動のため大勢の子どもが乗り込んできても、不愉快な思いをする経験を、久しくしていない。少しでも騒ぎそうな気配があると、別の子が「やめようよ」と注意する光景も、しばしば目にする。
それがどうしてなのか、はっきりと確信をもって言えるわけではないが、おそらく子どもたちのなかで、昔と比べ「電車のなかにいる知らない人たちも、学校の先生や親と同じ、尊敬する面もある大人なんだ」という意識が浸透してきたということは言えると思う。子どもたちが、学校と家だけで生活し、大人といえば親と先生くらいとしか交流がなかった頃は、電車に乗っている大人たちがそれぞれ日々働き、生きているという実感はなかっただろう。大人たちを存在感のある「人」として見ていなかった。だから傍若「無人」にふるまっていたのではないか。
■道徳教育が必要なのは「大人」かもしれない
全国の小中学校に体験的な学習を重視した「総合的な学習の時間」が全面導入されたのは小学校が2002年、中学校が03年だったが、そこでは職場体験をしたり、さまざまな大人の仕事の話を聞いたり、高齢者施設で老人たちに会ったりする。私はそうした体験が、子どもたちの意識の変化と無関係ではないと考えている。世の中のすべての大人が、一人ひとり自分の人生を生きているのを、目の当たりにしているのだから。
かつて「ゆとり教育」を面白おかしく批判するテレビ番組に引っ張り出されて、他のすべての出演者から口汚い批判を浴びたとき、唯一、評価してくれたのは皇室の歴史に詳しい学者で「国民の道義を高揚し日本文化を向上させるために、真摯で自由な学問的研究を行うこと」を目的とする団体「藝林会」顧問である所功京都産業大学名誉教授だった。
所名誉教授は「ゆとり教育」で良くなった点として子どもの道徳意識を挙げ、「総合的な学習の時間」の成果だろうと発言してくれた。番組放映時にはカットされていたが、うれしい評価だった。
戦後、経済成長に追われ未成熟だった日本社会において「粗暴な子ども」「荒れる中学生」が問題になった。やがて彼らが大人になり、そのまま「暴走老人」「ネット右翼」になっているとしたら、いま道徳教育が必要なのは、子どもたちよりむしろ大人であるということになりかねない。
「勉強はできるけど心はよくない」子どもだった私自身、50歳、60歳になってようやくまっとうな人間になってきた気がする。50歳前後の10年間、亡くなるまでの河合隼雄先生を、そして60歳前後の10年間、これまた亡くなるまでの西部邁先生を「人生の師」と仰ぐなかで、いかに生きるべきかをみっちり学ぶことができたからだ。
■お年寄りに「必ず」席を譲るべきか
電車内において、お年寄りが立っているのに、若者は席を譲ろうとしない。そのとき、お年寄りが若者を叱りつけた。
「なぜ高齢者に席を譲らないんだ!」
さて、このとき若者はどうすればいいのか―こんな話が実際に起き、議論の対象になっている。これも「キレる高齢者」の具体例として紹介されることが多い。
ここまで極端なケースはそれほど起きないだろうが、最近は車内で多くの人が立っているにもかかわらず、高齢者や体の不自由な人のための優先席には誰も座っていないといった光景を見ることもあり、「どんな場合も優先席には座らない」と決めている若者も少なくないように感じられる。
先のケースでは「高齢者だからといって席を譲ってもらうのが当然と考えるのはおかしい」といった意見もあれば、「若者のほうが良くない」「少なくともシルバーシートなら譲るべき」といった意見などいろいろあろうが、私の考えはこうである。
高齢者に席を譲るのは、いつなんどきでも当然であると考えるのはおかしい。若者に席を譲れと強要するのは明らかに行き過ぎである。
自分がもし体調が悪かったり、もともと病弱だったりすれば、若者であっても席を譲る必要はない。だが、お年寄りのほうがより切実に席を必要としている状況であるならば、それは譲ることが望ましい。年齢ではなく、いまどちらが席を必要としているか、考えて行動すればよいのである。電車内には若者とお年寄りの2人だけがいるわけではなく、他にもたくさんの人が座っているわけだから、もし全員が席を譲るかどうかを自分のなかで判断すれば、自然と状況は落ち着くことだろう。
■重要なのは「判断する力」
お年寄りに席を譲るという考えは、弱い者に対しては自分のできる範囲で助けていく、という弱者に対するひとつの姿勢である。誰が弱者なのかは、状況によって違ってくるだろう。まだ元気いっぱいな老人と、妊婦と、普通の若者がいたら、妊婦に席を譲ればよい。機械的に行動するのでなく、誰が困っているのかを判断する力が重要なのだ。
教科書のなかの話を読んで自分だったらどうするかと頭のなかで考えたとしても、現実にそうした場面に遭遇したときには、また違った判断が出てくることもあるだろう。いずれにせよ、これは一人ひとり自分自身が状況に応じて考え決めるべきことで、教科書を使って決まりきったルールとして教えるような性質のものではない。
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京都造形芸術大学 客員教授
1952年生まれ。東京大学法学部卒業後、75年文部省(現・文部科学省)入省。92年文部省初等中等教育局職業教育課長、93年広島県教育委員会教育長、97年文部省生涯学習局生涯学習振興課長、2001年文部科学省大臣官房審議官、02年文化庁文化部長。06年文部科学省退官。著書に『国家の教育支配がすすむ』(青灯社)、『文部科学省』(中公新書ラクレ)、『これからの日本、これからの教育』(前川喜平氏との共著、ちくま新書)ほか多数。
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(映画評論家、京都造形芸術大学教授 寺脇 研 写真=iStock.com)
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