ドラフト外の大野豊に、江夏がかけた言葉
プレジデントオンライン / 2018年10月25日 9時15分
■やはり生き残る人間には共通点がある
ドラフト会議ではその選手の意志とは関わらず、くじ引きによって入団できる球団が決まってしまう。誤解を恐れずに書けば、ドラフト会議は理不尽だから人の心を惹きつける。
昨年、ぼくは『ドライチ』(カンゼン)というドラフト1位指名されてプロ入りした選手たちを追ったノンフィクションを上梓した。ドラフト1位指名されるのは1年間でたった12人しかいない(高校卒業選手と大学卒業・社会人選手に別れていた期間は24人)。日本全国に散らばっている星の数ほどいる野球少年の中から選びに選ばれた精鋭である。彼らはみなずば抜けた運動能力、才能の持ち主のはずだ。ところが、そのドライチの中でプロ野球選手として成功を掴むのは僅かである。
その差はどこにあるのか――。元ドライチに話を聞きながら、ぼくはずっと考え続けていた。そして、その答えは朧気に見えてきた
今年はドラフト外でプロ入りした元選手7人に話を聞き『ドラガイ』という一冊にまとめた。そこでやはり生き残る人間には共通点があると確信するようになった。
■663人がドラフト外でプロ野球選手となっている
新人選手選択会議――通称ドラフト会議が始まったのは1965年のことだ。指名人数は、年度により、一球団4人、あるいは6人と制限が設けられていた。そして、ドラフト会議で指名されなかった選手については「ドラフト外」の入団が認められていた。90年の制度改定までに計663人がドラフト外でプロ野球選手となっている。
彼らはドラフトという“ふるい”から落ちた人間である。しかし、その中にはドライチよりも結果を残した選手も少なくない。
例えば、元広島カープの大野豊――。
本格的に野球を始めたのは中学校からだった。最初は外野手、2年生から投手になった。プロ野球選手になることを夢見たこともない。それどころか、高校に進む気もなかったという。両親が早くに離婚しており、大野は女手一つで育てられた。早く仕事をして、母親を楽にしたいと考えていたのだ。
すると母を始め親戚中の人間から、高校は出ておくようにと猛反対された。そこで出雲商業高校に進学した。簿記や算盤は、将来役に立つだろうと考えたからだ。野球のため、ではなかった。
■高校卒業後は出雲信用金庫の「軟式野球部」に進んだ
出雲商業でも2年生夏までは中堅手兼救援投手という扱いだった。“エース”となったのは、最上級生になってからのことだ。
![](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/0/-/img_00c0910bf79dcf6fddafef2660a70a03217608.jpg)
しかし、高校3年生の夏の県予選では1回戦負けを喫している。
「(対戦相手の高校には)ぼくよりも一回り躯の大きい左投手がいて、なかなか打てなくて嫌だなと思っていた。すでに気持ちで負けていたんです」
夏になると食欲がなくなり体重が落ちていく。そもそも大した投手じゃなかったんですよ、と大野は微笑んだ。
それでも、野球は続けたいと思っていた。島根県には社会人の硬式野球チームはない。残る選択肢は軟式野球だった。県内では強豪チームとして知られる出雲信用金庫軟式野球部に進んだ。しかしあくまでも業務が優先のアマチュアチームである。
大野は軟式野球の世界でも無名のままだった。どこにでもいるような、少々野球の上手い若者だった彼に転機が訪れるのは、就職から3年目のことだった。出雲高校との練習試合が組まれたのだ。
■「プロに挑戦してみたい」という気持ちに火が付いた
出雲高校は秋の島根県予選を勝ち抜き、中国大会への出場権を得ていた。島根県内の高校では対戦相手の選択肢は限られる。そこで近隣の出雲信用組合野球部に練習試合の打診があった。
このとき、大野は高校卒業以来、3年ぶりに硬球を握った。久しぶりの硬球、そして金属バットの打者ということで、かなり打たれると覚悟していたという。
ところが、高校生のバットは次々と空を切る。大野は5回を投げて、16人の打者に被安打1、三振は9者連続を含め、13個を数えた。
「本当に練習相手になればいいという気持ちで投げてました。でも全然バットに当たらない。ピッチャーの本能なんでしょうかね、やはり色気が出てきて、打たれたくなくなった。そして、自分の中の何かに火が付いた。プロに挑戦してみたいと。今までそんなことを一度も考えたことがなかったのに」
■「金を数えているほうが安全じゃないか」
