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自己責任論を否定できないマスコミの欺瞞

プレジデントオンライン / 2018年11月7日 9時15分

2018年11月02日、東京・内幸町の日本記者クラブで陳謝する安田純平さん(写真=時事通信フォト)

■「身動きができず、声も出ず、水も飲めない」

「紛争地に行く以上は自己責任。何があっても自分で引き受け、自分の身に起こることについてははっきり言って自業自得だと考えています」

シリアの過激派組織に3年以上拘束されていた安田純平氏が解放されて帰国した。11月2日に会見を開き、こう語った。

テレビで見る限り、時々息が荒くなることはあるが、著しく健康を害しているとは見えなかったので安心した。だが、長期にわたる拘禁生活は、想像していた以上に過酷だった。拘束生活のうち、約8カ月間は高さ1.5メートル、幅1メートルの独房に監禁されていたという。

「体の向きを変えるだけでも(両脇の部屋にいる過激派の男が=筆者注)音を聞いていて、枕の上で頭の向きを変えるだけでもその音を聞いている。鼻息も聞いている。鼻息がダメだというので、鼻を一生懸命かんで通そうとするけれど、鼻炎なので通らない。つばを飲み込むのもダメ。彼らが物音を立てる時にだいたい1分以内に動かないといけないという感じでした。身動きができず、声も出ず、水も飲めない。そんな日々が続きました」(安田氏)

私は閉所恐怖症だから、こういう状態に何カ月も置かれたら気が狂ってしまうだろう。

■紛争地取材にまた行くかどうかは「全く白紙」

安田氏の妻に手紙を書けといわれたそうだ。しかし、「助けてくれ」と書くのではなく「オクホウチ」と書いた。

「これは、妻のことを『おく』と呼んでまして、それに『ほうち(放置)』と。妻には、何かあれば放置しろと常々言っていましたので」(同)

奥さんには、もし自分に何かあっても何もするな。自己責任なのだから「放置」しろといっていたそうだ。死と隣り合わせの拘禁状態の中でも、冷静さを失わず、こう書けるのはすごいことである。肉体的にタフであるだけではなく、精神的にもそうとうタフな人である。

日本政府の対応については、冒頭、「私の行動によって、日本政府が当事者にされてしまったことも申し訳なく思っている」と語ったが、「本人がどういう人物であるのかによって、行政の対応が変わるとなると、これは民主主義国家にとって非常に重大な問題だと思います」と、指摘している。

これは、安田氏が以前、安倍政権を批判した発言があり、それをとらえて「政権に批判的な人間を助けるために身代金を払うのはおかしい」という声があることへの“反論”である。

今後、再び紛争地取材に行くのかと記者から問われると、「行くかどうかは全く白紙です。分からないです」といった。

別の記者からも「現地に行ったのは記者の使命からか」と聞かれると、「“使命”など、そういうおこがましいことを考えたことはない。“戦争”とは『国家が人を殺す』ということを伝えるために、(国家の発表でなく)第三者である外国人ジャーナリストが現地に行って伝えることが絶対に必要だと思うからです」と、明快に答えた。

■ビンラディンに何度も話を聞いたジャーナリスト

言論・報道の自由を擁護することを目的としたジャーナリストによる非政府組織「国境なき記者団」のウェブサイトに、今年に入って62人のジャーナリストが殺されたと書いてある。

10月2日、トルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館に、離婚証明を手に入れるために訪れたサウジアラビア人ジャーナリスト、ジャマル・カショギ氏(59)も、その1人である。

「ニューズウイーク日本版」(11/6号)によれば、カショギ氏の「異変」に最初に気が付いたのは、その建物の近くで待っていたトルコ人の婚約者だった。彼のアップルウオッチと同期していたiPhoneに、カショギ氏が拷問を受けていた様子が録音されていたというのだ。だがこれは、何らかの手段で音声情報を入手したトルコ当局が、それを知られないために、そうリークしたといわれているそうである。

