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「一生幸せになる機械」に脳を繋ぎたいか

プレジデントオンライン / 2018年11月7日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/RichVintage)

脳に繋ぐことで、思い通りの夢をみられる機械がある。ただし一度セットすれば二度と外せない。あなたは機械をセットするだろうか。こうした「幸福」と「幸福感」の違いを考えるのが「哲学」という学問だ。哲学者の岡本裕一朗氏がビジネスパーソン向けに行った講座から一部を紹介しよう――。(第1回、全3回)

※本稿は、岡本裕一朗『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』(早川書房)の第1講「哲学とは何か、現代の視点から見定める」を再編集したものです。

■ネコの視界と人間の視界は違う

男性と女性ではものの見方が違う、とよくいわれます。男性には素敵に見える車でも、女性には品のない趣味と映るかもしれない。さらにいえば、人間に見えているものが本当の世界なのかどうかも、実は怪しい。

たとえば、ネコの視界は人間とは相当違うそうです。視野は200度で人間より広い一方、6メートル先ぐらいまでしかはっきり見えず、赤色を知覚することもできないといいます。しかしこれも、ネコにはこう見えているであろうと、人間の目を通して類推したものですからね。ネコの見え方を真に理解することは難しい。あるいは、聞こえるものも当然違います。

では、人間とネコ、どちらが「本当の世界」を認識しているのでしょうか。

はたまた、次のような場面を想像してみてください(デカルト『省察』に出てくる話のアレンジです)。円筒形の建物が遠くに見える。近くまで歩いていくと、六角柱の建物だった。遠くから見ると美人・イケメンでも、近づいてみると……というのは、よくあることです。デカルトはここから、「感覚は欺くことがある」という教訓を引き出します。あなたはデカルトに賛成ですか?

■現実と見え方の違い、幸福と幸福感の違い

ここで考えていただきたいのは、「見えているものと本物」という対比は果たして正しいのか、ということです。「見えたものは円柱だったが、本当は六角柱だった」という対比、これ自体が間違っている可能性はないでしょうか。

六角形が本当だという理由は何もありません。ルーペで見れば、六角柱ではなくなるわけです。どの地点から見るか、という相違にすぎないのではないか――実はデカルトは、こういう考え方も導入しています。最終的に、すべては見え方の違いだ、と。

こうなると困ってしまうのは、何が本当なのかということです。たとえば同じ額の収入を得ていても、幸福だと思う人もいれば、不幸だと思う人もいます。幸福と幸福感は同じなのか、違うのか。たとえば、年収1億円を稼いでいても、ああ、不幸だなと思う人もいるかもしれません。逆に年収100万円であっても、幸せだなと思う人もいるでしょう。

重要なことは、幸福がなんであるかではなく、幸福感が得られるかどうかです。幸福感というのはあくまでもその人の気分や気持ちなので、脳の状態によってつくり出すことができる、と最近の脳科学者はいうでしょう。

■望み通りの夢を見せてくれる機械につながれたいか?

そうした幸福感をつくり出す機械が実現できたとしましょう。自分が望むどんな経験も与えてくれる機械につながれたあなたは、どんな夢も見ることができる。思い通りの人生がこのなかで展開される。ただし、一度セットしたら取り外しは不可能です。

あなたはどうしますか?

これはロバート・ノージックが考案した「経験機械」という思考実験です。

こう問われると「いやいや、それはちょっとイヤだ」という方が多いかもしれませんが、何十名もの人と一緒につながれるならどうでしょうか?

『答えのない世界に立ち向かう哲学講座――AI・バイオサイエンス・資本主義の未来』(岡本裕一朗著・早川書房刊)

意味は少し違いますが、ハイデガーの言葉を使えば、経験には各自性があります。つまり、経験とはあくまでも「私にとって○○と思われる」ということですので、自分の思いと現実というのは区別できないんです。このように私には見える、1キロメートル先のものはこのように見える、もっと近づくとこう見える……というように、私が思うこと以外にこの現実はありえない。そうなると、自分の思いとは別に「本当の」現実があるという考え方は揺らいでしまいます。

実際、最近の科学技術として、人間の思いと現実が融合しあうようなテクノロジーが出てきましたよね。VR(仮想現実)とか、AR(拡張現実)だとか。こうした技術を用いると、各人の思いがある意味そのまま現実化するわけです。そのなかで、私たちの思いと現実という概念そのものも、もしかしたら崩れ始める可能性があるかもしれません。

ここまで見てきたように、自分の考えや感覚の「正しさ」を疑ってかかることこそ、哲学の基本といえます。では、こうした姿勢をもってして、哲学はこれまで何をしてきたのか、そしてこれから何ができるのか。次に、それを考えてみましょう。

■哲学の役割とは?

