"サルの子供を産みたい"女子大生は異常か
プレジデントオンライン / 2018年11月9日 9時15分
※本稿は、岡本裕一朗『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』(早川書房)の第4講「ゲノム減編集時代の生命倫理」を再編集したものです。
■チンパンジーとの子どもを産みたい女子大生
【岡本】生物遺伝学者のリー・シルヴァーは、あるとき次のような講演をしました(シルヴァー『人類最後のタブー』より)。
「ヒトのDNAとチンパンジーのDNAは99パーセントまで同じである。チンパンジーとは染色体が似通っている。したがって、二種の交配による子どもは生存可能である。ヒトの精子をチンパンジーのメスに人工授精すると、胎内の子どもが早く成長しすぎて死産する可能性がある。ただし、逆は可能である。人間の女性の胎内でならば、二種の交配が完成するかもしれない」
講演のあと、一人の女子学生がシルヴァー先生の研究室にやってきていいました。
「先生が講義で説明していたようなことをやりたい。私の卵子をチンパンジーの精子と合わせて、受精卵を自分の子宮で育てて、その観察記を卒論にまとめたい」
まとめたら、名前は売れるし、実際素晴らしい卒論になるでしょう。この勇敢なリケジョの質問に、どう答えたらいいでしょうか?
シルヴァー先生は明確な回答を与えていないんです。彼はこういいました。「現実に胎内に受精卵が着床して、育ち始めたらどうする?」
少し間抜けな質問ですね。女子学生の答えはこうです。「早く卒論を書きあげて、書きあがった段階で中絶しますから心配には及びません」
さて、どう考えたらいいでしょう。
■女子学生とチンパンジーの交配は認められるか
(問題)女子学生とチンパンジーの交配が認められるのはどんな場合?
選択肢として、次の三つを設定しておきます。
(1)女子学生が中絶を前提でチンパンジーとの交配を望むとき。
(2)女子学生が中絶を望まずに、その子を育てる目的で交配を望むとき。
(3)科学的に観察する目的で交配を望むとき。
*感染症等の問題はクリアしていることを前提としましょう。
(5人程度のグループに分かれて10分間のディスカッション)
【岡本】いかがでしょうか。
【受講者A】三つの選択肢の前のゼロ番めの選択肢として、実験対象がオランウータンとチンパンジーだったらどうだろうかと考えました。この場合、私たちのグループの全員がOKを出したんです。ということは、ヒトと他の動物が関わるときになんらかの問いが生まれるのではないか――こうしたところからディスカッションを始めましたが、そのあとは、問題を整理するだけで精一杯でした。
(1)は、命をどう扱うかという議論をしています。(2)は、命としては扱うが、存在として認めていいかが論点になっています。(3)については、科学的に観察するにしても、科学者が女性である場合と、シルヴァー氏のように男性である場合の二パターンがあるんじゃないかという話をしましたが、時間切れで結論が出ないままでした。
【岡本】生命をどう考えるかという問題ですが、現代風に考えれば、中絶をするかしないかは本人の自己決定です。女子学生がいいというのであれば何も問題はない、と考えられるかどうかですね。結論が出たグループはありますか?
■科学が進歩するためなら何をしてもいいのか
【受講者B】こういう問題は、隠れている問題や前提を考えだすとキリがないので、直感を信じてイエスかノーかでまず考えてみようとなって、するとグループの全員が、三つの選択肢すべてに対してイエスという答えでした。
【岡本】それは非常に重要なことですね。基本的には直感を大前提にしつつ、どう正当化するかの問題です。その直感を根拠づけるのはいったいなんだろうか、という。逆に、女子学生とチンパンジーの交配は認められないという結論になったグループはありますか?
