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西野監督が日本代表の"控え"に与えた役割

プレジデントオンライン / 2018年11月28日 9時15分

サッカー日本代表前監督 西野 朗氏

ロシアW杯で、下馬評を覆すベスト16に進出したサッカー日本代表。チームを率いた西野朗前監督は限られた時間でどのような戦略を考え、勝利に導いたのか。単独インタビューから、結果を出す組織のつくり方を聞いた――。

■監督就任時、描いていたチーム像

――ロシアW杯2カ月前での監督就任でした。就任要請を受けられたとき、どういったチーム像を描いていましたか?

2018年に入って、必ずしも代表チームの状態はよくはなく、さらに突然の監督交代でチームが混乱していた。本来であればW杯に向けて4年間準備をして臨むのに、極めて短い期間でチームをつくらなければならない。本来はいろいろテストもしたかった。でも、できない。だからこそ監督の就任要請を受けたときは、チームを“激変”させなければいけないと考えていた。

とはいえ、チームというのは生き物。そう簡単に変えることはできない。変えることにはじめから自信があったわけでもない。それでも日本代表に集まっているメンバーであれば、チームを変えられる可能性があるとは思っていた。選手個々のタレントは非常にレベルが高く、ヨーロッパで活躍している選手も多い。世界のトップクラブで揉まれているメンバーもいる。

だからこそ、アプローチの仕方によってはチームを大きく変化させられると期待していた。

■選手同士で化学反応させる

――実際にワールドカップ前、最後の強化試合だったパラグアイ戦で逆転勝利し、チームの状態は上向きはじめます。チームを“激変”させるために、どのようなことをされていましたか?

まずは改めて、自分が選考した選手をリスペクトし、持っている能力やスキルを最大限に引き出そうとした。幸い、監督に就くまでの2年間、技術委員長という立場で、チームを側面からサポートする立場だったので、各選手のことはわかっていた。

力を引き出したうえで、個と個で化学反応を起こさせ、それまでとは違うパフォーマンスを生み出す。そうすることで、本番で強豪国に通用するプレーの選択肢を増やしていく。チームづくりは、その作業の繰り返しだった。一朝一夕にはできないが、ここがチームの生きる道だと、短期間でもその積み上げを行っていた。

■選手の能力を最大限に引き出す

――どのようにして、個人のパフォーマンスを引き出したのでしょうか?

シンプルにコミュニケーションの量を増やした。自分が思い描く代表のチーム像を選手に伝え、選手からも主張を聞く。スタッフと選手を集めた全体ミーティングでも、一対一でもよく話をするようにしていた。

AFLO=写真

全体ミーティングは午前・午後の練習後など1日に数回行い、「おまえはどう思う?」と場面ごとにすべての選手に発言をさせた。誰かが意見を言うと、ほかの選手からも「俺はこうしたい」「こういう場合、俺ならこうする」と声が挙がる。

発言をさせることで、チーム皆が各選手が何を考えているのかわかるし、発言したことで主張した選手にもプレーへの責任が生まれる。チームの風通しをよくして、お互いの主張も聞き入れ、要求もしていくという雰囲気をつくるようにしていった。

ただし、その場では結論を出さなかった。ミーティングでは戦術ボードを使って、選手に見立てた磁石を動かして意見を言うが、各自の主張はいつもボードの上ではすべてが成り立ってしまう。だからこそ、方向性の決断はミーティングではなく、ピッチの上で出すようにしていた。

実際に出てきたやり方で動いてみて、「これは試合の中でうまくいく」「これはうまくいかない」と。机上ではなく、実際に体を動かしてプレーの選択肢を広げていった。

■チームを救った日本人の強み

――チームをつくる中で、日本代表、選手のよさというのはどういった部分だったでしょうか?

