心が折れたとき、復活できるクラシック曲
プレジデントオンライン / 2018年11月16日 11時15分
■まずは、気持ちを落ちつけるために『月光』
誰もが知るクラシック音楽作曲家の一人であるベートーベンは、「優れた人間の大きな特徴は、不幸で苦しい境遇にじっと耐え忍ぶことにある」という言葉を残した。自身も耳が聞こえなくなるという病を背負ってなお、作品を作り続けた不屈の精神を持つからこその言葉だろう。
そんなベートーベン作曲のピアノソナタ第14番の『月光』、とくにその第一楽章を心が折れそうで、苦しいときに聴いてほしい。前奏部分の左手で弾く低音部を和音でつなぎ、右手で弾く部分はゆっくりと流れるように3連符が連なっていく。単調に思えるこの繰り返しが、心にのしかかっている重苦しい何かを探し当てるように浸透してくる。重低音の連なりと、高い周波数成分から構成されたこの楽曲を室内で流し、その優れた空間表現に身を委ねるだけで、音に包まれたリラックス効果が大いに得られるだろう。少し弱った自分を、その空間にただ存在させるだけでいい。
音楽評論家のレルシュターブによって、『月光』という呼称を授けられたこの美しいピアノソナタのメロディラインを頭で追うと、その月の光の世界に自分が引き寄せられるような気分になる。目の前に広がる湖に映る月の光の滲みにはかなさを感じながら、ひととき、現実から引き離される開放感を味わえる。一楽章の心地よさに浸れたら、ぜひそのまま二楽章、三楽章へと続いてほしい。力強くテンポのはやい三楽章が終わるときには、少し気分も落ち着いてくるだろう。
■何もかも嫌になったら、『弦楽のためのアダージョ』
やる気が起きない、仕事を放り出したい、家族のそばにいるのもつらい、何もかもが嫌になる――。どんなに優れたビジネスパーソンであっても。そして、よき家庭人であっても。そんな夜には、バーバー作曲『弦楽のためのアダージョ』をかけてみてほしい。この曲は、そんな心境によく合う。聴いているだけで、涙が次から次に流れていくことだろう。恐ろしいほどに美しく、暗く、すすり泣きのような旋律から、慟哭、嗚咽を漏らすような激しい弦楽器のたたみかけるような音、音、音。
生きていくことは、それだけでつらい。普段は、考えることもなく過ぎ去っていく時間さえも、死に向かっているカウントダウンであるかのように思える。心が重く折れそうなときは、死の気配を感じる瞬間でもある。生の対極にある死を、この曲は内包するだけではない。重く暗いだけでは終わらないのだ。暗さとつらさの中に、高潔な生への光を最後に与えてくれる。重々しい響きで進む中で、最後に濁りなき清らかな長三和音をもって、光に導いてくれるように聞こえる。一度底まで沈み込んだら、あとは浮上すればいい。
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■いちばんの特効薬は、『交響曲第9番』
最後に、心が折れたときに最大の効果を上げられる曲として、ブルックナー作曲の『交響曲第9番』を紹介したい。アントン・ブルックナーは、ベートーベンが第九を作曲した1824年にオーストリアに生まれた。幼少時代から音楽的な才能を開花させ、ウィーン国立音楽院の教授まで上り詰めたと聞けば、さぞかし“デキる男”の見本のように思われるだろう。
たしかに才能に恵まれ、地位を得て、多くの弟子に慕われ、数多くの名曲を残している。のちの作曲家マーラーにもその影響を色濃く残し、同世代のブラームスとも比較されるほどの実力の持ち主である。しかしながら、本人はコンプレックスにさいなまれ、作った楽曲には自信が持てず、批判される度に書き換え、それを何十年と続けていた。
作曲家の才能が必要とされる作品の器として交響曲が挙げられるが、彼は40歳をすぎてからこれを作り始める。相応の経験をし、地位を固め、やっとの想いで作り始めた交響曲だが、書き換えを重ねすぎ、同じ曲でも出版によって内容が違っている。同時代に生きたワーグナーに圧倒され、高く立ちはだかるベートーベンの交響曲と比べては自信をなくす。結局、『交響曲第9番』は、最終楽章の第四楽章を完成させることができず、未完成のままこの世を去ってしまう。72歳だった。
■あきらめるな、と語りかけるブルックナー
ブルックナーの楽曲を聴くたびに、とりわけその美しい交響曲に耳を傾けるたび、そのあきらめることのない、音楽家としての生き様に心を打たれる。ブルックナーの曲は、泣きたいほどに美しいアダージョ(遅い速度の楽章や楽曲のこと)をはじめ、叙情的な音を重ねているのにも関わらず、どちらかというと建築美のような重厚な立体感がある。何度も何度も執拗なほど反復を繰り返し、どの交響曲を聴いても、どれだかわからないほど似通っている。同じことを繰り返し訴え続けているようにも思える。あきらめることなく。そして何度も書き換え続けて。
ブルックナーは、ずっと自分の立ち位置を決められなかったのではないのだろうか。その美しい曲の数々を聴いて、そう思う。迷いを拭えなかったのではないか。曲を作り続けることで、それを乗り越えようとしたのではないか。一度できた曲も、書き換え、改訂版にし、演奏のたびに人の評価を聞いた。落ち込んだはずだ。やめたくなったこともあるはずだ。それでもブルックナーは作り続けた。そして書き換えをやめなかった。あきらめないぞ、と強く宣言するわけではない。長い時間をかけてコツコツとただ曲を作り続けた姿を、未完のこの交響曲にも静かに横たえているだけだ。
心が折れそうなとき、自信のある人が雄弁に語る言葉を受け取る力はない。強い思いを受け入れる心の余地がないからだ。そんなときでも、ブルックナーのあきらめない静かな強さになら、心を委ねられることだろう。
(ノモス代表取締役 渋谷 ゆう子 写真=iStock.com)
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