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なぜ"防護服姿の子供像"は撤去されたのか

プレジデントオンライン / 2018年10月16日 9時15分

ヤノベケンジ作「サン・チャイルド」(筆者撮影)

福島駅近くに設置された防護服姿の子供像「サン・チャイルド」が、市民からの反対で撤去された。一方で、この作品は各地を巡回しており、大阪では恒久展示されている。宗教社会学者の岡本亮輔氏は、東京での銅像の設置・撤去の歴史を振り返りながら「公共空間に置かれた像から読み込まれる意味は、時代や鑑賞者によって異なっていく。撤去は早すぎたのではないか」と指摘する――。

■施設利用者の約7割が反対

今年9月、福島駅近くに設置されていたモニュメント「サン・チャイルド」が撤去された。

サン・チャイルドは高さ6.2メートルの強化プラスチック製の人形で、アーティストのヤノベケンジ氏によって制作された。鮮やかな黄色の防護服に身を包んだ少年がヘルメットを外して空を見上げ、右手には太陽のシンボルを持っている。そして、防護服の胸の線量計は000を示している。

この作品は、福島第一原発事故の風化を防ぐために福島市が教育文化施設「こむこむ」に設置したものだが、風評被害の懸念やつらい記憶を思い出させるといった市民からの意見があり、撤去されることとなった。撤去は事前に行われたアンケート調査に基づいて決定したが、施設利用者の70%弱が設置反対であったという。市長は謝罪して給与減額を表明した。

こうした公共空間における像やモニュメントの設置を考える際、東京には参考になる例が実に多い。偉人や功労者の顕彰のために像が設置されるのは、銅や石といった耐久性のある材質でその人物を表現し、彼らの記憶を社会的に共有してつなぎとめるためだ。公共空間の像は、その地域の集合的記憶を否応なしに表現してしまう。さらに、その像は首都東京に置かれることで一層の輝きを放つ。その記憶はローカルなものではなく、国全体のものだというわけだ。

実際、明治期以降、政治家・軍人・学者をはじめとして、東京には実に多くの銅像やモニュメントが設置され、撤去されてきた。だが、他ならぬ首都に置かれるからこそ、その公共性は厳しく検証され、結果として一部は行方不明になり、一部は復活したのである。

■上野の西郷像はすったもんだの末に設置

多くの異論がありつつも最終的に定着したのが、今や東京の代名詞ともいえる上野公園の西郷隆盛像だ。西郷は明治政府にとって厄介な存在だ。明治維新の立役者であり、江戸城無血開城を導き、江戸を兵火から救った人物である。岩倉使節団として政府首脳のほとんどが洋行した際には、留守政府の中枢を担った。このままであれば、間違いなく明治の元勲となっただろう。

しかし、朝鮮半島をめぐる意見対立で下野する。そして1877年、不平士族たちに担がれる形で政府に反旗をひるがえした。西南戦争だ。維新の英雄が賊軍の頭領になってしまったのである。

西郷の銅像建設運動は、1889年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって始まる。これで逆賊ではなくなり、薩摩出身者が中心になって西郷顕彰に動いた。同年10月には銅像のデザインが新聞の懸賞広告で呼びかけられた。この時点でつけられた条件を見ると、銅像は馬上で高さ3~6メートル、容姿は厳かにして「君が維新の元勲として朝廷に大功偉績」をなしたことを示すもので、「陸軍大将の軍服」を着用とされている。未定ではあるが、「東京市内の公園」に設置するとされている。

しかし、一度は逆賊の汚名を着せられた西郷像については、デザインも設置場所もなかなか落着しなかった。皇居内に設置する案もあったが、薩摩出身者ならばともかく、幕臣であった勝海舟などは一貫して銅像建設そのものを疑問視していた。

上野公園の西郷隆盛像(筆者撮影)

さらに、同時期に制作された楠木正成像が皇居外であるにもかかわらず、西郷像が皇居内に置かれるのはおかしいという異論もあった。結局、場所は上野公園に決定し、平服に犬を連れて兎狩りをする姿とされた。

銅像制作を担当したのは高村光雲だ。息子の光太郎がその制作風景を書き残している。

西郷さんの像の方は学校の庭の運動場の所に小屋を拵え、木型を多勢で作った。私は小学校の往還りに彼処を通るので、始終立寄って見ていた。あの像は、南洲を知っているという顕官が沢山いるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。伊藤(博文)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言ったが、海軍大臣をしていた樺山さんは、鹿児島に帰って狩をしているところがいい、南洲の真骨頂はそういう所にあるという意見を頑張って曲げないので結局そこに落ちついた。(高村光太郎「回想録」)

政府要人を集めた除幕式が1898年12月に行われ、その後、西郷像は上野だけでなく、東京の代名詞になる。上野がキーステーションであったことが大きい。上野駅から列車に乗る時、行列が伸びて西郷像の周囲にまで上がってくることもあった。特に東北地方からの上京者が最初に目にする東京のシンボルとなったのである。

■上野公園設立の立役者だったオランダ人医師像

上野公園には、他にも明治政府に尽くした要人の銅像がある。アントニウス・F・ボードワン博士像だ。ボードワンはオランダ人の医師で、幕末、医学を伝えるために招かれた。医学者としてももちろんだが、ボードワンの功績は上野公園そのものの建設を主張したことだ。

