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「根性なしの小ヤンキー」がサバで稼ぐ術

プレジデントオンライン / 2018年12月10日 9時15分

鯖や 社長の右田孝宣氏とジャーナリストの田原総一朗氏

2018年8月、国内大手の日本水産が、さば料理専門店を運営するベンチャー企業「鯖や」との提携を発表した。鯖やは、鯖の養殖から卸売、飲食店経営を一貫して行っているという。果たして経営者はどのような人物なのか――。東京・代官山のお店を訪ねた。

■和菓子店に双子で生まれ“小ヤンキー”に

【田原】右田さんは大阪生まれ。子どものころは体が弱かったそうですね。

【右田】小児ぜんそくでした。小学校と中学校のころが一番酷くて、入院も複数回しています。でも、体を動かすことは好きでした。僕は双子の兄で、小さなころから弟と2人で“悪さ”ばかりしていました。詳しくは話せないくらい……。

【田原】危ない遊びをしてたわけね。何が面白かったんだろう?

【右田】やってはいけないことをやってるというスリルですかね。

【田原】気持ちはわかります。僕もいまだにスリルが好き。タブーを無視して言いたいことを言い、権力者がワーッと文句を言ってくるのが面白い(笑)。それはともかく、勉強は嫌いだった?

【右田】成績は悪かったです。うちは家業が和菓子店で親は忙しく、いい意味でほったらかし。勉強しろと言われたことはなく、自由奔放に育ちました。

【田原】勉強しないで、学校には何をしに行ってたの?

【右田】中学生のころは、学校には毎日行くのに授業には出ない“小ヤンキー”になっていました。

【田原】小ヤンキー? なんですか、それは?

【右田】ヤンキーになりきれないヤンキーです。夜遊びはするけど、夜はきちんと家に帰るし、喧嘩はするけど人は殴らない。中途半端なヤンキーです。いま振り返ると、粋がりたかったんでしょうね。中学くらいまでは、とにかく目立つことをして友達に認められたかったんだと思います。

【田原】高校は商業高校ですね。

鯖や 社長 右田孝宣氏

【右田】家から一番近かったのが商業高校で、僕の偏差値でも入れました。ただ、1年生のときに数学、国語、英語、体育の単位を落として留年。1年生を2回やっています。

【田原】体育も? 不良は運動が得意だと思ってた。

【右田】出席日数が足りなかったんです。僕が通っていた商業高校は女子300人に対して、男子が60人。だからよくモテました。ただ、当時の僕は、もやしみたいな体形。水泳の時間に友達から「右田、そんなガリガリで恥ずかしないんか」と言われて、そこから水泳の授業をサボるようになってしまった。プライドばかり高かったんでしょうね。

【田原】体を鍛えればいいのに。

【右田】やりました。そこから隠れて水泳に通ったし、格闘技も始めました。ただ、成果が出るまでは学校のプールに行くのは嫌だなと。

【田原】ところが高校3年になって自信がついて、いろいろやる気になった。これはどうして?

【右田】僕はムダにプライドが高かったんです。だから2回目の1年生のときは、元クラスメートの上級生と顔を合わせるのが嫌で、彼らから逃げるようにして通っていました。僕が4年目に入ると、彼らも卒業。そこからやっと羽を伸ばせるようになって、気持ちも前向きに変わっていきました。

【田原】具体的にどう変わった?

【右田】勉強は相変わらずやりませんでしたが、生徒会の副会長や体育祭の副団長をやらせてもらいました。最後の一年間は、高校生活をめちゃくちゃ楽しめたと思います。

【田原】高校卒業後は、スーパーの中の鮮魚店に入社する。

【右田】最初は水泳のインストラクターをしていたのですが、高校のときの親友が中央卸売市場で働いていて、知り合いの魚屋が困っているからそこに行ってくれと頼まれました。じつは僕は19歳まで魚を食べられなかったんです。でも、「俺の顔を立てると思って」と頼まれて、しゃーないなと。

【田原】へえ、魚が嫌いだったの?