日本人選手の最大の強みはディシプリン(規律)があること。全体でやろうとしていることに協調しながら戦うことができる。試合が始まれば、プレーの選択をチームメートに相談することもできないし、ベンチに聞きにいくこともできない。そのときに、全体の意思に沿った対応をすることができる。だからこそ、共通した意識を皆が持つことを大切にしていた。

チームをつくる際インターナショナルで成功している監督は、これまでの成功体験で培った答えを選手に求める。「この場面はこのプレーをしろ」「いまはこういう試合にしなくてはいけない」と。そして、その自分の考えや型にはまる選手をチョイスする。

ただ、そうすると、選手たちの間のコミュニケーションは深まらないし、自分で考えることもなくなってしまう。選手たちに選択肢の幅を残したかった。だからこそ、選手、スタッフも含めて全員でまとめていくというスタイルを取った。

■サブメンバーに与えた大事な役割

――今回の大会では、交代で入ったメンバーが活躍するシーンも目立ちました。試合に出られないベテラン選手など選手のモチベーションはどのようにして維持したのでしょうか?

W杯のような長丁場の大会では、11人のレギュラーメンバーではない選手がチームに変化を生み出すことが多い。結果を変えるのはバックアップメンバーたちだ。どんな強豪国でもスタートの選手をサポートするのはもちろん、それ以上にベンチに座っている選手たちをいかに3~4週間、メンタルコンディションを維持させるかが大切になる。本戦を想定し、当然私もそこが勝負どころのひとつであると考えていた。

まず大切なのは、メンバーを選んだ段階で、個々の選手にチームでの立ち位置、求めている役割についてはっきりと伝えること。そのうえで彼らのケアをしていく。

■チームとしてルーティン化する

レギュラー選手はトレーニング、試合、振り返り、次の試合の準備……と行動がルーティン化するので、心身ともに調整を進められる。しかし、バックアップの選手はレギュラー選手ほど試合に出ないためそれができない。特に、メンタル面のコンディションに関しては、選手1人でつくることは難しい。しかも、トップ選手が集まるからこそ、心理的なケアは何よりも時間をかけて対応していかなければならない。当然、全体での話ではどうしてもレギュラーメンバーへのアプローチが増える。

そこで、ロシアではコーチ陣だけでなく、メディカルスタッフ、サポートスタッフ、その他のスタッフ全員が協力してサブメンバーのケアに当たった。試合形式のトレーニングを用意して、そのあとで振り返り、休養、再トレーニングという形で、レギュラーメンバーと同じルーティンを準備するようにした。

たとえば本田(圭佑)は、与えられた短い時間でパフォーマンスを爆発させようとしていた。「1ゲーム20分か25分が自分に与えられる」と事前に理解して、そこに向けて気持ちを高めていた。その意識、感覚の中で今回の大会に入っていた。それで、あの活躍を見せてくれた。

■信念を曲げてでも勝とうとした瞬間

――メンバー交代でいうとグループリーグ最終戦のポーランドとの試合で、後半38分に長谷部誠主将をピッチに送り出し、“徹底守備”をするという決断をされました。あのときの決断はどのように決められたのでしょうか?

実はいまもあの決断に対して、自問自答することがある。それくらい大きな決断だった。これまでの自分の指導スタイルや信条を知っている人たちは驚いたと思う。オリンピック代表でも、その後のJリーグでも私は常に攻撃的なスタイルを貫いてきた。守備的ではなく攻撃的になれと。悩んだらステイではなく、自分からアクションを起こせ。ボール、人、ゴールに対して積極的にいけと。私自身も、「これが自分の指導者としての生命線だ」と思っていた。

今回の日本代表でも選手たちには、「一つ一つのプレーで強気の選択をしてくれ、気持ちを前に出していけ」と言い続けていた。あのとき自分が出した決断は、これまでの自分のスタイルとは真逆だった。

AFLO=写真

0対1で負けていたあの場面、実は当初長谷部ではなく、より攻撃的な選手を出して、同点に追いつこうとアップをさせていた。しかし、そこから数分間、劣勢の時間が続いた。あの決断を導くうえで、決定的だったのはその間にあまりにも印象に残るピンチの場面を何度か迎えたことだった。絶対の自信を持ってそこからチーム全体で攻められるかというと、そうではない状況になってしまった。

失点して0対2になれば、敗退が確定してしまう。あの場面の決断では、チーム全体として攻めるか守るかどちらかに振れなければならない。そうしないとチームは動かない。中途半端な決断が最もリスクになってしまう。あそこで「攻めろ」と指示を出したとしても、緊迫した状況で統一感を生むのは難しいと判断した。