【受講者C】まったく認めないわけではないのですが、全部を認めてしまうと、科学が進歩するためには何をしてもいいことになるのではないか、歯止めがきかなくなるのではないかと危惧します。新しい歯止めを設けるべきだと思うんですが、それが具体的に何なのかはつかめませんでした。
【岡本】ドイツの哲学者のユルゲン・ハーバーマスが抱いたのと同じ危機感覚かもしれませんね。彼は「類的存在としてのわれわれ」を強調したので、おそらくチンパンジーとの交配を認めないでしょう。
しかし、なぜ認めてはいけないのかは非常に大きな問題です。チンパンジーとの子どもだからダメなのでしょうか。だとしたら、障害者の子どもだからダメ、ユダヤ系の子どもだからダメとなり、優生学に容易につながります(優生学については後ほどさらに詳しく見ていきます)。
■ヒト遺伝子改変の口火は切られた
【岡本】遺伝子操作の歴史を簡単に振り返ってみましょう。
1950年代、DNAの二重らせん構造が解明されました。70年代に遺伝子工学の発展があり、試験管ベビーが誕生します。90年代にスタートしたヒトゲノム計画は、早くも2003年に完了しました。この間、1996年には体細胞クローン羊のドリーが誕生して、現在はCRISPR/Cas9(クリスパー・キャスナイン)などのゲノム編集技術が確立しつつあります。
遺伝子操作の時代が、間違いなくやってきています。新生物をつくる実験が、着々と積み重ねられている。羽のないニワトリ、自然界に存在しない色の花、巨大化したマウス、光るネコ……。遺伝子組み換えで太らせたサケや筋肉量を二倍にした牛をつくって、食糧難の地域に売りこむなどの応用事例もあります。
この技術が次は人間に向かうことは容易に予想がつきます。あとは人間への応用あるのみという状況です。2015年には中国の研究チームがヒトの受精卵に対してゲノム編集を行なったと発表しました。86個のヒトの受精卵に対し、地中海性貧血症という遺伝性疾患の原因になる遺伝子の切除を試みて、28個を修復したそうです。
遺伝性の疾患には難病が多くて、なかなか治療が難しい。一番有効な治療法は遺伝子の組み換えでしょうから、今後は非常に重要な課題になっていくと思います。
そこで、このような技術の適用はどこまで許容されるのかを考えてみましょう。
■着床前診断の線引きはどこまでか
まず、受精卵を選別することについてはどうでしょうか。つまり、体外受精した複数の受精卵を遺伝子検査し、どの受精卵が「適切」かを選択する。着床前診断と呼ばれるものです。病気があるかどうかという基準であれば選別してもいいのでしょうか。
あるいは身体的特徴、身体能力による選別はどうか。男女の産み分けはどうか。知的能力や精神的特性による選別はどうか……そうした選別が可能になりつつあると考えたときに、どこで線引きをすべきか。あるいは、線引きは必要ないのでしょうか?
選別から一歩進んで、遺伝子に人間の手を加えて改変することについてはどうでしょう。中国がやったように、病気予防のためであれば受精卵の遺伝子を改変してもいいのでしょうか。がんにかかりにくい遺伝子構造をつくり出すことができるかもしれません。一部の部族はエイズにかからないといわれているので、彼らの遺伝子構造を導入してエイズを予防することも考えられるでしょう。
あるいは、受精卵の段階で、遺伝性疾患を発症する遺伝子を見つけ出し、それを改変・治療することはどうでしょうか。
はたまた、病気の予防や治療ではなく、精神的、あるいは身体的な能力を高めるために遺伝子を改変してもいいのでしょうか(こうした能力増強のことをエンハンスメントと呼びます)。
DNAの二重らせん構造を解明したワトソンはこういいました。
「頭が悪いのは病気だから、遺伝子を組み換えて治療しよう」
さすが天才はいうことが違います。私はこれを聞いたときぞっとしました。彼にいわせれば、IQが120あっても病気なのかもしれません(笑)。要するに、判断の境界はかなり曖昧なんです。
■遺伝子改変を許容できる条件
(問題)遺伝子改変はどの場合に許容できるか?
選択肢を整理すると、次のようになります。
(1)体外受精によって、遺伝子検査をして選別する。
(2)病気予防のための遺伝子改変。
(3)病気治療のための遺伝子改変。
(4)身体的・精神的な能力増強(エンハンスメント)のための遺伝子改変。
ハーバーマスは、このあたりを明確にしませんでした。彼は、(4)のエンハンスメントについては否定しています。しかし、それ以外を否定しているかどうかは読みとれません。ハーバーマスもはっきりさせなかったことを考えてみましょう。
(ディスカッション)
【岡本】では、発表をお願いします。
■すでに「産むか産まないか」で選別している
【受講者D】われわれは満場一致ですべての治療をやるべきと考えました。ガンガンやっていいのではないかと。昔は子どもは「授かるもの」でしたが、いまは子どもを「つくる」という言い方をしますよね。すでにわれわれは産むか産まないかで選別しています。
【岡本】産むか産まないかの選別、あるいは配偶者の選別も含めて、私たちはすでに子どもに関してさまざまな選別をしていて、遺伝子による選別はその延長でしかない。だからこれを否定する理由は見当たらない、という考えですね。
反対意見はありますか?