維新前、上野公園は徳川将軍家の聖地・寛永寺であった。そのため、上野戦争では徹底的に破壊され、同寺に立てこもった彰義隊は虐殺され、その遺体は見せしめとして野ざらしにされた。そして明治政府は、寛永寺の跡地に、御徒町にあった大学東校(後の東大医学部)の付属病院を建設しようとしたのだ。

しかし、ボードワンは、医学者であるにもかかわらず、病院建設に反対した。近代国家の首都として緑地を保全する大切さを主張し、そのおかげで上野の山は日本初の公園となったのである。ボードワンがいなければ、上野に博物館も動物園も上野駅もなく、東京の文化的布置や交通もだいぶ異なっていただろう。パンダも西郷さんも別の場所にいたかもしれないのである。

ボードワン博士像は、1973年、上野公園開園100年を記念して設置された。上の観光連盟が主体となり、オランダ大使館の協力もとりつけ、オランダ人彫刻家によって制作された。だが残念ながら、このボードワン像は2000年代に入ってから後に撤去された。なぜなら、銅像制作のために彫刻家に渡された写真が、ボードワン博士ではなく、その弟の写真だったのだ。ありえない間違いのように思えるが、弟も駐日オランダ領事を務めたことで日本との関わりが深く、仕方のない部分もあったのだろう。

2006年、兄の写真に基づいて、ボードワン博士像は作り直された。新旧の像を見比べると、兄弟だけに風貌は似ているが、ヒゲの感じがあまりに異なっている。西郷隆盛像も、西郷が写真嫌いだったため資料が乏しく、本人に似ていないという意見があることで知られている。上野公園には、たった数百メートルの距離に、2つも本人とは似ていない明治の功労者の銅像が長いこと設置されていたわけである。

■ワイヤーで引き倒された“軍神”像

東京の銅像がもっとも撤去されたのは第2次大戦末期と戦後だ。金属不足のため、銅像が回収された。浅草寺の九代目市川団十郎像、神奈川県藤沢市の乃木希典像なども供出された。乃木将軍までも溶かしたところに戦争の末期感が漂っている。

また戦前、東京有数の繁華街であった万世橋には広瀬武夫の像が設置されていた。司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』で親しんだ人も多いだろう。広瀬武夫は日露戦争における旅順港閉塞作戦の英雄だ。ロシアの旅順艦隊の動きを封じるため、参謀・秋山真之は同艦隊が集まる旅順港の入り口に船を沈めて塞いでしまう作戦を立案する。

広瀬は決死隊として閉塞船に乗り込むが、結局失敗して命を落とす。広瀬の死はセンセーショナルに報道され、最初の「軍神」として祭り上げられ、1910年、当時、国鉄中央線のキーステーションだった万世橋駅前に銅像が設置された。

しかし、第2次大戦後、乃木将軍や東郷元帥と同じく、広瀬は軍国主義の象徴とみなされるようになり、像は撤去されることになった。巨大な像であったため、ワイヤーをかけて強引に引き倒された。1960年代に入ってから、広瀬像を探して再建しようとする動きもあったが、どこに廃棄されたのかすら分からなかったという。広瀬は第2次大戦とは無関係だが、その像が置かれた東京の文脈が変わってしまったのである。

福島市のサン・チャイルドも、なんの脈絡もなく設置され、すぐに撤去されたわけではない。ヤノベ氏は同じモチーフで以前から作品制作を行っており、サン・チャイルドシリーズはほかの場所に設置されたり、海外を巡回したりして好評を博してきた。最初の公開は、震災から約半年たった2011年10月の、大阪・万博記念公園。その後、東京の岡本太郎記念館や第五福竜丸展示館、海外のいくつかの国で巡回展示された。

2012年には、ヤノベ氏がかつて暮らした大阪府茨木市の阪急南茨木駅前ロータリー前にサン・チャイルドが設置され、3月11日に除幕式が開催された。この像は恒久展示されることになっており、昨年3月には市民約100人が参加して清掃活動が行われている。

「あいちトリエンナーレ2013」では、『太陽の結婚式』というプロジェクトが行われた。サン・チャイルドの胸像をシンボルとする教会が設置され、その前で数十組のカップルが結婚式を挙げたのだ。結婚式教会での挙式数が日本一を誇る愛知だからこそ、行われた企画であるという。

■作品としての「強さ」ゆえに記憶に直結した

公共空間に置かれた像やモニュメントは、制作者や設置者の意図とは別にさまざまな意味が読み込まれる。地元の人々は像に地域の事情を見いだし、外からその地域を訪れた人々はまったく別の見方をする。しかも、そこで読み込まれる意味は、時代によって実に流動的なのである。

福島市に設置された「サン・チャイルド」像(筆者撮影)

今回は、原発事故を風化させないように市が設置したサン・チャイルド像が、事故を忘却したい、忘れてほしいという市民からの要望で撤去された。その場所で暮らす人々にとって、サン・チャイルド像は単なるアート作品ではない。福島の何を記憶し、何を忘れるかという集合的記憶をめぐる交渉と直結しているのである。

そして、こうした交渉のテーブルにサン・チャイルド像がのせられたのも、作品としての喚起力が強いからだろう。今回の撤去を批判する意図はないが、公共の場に置かれるからこそ、さらに広く地域住民の声を集め、議論を尽くしても良かったように思われる。

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岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授
1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。専攻は宗教学と観光社会学。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)、『宗教と社会のフロンティア』(共編著、勁草書房)、『聖地巡礼ツーリズム』(共編著、弘文堂)、『東アジア観光学』(共編著、亜紀書房)など。

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(北海道大学大学院 准教授 岡本 亮輔)

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