カショギ氏は9・11を主導したウサマ・ビンラディンへの数度にわたるインタビューで名前を知られた。サウジアラビア支配層に食い込みながらも、その保守性を容赦なく批判するようになり、17年にアメリカに亡命。ワシントン・ポストでコラムニストとして、現ムハンマド皇太子の体制を痛烈に批判してきた。

■安全地帯でぬくぬくとする大手メディアの記者たち

だがカショギ氏はニューズウイークに対して生前、「政権打倒を叫ばない。あまりに危険だから」と語っていたという。それだけ身の危険を熟知していたカショギ氏が、なぜ、トルコとはいえサウジ領事館へ単身で入っていったのか疑問だが、このように、権力の実態を暴こうとするジャーナリストに、危険はつきものである。

日本のように、平和ボケした国民と、安全地帯でぬくぬくと惰眠を貪っている大手メディアの記者たちは、こうした危険を他所事だと思っているのだろう。だから安田氏のようなケースが起きると、ヒステリックに自己責任などとバカなことを叫ぶ輩に対して、たしなめることもできず、自分たちの恥を覆い隠そうと悪乗りするメディアまで出て来る始末だ。

この国にはハロウィーンでバカ騒ぎする自由はあるが、真の言論の自由度はすこぶる低い。それは、大手メディアに所属している多くの人間たちが、権力チェックよりも権力にすり寄ることを仕事だと勘違いしているからだ。

ここで週刊誌の論調も見てみよう。

■「日本政府がカタールやトルコに『借り』か」

「週刊新潮」(11/8号)のタイトルは「『安田純平さん』手放しでは喜べない『3億円』の裏情報」。それによると、身代金については、「在英国の人権団体からは、カタールの政府が約3億円の身代金を払ったとの情報も出ている。事実だとすると、それは『肩代わり』であり、いずれ日本政府が何らかの形で『弁済』しなければなりません」(大手メディア外信部デスク)との指摘があるという。

一方で、政府の「国際テロ情報収集ユニット」という組織が動いたという見方もある。このユニットは、15年に発足し定員は80名ほど。外務省、防衛省、警察庁、内閣情報調査室などから集められたメンバーで構成されていて、外務省内に設置されているが、全員が内閣官房兼任で、総理・官房長官直結の組織だと、公共政策調査会の板橋功研究センター長が解説している。

安田氏救出のためにカタールやトルコの情報機関と信頼関係を築き、シリアの反政府組織と交渉してもらったというのである。そうなると、身代金を払っていなくとも「日本政府がカタールやトルコに『借り』を作ってしまった」(板橋氏)ため、これからの日本外交に少なからぬ影響を与えると見ている。

■「そりゃ、政府は危ないところには行くなと言う」

国と国とが、過激派に拘束されている人間を救うのに協力することが、なぜ、貸し借りと考えなくてはいけないのか。私には解せない。「新潮」でジャーナリストの徳岡孝夫氏も、こういっている。

「大手メディアの記者はシリアのような危険地帯に行こうとしない。そこにフリーのジャーナリストが入って真実を報じようとするのは当たり前です。そりゃ、政府は危ないところには行くなと言うでしょう。でも、ジャーナリストとはそういうところに行くものです」

福島第一原発事故のとき、真っ先に福島から逃げ出したのは大手メディアの人間たちだった。

■昭恵夫人「何もできませんが、お祈りしています」

「週刊文春」(11/9号)は「スピリチュアル歌手妻(49)の猛アタックに陥落した安田純平さん(44)の自己責任」とタイトルを打ち、奥さん・深結(みゆう)さんを取り上げている。

彼女は有名なポップスシンガーで、出雲大社に20年前に魅せられ、13年には60年に一度の「出雲大社平成の大遷宮」の奉祝コンサートで、その美声を響かせ、島根県の親善大使・出雲観光大使も務めているそうだ。