78年2月、大野は、つてを辿って、広島の入団テストを受けることになった。カープの一軍は宮崎県でキャンプを張っており、二軍の一部が広島県呉市の二河球場で練習していた。大野はそこに加わった。
「寮に泊まってカープ専用のバスで球場に向かうんです。遠投や50メートル走をやらされるのかなと思ったら、まったくそういうのはなかった。みんなと一緒に練習して、ブルペンで投げる」
合流4日目のことだった。二軍監督だった野崎泰一とスカウトの木庭教の前でピッチングを見せることになった。宿舎に戻ると木庭の部屋に呼ばれた。
木庭は「一応採用する」と切り出した。そのとき、大野は飛び上がりそうになった。そして木庭はこう続けた。
「けど、お前さん、信用組合で金を数えているほうが安全じゃないか」
諭すような静かな声だった。プロ野球選手はギャンブルの世界である。失敗しても何も残らない。大丈夫かと訊ねた。
契約金は出せないが支度金100万円を出すという。給料は月13万円。信用組合は手取りで約5万円。倍以上だと大野は嬉しく思ったという。
■一軍の初登板は「防御率135.00」という大失敗
大野はプロ1年目の5月から二軍戦であるウエスタンリーグに登板。3勝目を初完投勝利で挙げると8月には一軍に昇格している。
そして9月4日には一軍初登板。阪神タイガースを相手に2対12で大きく差をつけられていた8回表に大野はマウンドに登ったのだ。ところが――。
打者8人と対戦して、抑えたのはたった1人。5安打2死球。5安打の中には満塁本塁打が含まれていた。すぐに大野は二軍に落とされた。この年、一軍登板はこの試合のみ。防御率は135.00――という記録だった。
どん底に落とされた大野に運があったのは、シーズンオフに広島に移籍してきたある投手と出会ったことだ。
江夏豊である。
「出雲信用組合時代、ぼくは江夏さんにあやかって同じ背番号“28”をつけていました。同じサウスポーとして憧れの人、雲の上の人じゃないですか。一方、ぼくはどこの馬の骨か分からないような選手。接点がない。一言でも話ができれば、という感じでしたね」
大野によると、監督の古葉竹識が江夏に同じ左腕投手である大野の面倒を見てくれないかと頼んだという。
■「キャッチボールはキャッチボールで終わらない」
江夏がまず説いたのはキャッチボールの重要性だった。
「キャッチボールを疎かにするな、と。キャッチボールはキャッチボールで終わらない。キャッチボールの延長がブルペンであり、ブルペンの延長がゲームである。だからキャッチボールからボールに気持ちを込める」
そして江夏はボールと友だちになれと教えた。
「江夏さんはボールを常にいじっているんです。要は指の感覚をすごく大切にしていたんです。ぼくも江夏さんの真似をして常にボールを持つようになりました。部屋でもボールをいじったり、寝っ転がって天井に投げてみたり。遊びの中でボールと指の感覚を掴む」
大野の投球フォームを見た江夏はぼそっと「お前、そのフォームでは駄目だよ」とつぶやいた。
「当時のぼくは、投げるときに右肩があがって天井を見てるようなイメージのフォームだったんです。その投げ方だと10球に1球ぐらいはいい球が入るかもしれない。しかし、コンスタントにいい球は行かない、と。ぼくのフォームには無駄な動き、無駄な力が入っていた。それを直すようにしました」
■プロ野球選手として生き延びていく手がかりを得た
江夏は細かに口を挟むことはなかった。足の“ため”が浅い、ステップする足の位置、肘の位置が下がっているという風に、投げる際に意識する箇所を教えた。
「それができているかどうかというのが自分にとってチェックポイントになる。ボールが思ったところに行かなかったときには、ここが悪かったのだと修正できるようになる。自分一人では絶対に気がつくことができなかった」
江夏と知り合ったことで大野はプロ野球選手として生き延びていく手がかりのようなものを貰ったのだ。
78年シーズン前、大野豊はオープン戦から好調だった。15イニング無失点を記録、開幕一軍に入っている。江夏豊に教わった箇所に留意して投げると、フォームが安定し、自分の思った場所に球が行くようになったのだ。
「1年目で自信を失って、一番練習しなきゃいけない2年目のときに江夏さんと出会った。ぼくにとってすごい財産となりましたね」
8月12日、広島市民球場で行われたヤクルト・スワローズ戦で4回1死から5番手として登板。最後まで投げきり、初勝利を挙げている。5回には大野が安打を放ち、1打点も記録している。
■「いつまでも江夏さんを追いかけていてはいかん」