ホワイトヘッドという哲学者がこういいました。

「西洋のすべての哲学は、プラトン哲学への脚注にすぎない」

哲学者は、プラトンがすでに議論した問題を、形を変えて取り扱っているだけじゃないかというわけです。これを聞くとギリシア哲学をやっている人は泣いて喜びますが、実はそのバリエーションこそが重要な問題です。カントは次のように述べています。

「哲学を学ぶことはできない。哲学することだけを学ぶことができる」

この哲学講座もそうです。学説や知識をここでお話ししたいとは思っていません。冒頭で申しあげたように、むしろ、自分自身の知性を使って哲学することを学んでいただけたらと思っています。誰かの説を鵜呑みにするのではなく、「自分だったらどう考えるか」を、さまざまな視点から考えてみていただきたいのです。

■個人は「その時代の子」

次の言葉は、現代の哲学を打ち立てる重要性を示唆するものです。

「ここがロードスだ、ここで跳べ」

1960年代の学生闘争の頃、デモに参加するかどうかを迷う学生に決断を迫る際にこのフレーズが使われましたが、完全な誤用です。この言葉は「決断せよ」という意味ではありません。イソップ寓話をもとにした成句で、「俺はロードス島で跳躍をして2メートルぐらい跳んだ」という自慢話をするほら吹きに対して、それを聞いていた人が「それが事実なら、ここがロードスだと思って跳んでみろ」という意味でいい返した言葉です。

ヘーゲルは『法の哲学』の序文でこれを引用しています。この成句を持ち出してヘーゲルがいおうとしたのは、個人は必ずその時代の子であり、時代を飛び越えることはできないということでした。

ヘーゲルは同じ『法の哲学』の序文のなかで、次のようにもいっています。

「ミネルヴァのふくろうは迫り来る黄昏に飛び立つ」

ミネルヴァとは、ローマ神話に登場する知恵をつかさどる女神で、ふくろうはその化身とされます。つまりこの言葉は、一つの時代が終わりに近づきつつあるときに、哲学がその時代を概念的にとらえるという意味です。

これは先ほどの「プラトンを読めばいい」という話とは意味合いが違いますよね。古代には古代の哲学があり、現代には現代の哲学があります。その時代、その社会ごとの問題があって、そうした問題の歴史的な変化をとらえるのが哲学です。

この講座で取り上げるAI(人工知能)にしても、バイオサイエンスや資本主義の問題にしても、どれも現代の問題です。プラトンだけを読めばAIの話がわかるのかというと、そんなことはない。同時にプラトンとまったく無関係なわけでもありません。

■コンセプトを創造する

哲学とは、概念(コンセプト)を創造することです。哲学者たちは独自の概念を創造してきました。ドゥルーズは「概念をつくり出さない哲学者は哲学者ではない」と述べています。

新たにつくり出された概念によって、いままで見えなかったことが理解できるようになります。プラトンは「イデア(観念)」という概念を、アリストテレスだと「デュナミス(可能態)」「エネルゲイア(現実態)」という概念を使って、物事を分析しました。見え方や実在についてはデカルトが「コギト(われ思う)」という概念で考え、カントは「クリティーク(批判)」という概念で考えました。

こういう概念を哲学者が提出することで、彼らの読者も、その概念を使って世界や社会を見ることができるのです。そうした経験には、「なるほど、こういうものが見えてくるんだ」という驚き・発見がともないます。概念をつくり出せるかどうかで、その哲学が一流になれるかどうかが決まるのだと思います。

■「ヒモつき」でない視点・思考を身につける

哲学はしばしば「役に立たない」とみなされてきました。

ある著作のなかで、カントは大学の学部について説明しています。当時のドイツの大学では、医学部と法学部と神学部の三つが、専門性の高い上級学部として設定されていました。要は、社会に出てから役に立つものを学ぶ学部です(神学を学ぶことが社会の役に立つのかと疑問に思われるかもしれませんが、神学部を出れば、当時はプロテスタントの牧師という就職口がありました)。それに対して、哲学は下級学部でした。哲学など無用であると考えられていたのです。

しかし、そうではないことは、ここまでの議論を通じて明らかです。

考え方を逆転させてみましょう。カントがいったように、「有用性」とは「ヒモつき」であることです。考えてみてください。牧師になるために神学部へ行くとしたら、聖職者という立場のために思想や発言は制限されはしないでしょうか。自由に神学批判などできませんね。

一般的に考えても、仕事の取引先について批判するのは難しいでしょう。そうした意味で、有用な何かにヒモづけられた「職業的な知性」では、批判的に物事を考えることができません。カントはこれを「理性の私的な使用」と呼びます。

一方、哲学をすることは、ヒモで何かと結びついていない「理性の公的な使用」です。無用だからこそ、ヒモがつかずに、非常に広い視点から自由な議論ができます。

みなさんはさまざまな職業につき、さまざまな形で活動されているでしょう。その部分でヒモつきの知識・洞察があるはずです。同時に、もう一つの、ヒモのない哲学的視点・哲学的思考を身につけたら、ヒモつきの活動に関しても、新たな視点が見つかるかもしれません。

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岡本裕一朗(おかもと・ゆういちろう)
玉川大学文学部 教授
1954年生まれ。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。九州大学文学部助手を経て現職。西洋の近現代思想を専門とするが興味関心は幅広く、哲学とテクノロジーの領域横断的な研究をしている。2016年に発表した『いま世界の哲学者が考えていること』は現代の哲学者の思考を明快にまとめあげベストセラーとなった。他の著書に『ポストモダンの思想的根拠』『フランス現代思想史』『人工知能に哲学を教えたら』など多数。

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(玉川大学文学部 教授 岡本 裕一朗 写真=iStock.com)

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