スピリチュアルの縁もあるのだろう、あの安倍昭恵夫人とも昵懇で、深結さんが出した本でも対談している。今回、ジャーナリストの常岡浩介氏が「昭恵さんに相談してみたら」と提案したら、昭恵夫人から「何もできませんが、お祈りしています」という返事だけが来たそうである。

■「伝説の取材記者」はいわれなき批判に怒った

安田氏の会見が終わった直後に、日本テレビの清水潔氏と会った。彼は、『FOCUS』のカメラマンだった時、ストーカーに殺された女子大生の遺言から、単身で犯人を捜し出し、追い詰めた。

生前、女子大生が困って埼玉県警に相談し、告訴していたのに、警察ぐるみでその事実を隠蔽していたことも暴き、この報道の後に「ストーカー法」ができた。

日本テレビに移ってから、冤罪を訴えていた菅家利和さんの「足利事件」の捜査に疑問を持ち、丹念な取材で「新犯人は別にいる」「もう一度DNA鑑定をやり直せ」とNNNドキュメントや自社のニュースで訴えた。

それによって、日本初となる「再鑑定」が行われ、菅家さんは晴れて無罪になった。彼は「伝説の取材記者」といわれている。清水氏は、安田氏にいわれなき批判が起きていることについて、概略こう話してくれた。

「国民がなんなく手に入れている日々の情報には、安田さんたちのようなジャーナリストが、危険を顧みず、命を懸けてとってきたものがたくさんある。しかし、享受している人たちは、見ている情報が届くまでに、どれだけのジャーナリストたちの汗や涙、時には血が混じっているかに思いを致さない」

「安田さんに対して、自己責任などとバッシングする人たちは、考え違いをしている。紛争地帯や危険な地域に潜入して、何とか情報を手に入れ、真実を伝えようと考えているジャーナリストたちはみな、たとえ自分の身に何かあっても、それは自己責任だと覚悟している」

■シリア人の夫をもつ小松由香さんが訴えること

いま一人、考えを聞きたくてメールをした女性がいる。小松由香さん。彼女は植村直己冒険賞を受賞した登山家でありフォトグラファーでもある。2012年からシリア内戦を取材し、シリア難民の今を伝える活動を行っている。

ちなみに彼女の夫君はシリア人で、東京で暮らしている。小松さんは、先日、身重の上に小さな子供を連れてトルコに行き、難民の取材をしてきた。以下は彼女のメールからの引用である。

▼小松由香さんからのメール
安田純平さんの解放のニュースが流れてから私自身自問自答してきた。まず自己責任論以上に、なぜその背景にある環境についてもっと取り上げられないのだろうか。安田さんに自己責任を問うより、なぜ彼が危険を冒してそこへ行ったか、そして拘束されねばならなかったか。そこが今どのような環境で、人々がどのような生活を強いられているか。そうしたことがより本質であるのではないだろうか。

また内戦前後のシリアを見てきて思うことは、情報は常にコントロールされるということだ。そして日本のように客観的な情報を当たり前のように得られる環境がいかに恵まれているかということ。情報はただではない。それがお茶の間に届けられるまで、綿密な下調べをし、ときにリスクを冒して現地に入る人がいるからこそ得られるものだ。

確かにシリアへの渡航は日本政府によって禁止され、事前に大きなリスクも予想はされた。結果的に安田さんの解放のために多くの人員や資金が動いたことを考えると、全く問題がなかったわけではないだろう。しかし危険性も承知の上で、安田さんは相当の覚悟をして現地に向かったのだ。
批判は簡単だが、情報を得る裏側にはリスクが存在する。特にシリアのように現地で情報が統制され、死者・難民が生まれ、一般的に入国が許可されない国ではなおさらだ。だが情報が制限されているからこそ、そこで何が起こっているのかを伝えることは価値あることではないだろうか。こうしたリスクのもと、市民目線の客観的な情報を集めようとするジャーナリストの立場を理解することなく、私たちは日々の情報の恩恵だけを預かることができるのだろうか。