【受講者E】グループのなかで私だけでしたが、遺伝子をいじってしまった結果がどうなるのか、本当に思い通りになるのかが見えていない状態のままで操作をすることには否定的です。遺伝子操作をした結果、種としての力が弱くなっていく可能性などを考えると、リスクが高すぎると思います。
【岡本】もし、リスクが解消され、絶対に安全であるとしたらどうでしょうか。
【受講者E】その場合は、まず(4)については、遺伝子組み換えをしたいという本人と、遺伝子操作される側の関係性という問題が出てくると思います。本人が望んだわけでもない改変を親などの第三者が行なっていいのか。それが引っかかります。
【岡本】それはきわめてハーバーマス的な意見ですね。おっしゃるとおり、生まれてくる子どもの受精卵の段階での遺伝子の改変ですから、本人が望んでいるか望んでいないかは聞けません。
■「新しい時代にわれわれは踏み込んだ」
【受講者F】議論としては、(1)から(4)まですべてOKということであっさり結論が出ました。ただ僕自身がそこまで踏みこめないのは、人類が保ってきた一線を踏み越える感があるからです。
これまで人類はいろいろな形の選択によって進化してきました。遺伝子異常を起こした個体が適者生存で残ってきた歴史があるわけです。複雑な声帯を持つ個体が遺伝子異常でたまたまあらわれて、それが言語の獲得につながった。ブタモロコシのなかに遺伝子異常で粒が落ちない個体がたまたまあらわれて、それを人類がトウモロコシとして選択的に育てることで農業が発展していった。
そのように人類はやってきて、現在は選択的に子どもを産む・産まないというところまできましたが、遺伝子に触ってはいません。そこには一線があるような気がします。自然淘汰の流れにしたがって意図的な選択を行なってきたとしても、遺伝子の改変となると一線を踏み越えるような気がするので、「いままでの進化の延長線上だからいい」とは思えないんです。
【岡本】それこそが、ハーバーマスも含めて、「新しい時代にわれわれは踏みこんだ」という形で問題を立てる一番大きなポイントです。この問いにどう答えるのかが、私たちに課せられています。これまでは遺伝子を組み換えるとしても他の生物に対してであって、自分たち自身の遺伝子を組み換えて、人間の本性や進化を左右するところまではやってきませんでした。ところが、技術的にそれが可能になり始めたのが、いまの時代の非常に新しい点です。
■よみがえる優生思想
【岡本】先ほどからも話題にのぼっているように、遺伝子操作はある種の優生思想なんです。チャールズ・ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトンは、1883年に発表した『人間の知性とその発達』のなかで、優生学(Eugenics)という概念を提唱しました。進化論の応用として人間の改良を目指すものです。ゴルトンによる定義では、「人種を改良する科学」とされ、「適切な人種や血統が、あまり適切ではない人種に対して、早く優位に立てるようにする科学」と語られます。しかし、問題はそのあとです。
優生学はポジティブな優生学とネガティブな優生学に分類できます。これこれの病気を持っている人は排除するという発想はネガティブな優生学、より優秀な人をつくっていくという発想がポジティブ優生学です。
では、ある人が「優生」かどうかは科学的に検証することが可能なのでしょうか? ゴルトンの定義は曖昧で、自然科学なのか社会科学なのか、あるいは社会政策や革命思想の一種なのか、はっきりしません。
■「リベラルな優生主義」とは
優生思想というとナチスにすぐに結びついて、私の若い頃はすぐに批判されていたんですが、20世紀には世界全体で優生主義が流行しているんです。日本でも優生保護法がずっと続いてきましたし、アメリカやスウェーデン、デンマークなどでも断種法が施行されていました。
ナチスがやった優生主義と、優生的な考え方そのものは分ける必要があるでしょう。ナチス型の優生学は、国家や組織が、個人の生存や生殖、自由に対して強制的に決定したり、命令したり、排除したりする、全体主義的な政策を行ないました。問題なのは優生学ではなく、「ナチス型」のほうかもしれない。
ナチス的ではない優生主義、国家や組織の強制ではない優生主義を、最近では「リベラルな優生主義」と呼びます。優生主義を一概に否定するのではなく、積極的に考えてみる必要があるのかもしれません。
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玉川大学文学部教授
1954年生まれ。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。九州大学文学部助手を経て現職。西洋の近現代思想を専門とするが興味関心は幅広く、哲学とテクノロジーの領域横断的な研究をしている。2016年に発表した『いま世界の哲学者が考えていること』は現代の哲学者の思考を明快にまとめあげベストセラーとなった。他の著書に『ポストモダンの思想的根拠』『フランス現代思想史』『人工知能に哲学を教えたら』など多数。
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(玉川大学文学部 教授 岡本 裕一朗 写真=iStock.com)
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