【右田】おかんの魚料理がホンマに下手でね。肉ばかり食べてました。

【田原】鮮魚店で、どういう仕事を?

【右田】まず命じられたのが、発泡スチロールに入っているサンマの数を数える仕事です。中は冷たい氷水で、数えていたらしもやけになって腫れてくる。それでも苦労して「31匹だ」と数えたら、発泡スチロールの横に31と書いてありました。最初からわかってたものを、新入りの僕にわざわざ数えさせたんです。もう完全にいじめですが、最初は毎日こんな感じでした。

■魚嫌いが直った、奇跡の「煮付け」との出合い

【田原】よく辞めなかったですね。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【右田】あるとき、配達先の料理店で、マスターに「まかないにカレイの煮付けをつくったから、ちょっと食べていって」とごちそうになりまして。魚は食べられないと最初は断ったのですが、一口食べたら衝撃を受けるくらいにおいしかった。そこから急に魚に興味が湧いてきて、もっと知りたいなと。

【田原】僕もカレイの煮付けは好きです。おいしいよね。

【右田】ホロホロと身が取れて、口の中で甘さが広がっていくんですよね。あの味はいまでも忘れられないです。

【田原】それからどうしました?

【右田】毎日、お店で余った魚を買って帰って、自分で勉強しながら母親と一緒に料理をするようになりました。一緒につくってみると、母親は煮付けに砂糖もみりんも使わないし、煮干しになるかというくらいに火を入れすぎていることがわかった。どうりでおいしくないはずです(笑)。

【田原】魚の世界に目覚めたのに、鮮魚店は4年で辞めてオーストラリアに行きますね。

【右田】1年目は季節が変わるごとに新しい魚との出合いがあって新鮮でした。2年目も、旬の魚がわかってきたから楽しかった。しかし3~4年目になると「またか」で、新しい発見がなくなった。当時の上司は30歳で年収500万円。このまま同じことを続けて数年後はああなるのかと思うと、将来に希望が持てなくなりました。ちょうどそのころ、友人のお兄さんが中国で貿易の仕事をしているという話を聞いて、「貿易、かっこええな」と、それで23歳で店を辞め、海外に魚の勉強をしにいくことにしました。

【田原】海外もいろいろあるけど、どうしてオーストラリア?

【右田】当時、ワーキングホリデーがあったのは、韓国とカナダ、イギリス、オーストラリア。韓国は近すぎるし、カナダとイギリスは寒い。安易ですけど、残ったのがオーストラリアでした。

【田原】仕事のあてはあったんですか。

【右田】ないです。ただ、以前お世話になった方がシドニーに住んでいたので、まずはそこに2週間住まわせてもらいました。そこから、まずこの国を知ろうとバックパックで3カ月かけて一周しました。日本で50万~100万円くらい貯めていきましたが、一周のチケットが30万円弱。戻ってきたころにはお金も底を尽きかけていたので、街で求人を出していた回転寿司店で働き始めました。

【田原】そこで魚の勉強はできた?

【右田】店では工場から運ばれてきたネタをシャリ玉に載せるだけでした。こんなことをするためにオーストラリアまで来たわけじゃない。そう悶々としていたときに本部から社長がたまたま店に来たので、「日本で魚屋をしていて、マグロも捌ける。本部で雇ってください」と直訴。それで引き上げてもらって、しばらくは社長のかばん持ちをしていました。

【田原】社長は日本人?

【右田】はい。とても優秀な方で、その下について、店舗を増やす計画を立てたり、マーケティングの手伝いをやったり、サーモンの養殖場やサーモンをフィレにする工場を立ち上げたりしました。いろいろ勉強させてもらって、最後は「メルボルンに支社をつくるから、そこの支社長になれ」とまで言ってくれました。

【田原】断ったの?

【右田】破格の条件でしたが、考えてみると、僕は社長の下でぬるま湯に浸かっていただけ。やっぱり自分の力で何かやりたいと思って、帰国しました。

【田原】さあ、右田さんは帰国して自分の力を試そうとした。まずは何から?