一方私個人としては、先日のトルコなど、国境までは取材に赴くものの現在のシリア国内には絶対に渡航を考えない。それは高いリスクを負う覚悟がないからだ。加えて自分の取材地が戦地ではなく、難民の避難先であり、そこで彼らの日常を取材したいという思いがある。しかしそれは結局は本人が何に価値を置くかということのように思う。

信頼できる情報が当たり前に得られる今。だがその裏にリスクを背負って情報を集めている人々がいること。その両サイドにいま一度思いを馳せてみたい。

■北朝鮮から「1カ月、単身で来ないか」と招かれた

最後に、安田さんや清水さん、小松さんとは比べ物にならないが、私も国が渡航禁止にしている国へ、何度か取材に行っている。

「月刊現代」にいた1973年、初めての海外旅行はベトナム戦争中の南ベトナム・サイゴン(現在のホーチミン市)だった。

動機は不純だが、戦争の現場が見たかったのである。南ベトナム解放民族戦線がサイゴンを占領する「サイゴン陥落」の2年前のことだった。ホテルを出ると、戦争孤児たちが雲霞のごとく寄って来て、カネをせびること以外には、戦争のただなかにいるという緊張感はあまりなかった。

1985年5月北朝鮮へ行ってきた。経緯は略すが、北朝鮮から「1カ月、単身で来ないか」と招かれたのである。

2年前の10月9日にビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)で、北朝鮮によると思われる爆弾テロ事件が起き、韓国の要人の多くが殺された。

産経新聞などで、北朝鮮による日本人拉致事件のニュースが少し出てきていた。日経新聞の記者が、北朝鮮で逮捕され、2年2カ月にわたって拘束されるのは、14年後の99年である。

ジャーナリストの端くれなら、どうしても行ってみたい国であった。会社に知られれば行くなといわれるだろうから、有給休暇を1カ月とった。普通は中国の北京経由で平壌に入るのだが、モスクワを見たかったので、モスクワ経由で入ることにした。

■私を見る北朝鮮の人々の「刺すような視線」

だが、北朝鮮とは国交がない。入ったまま出てこられないという可能性はある。そこで、親しくしてもらっていた河野洋平新自由クラブ代表(当時)と中曽根康弘首相(当時)の秘書に、北朝鮮に行くこと、6月を過ぎても帰国しなかったときは、元木という人間が戻らない、どうしているのかを問い合わせてほしいと頼みに行った。

万全ではないが、それ以上手の打ちようがない。成田からモスクワに立つ前、あれほど行こうか止めようか逡巡したことはなかった。

モスクワを経由して入った平壌は、想像していたよりもきれいな街だった。着いた翌日の朝、一人でホテルから中心街にあるデパートまで歩いてみた。私を見る北朝鮮の人々の「刺すような視線」が体の中まで突き刺さってきた。

少し前に、日本の大手新聞社のカメラマンが、平壌で写真を撮っていて群衆に囲まれ、カメラを壊されたというニュースを読んでいた。とてもカメラを構える勇気はなかった。

街外れの招待所に私一人。ベンツと運転手、通訳がつき、毎朝、平壌大学教授のご進講。終わればオペラや映画見物三昧という待遇は「準国賓待遇」だったようだ。

だが、パスポートはとられ、酒を飲んでも北朝鮮の悪口をいえないというのは、かなりのストレスがたまるものだ。

3週間近くが過ぎたころ、そろそろ帰国したいといったが、なかなかOKが出ない。月末近くになってようやく出国の日が決まった。

言葉がわからない。それなりの地位の人間が出て来るが、一切名刺は出さない。もちろん写真を写してもいけない。一日板門店までクルマで行ったが、その時撮ったはずのフィルムだけが、抜き取られていた。

取材は不十分だったが、平壌という街を自分の目で見られたこと、そこで考えたことは、私の編集者人生の中でも大きな収穫になった。

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。

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(ジャーナリスト 元木 昌彦 写真=時事通信フォト)

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