この78年シーズン、大野は3勝を挙げている。そして80年シーズンを最後に江夏は日本ハムファイターズに移籍。その後、大野は抑えを任されることになった。
「江夏さんがいなくなって、改めてその偉大さに気がついた。それまでぼくたちは江夏さんに最後、任せればいいと考えていました。当時、クローザーというのは、今のように1イニング限定ではなくて、7回、8回から投げて最後まで投げきる。自分は何度も失敗するんです。ぼくが出ていくと、スタンドから“お前、もう投げるな”って野次を飛ばされる。江夏だったらな、江夏がいたらなって比較される。それがすごく苦痛でした」
あるとき、自分が江夏の幻影に捕らわれていることに大野は気がついた。
「江夏さんは小さいときからの憧れの人でした。まさかその人とカープで一緒になって、野球を教わることができるなんて思ったこともなかった。自分は江夏さんに憧れ、江夏さんを追いかけていた。でも、ちょっと待てよと思った。プロで成長するにはいつまでも江夏さんを追いかけていてはいかんのではないか。江夏さんは別格の存在だ。自分のスタイル、大野豊のスタイルを出す。そう考えを変えるようになった」
自分の長所は何か、江夏よりも勝っている部分はないのか。
「江夏さんに勝てるのは若さとボールの勢い。メンタル的な部分、コントロールとか技術的な部分ではまだ勝てない。それはこれから磨きを掛けていけばいい。そう考えると楽になりました」
■メジャーからの打診を断り、43歳まで現役を続けた
大野は81年から83年まで抑えを務めたあと、84年から先発に転向した。そして再び91年から抑えとなり、2年連続でセーブのタイトルを獲得している。
93年のオフシーズンにはメジャーリーグのカリフォルニア・エンゼルス(現・アナハイム・エンゼルス)から獲得したいという打診があった。37歳になっていた、大野の投球術をメジャーリーグが認めたのだ。しかし、大野はこれを断り、カープに残留。98年、43歳まで現役を続けた。
大野の55年生まれは、当たり年とされている。掛布雅之、広島でバッテリーを組んでいた達川光男、大洋ホエールズの遠藤一彦、ジャイアンツの山倉和博、ロッテ・オリオンズの袴田英利などがいる。
なにより江川卓だ。
江川は高校時代から規格外の存在だった。作新学院で甲子園に出場。超高校級の投手として騒がれた。未だに高校時代の江川が最も凄いと評する野球関係者は少なくない。
■「ぼくは失敗を糧に少しずつ階段を上った選手」
江川が燦々と照らす太陽ならば、大野は月である。
早くから将来を嘱望された江川は87年シーズンを最後に引退している。一方、ドラフト外で入った大野豊が同級生の中で最後まで現役を続けることになった。
「ぼくは一軍で本当に凄いと思われるようなピッチャーじゃない。どこにでもいるような選手なんです。そんな選手が、時間を掛けて少しづつ大切なことに気がついたり、自分の進むべき方向を見つけていった。期待されてプロに入っていれば、そんな時間は与えられなかったかもしれない。大したピッチャーじゃなかったから、壁を乗り越えるきっかけを見つける時間があったんですよ。ぼくは全てを一気に飛び越えていきなり成功できるというタイプじゃない。ぼくは初登板で大失敗している。プロとして大切なのは、ああいう失敗や挫折をどうやって乗り越えるか。失敗を糧に少しずつ階段を上った選手なんです」
人には成長の速度がそれぞれ違う。大野はゆっくりではあったが、少しづつ目の前の壁を乗り越えて行った。ドラガイの彼には、その時間があったともいえる。
そしてこうも言う。
「自分一人だけで成功するっていうことはほとんどあり得ない。出会いとか巡り合わせで人間はできていく。そういう人と出会えるかどうかっていうのが大きいんじゃないかな」
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ノンフィクション作家
1968年生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛ける。著書に『ドライチ ドラフト1位の肖像』(カンゼン)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)などがある。
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(ノンフィクション作家 田崎 健太 写真=時事通信フォト)
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