そのうえで、別会場で試合をしているコロンビアは、自分たちと同じく現状スコアを維持すれば予選突破をできる状況。目の前のポーランドもこのまま勝てればいいと考えている。そのとき、自分の中で自然と出た判断だった。そこから守りに入ると長谷部に指示を出し、あの戦術をとることになった。信条を変えてでも、グループステージを突破する確率を考えたうえでの判断だった。

■チーム第一だった「ザ・キャプテン」

――長い間チームの主将を務めた長谷部選手は代表からの引退を発表しました。長谷部選手はどのような役割を担っていたのでしょうか?

ハセ(長谷部選手)は「ザ・キャプテン」。彼は、チームを変化させるには欠かせない存在だった。主将として臨んだ4年前のブラジルワールドカップが不本意な結果に終わって、人一倍ロシア大会に懸ける思いは強い。前任の監督とも、選手とチームとのパイプ的な役割を担っていた。監督以上に選手たちに働きかけ、チームがよくなるためにと、常にチームとして考えていた。

彼のリーダーシップの取り方は、自分の意見を広めるのではなく、納得のいっていないことがあっても、監督の意思を全体に伝えるようにする。自分を殺してでも、チームを統一するために、コーチングスタッフの話を曲げないように選手たちに伝え、粘り強く広げていく。こちらが選手として集中してほしいと気を使うくらいだった。監督就任前にもハセのやり方を見てきていたのもあるし、キャプテンは彼以外考えられなかった。

■元ライバルたちとの意思疎通の取り方

――新しい代表監督に森保一氏が就任しました。ワールドカップでは森保氏、リオ五輪監督だった手倉森誠氏がコーチをされていました。連携はどうだったのでしょうか?

手倉森は前監督時代からA代表に帯同してきたコーチで一番チームを知っていた。森保も将来的に代表チームの監督にふさわしい指導者だったのでスタッフに入ってもらった。

AFLO=写真

ただ、自分のとったチームのつくり方には驚いたと思う。本来であれば2カ月という限られた時間の中で、メンバーを固定してチームづくりをするのが当然だろうと思っていただろうから。しかし、実際にはテストマッチでも選手をターンオーバー(入れ替え)し、次々と新しいアイデアを取り入れていった。

ただ正直に言うと、3人のサッカー観は三様だった。お互いにJリーグの監督として競ってきた仲でもあるし。だからこそ、彼らとも選手たちと同じで、それぞれの意見を出し合い、実際にピッチでテストをして最適なプレーを選んだ。その繰り返しで「この大会は全員で、総力戦で戦うぞ」というメッセージは伝わっていったのではないか。

■代表監督退任63歳の次のキャリア

――最後に、現在西野前監督は63歳。代表監督を退き、今後のキャリアをどのように考えられていますか?

W杯が終わって、現状バーンアウト(燃え尽き症候群)的な感情も確かにある。アンダー世代、オリンピック、トップチームと、すべての代表カテゴリーでチャレンジできたし、Jリーグでも16年指揮を執ってきた。

ただ、四半世紀、監督としてピッチ上に立っている自分が、「全部をやり終えたかもしれない」と思っているのは、ほんの小さな休憩のような気もしている。また燃えるもの、燃やすものを見つけてピッチ上で戦うというタイミングが自ずとやってくるのだろうとも思う。

指導者として選手にいまに安住せず高みを目指せ、ヨーロッパのトップリーグでの挑戦をしろと言ってきた。監督やコーチも同じ意識を持っていなければいけない。チャレンジに、年齢は関係ないと思う。

そういう意味で、将来的に「またチャンスがある」とお伝えしておく。

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西野 朗(にしの・あきら)
サッカー日本代表前監督
1955年、埼玉県生まれ。浦和西高校、早稲田大学教育学部卒。アトランタオリンピック代表監督となり、ブラジルに勝利する“マイアミの奇跡”を起こす。その後Jリーグの監督を歴任。1部での監督通算270勝は歴代1位。

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(サッカー日本代表前監督 西野 朗 構成=山崎哲朗 撮影=松本昇大 写真=AFLO)

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