【右田】それがですね、お金を稼ごうと最初にやったのがファックス販売。騙されて、マルチ商法のようなものでした(笑)。それで友達に38万円のファックスを売りまくりました。17人に売ったところで、「右田の電話には出るな」と噂になって、すぐ行き詰まった。じつは渡豪する直前につき合い始めた看護師の彼女がいて、帰国後にできちゃった結婚したのですが、僕が朝起きると、机の上に千円札が置いてある。妻からのお昼代です。自分の力どころか、もう落ちるところまで落ちてしまって。

【田原】そこからどうやって立て直したのですか?

【右田】さすがにこのままではあかんなと、保険の外交員になりました。でも、ファックス販売で友達を食い物にしたやつが保険の勧誘をしてもうまくいくはずがない。しまいには給料が7万円になりました。次はマイラインの飛び込み営業。こちらは完全に歩合制で、最後は給料が3万5000円でした。このときは2人目も生まれていて、まさに貧乏子だくさんです。

【田原】魚の仕事をすればいいのに。

【右田】そうなんです。さんざん迷走したあげく、30歳のときにようやくそう気づきました。ここから巻き返すには水産の仕事しかないと思って、大阪の淀川区で小さな居酒屋を始めました。魚がメインの店で、店員は私と妻、あともう1人の計3人です。

【田原】料理はできたの?

【右田】捌くのは得意でしたから。ただ、料理はよくわからなくて、当時は客席から見えないようにカウンターに料理雑誌を置いて、それを見ながらつくってました。それでもお客様がけっこう来てくれて、売り上げは1日5万~7万円、月で150万円くらい。3人でやる店としては上出来で、ようやくここで人並みに稼げるようになりました。

■居酒屋の人気メニュー「鯖寿司」に全力投球

【田原】右田さんはいま、さば料理専門店「SABAR」を展開している。居酒屋から業態転換したんですか。

【右田】まずその前に鯖寿司の販売を始めました。オーストラリアで工場長をやっていたとき、社長から「オーストラリア人はしめ鯖を食べない。こちらの人が食べられる鯖を開発しろ」と指令が出て、研究したことがあったんです。そのときの知識を使って店で鯖寿司を出したら、妻が「あなたの料理で一番おいしい」とほめてくれた。

【田原】普通の鯖寿司とどう違う?

【右田】一般的な鯖寿司は押し寿司で角ばっていますが、うちのは丸くて炙ってある。また、臭みを消すためにご飯の中にショウガとゴマを入れています。これが好評だったので、昼間に鯖寿司のデリバリーを始めました。

【田原】売れたの?

【右田】配達のバイクを「サバイク」と名づけて鯖仕様にしたら、関西の人気ローカル番組に取り上げられまして。それで注目を集めるようになって、1年後には居酒屋を人に任せ、自分は鯖に集中するようになりました。そのころにはスーパーでの催事販売を始めて、その翌年の2008年には百貨店に常設店をオープン。09年には2店舗増えて、計3店舗になりました。

【田原】鯖との出合いはわかりました。その後、どうして鯖専門の料理店に転換したの?

【右田】鯖寿司はそこそこ売れたものの、物販だけでは限界があるとも感じました。ブレークするには、もっと世界観をつくっていかないといけない。

【田原】どういうこと?

【右田】鯖寿司の老舗は、もう古いというだけで世界観があります。でも僕らは中途半端。そこで飲食店のほうは徹底的に鯖にこだわりました。メニューは38(サバ)種類で、席数も38、オープンが11時38分です。

【田原】資金はクラウドファンディングで集めたそうですね。

【右田】1店舗目は金融機関がお金を貸してくれなかったので、1788万円全額を集めました。当時はまだクラウドファンディングが珍しく、そこに鯖専門店という斬新さも加わったことで、マスコミにもドーンと取り上げていただけました。おかげで4カ月で資金は集まりました。

【田原】クラウドファンディングは、どんな利点がありますか?

【右田】大きいのはマーケティングです。鯖専門店は、それまではまったくない業態。それが本当にマーケットに受け入れられるのか、大企業なら事前にリサーチできるかもしれませんが、中小では無理です。しかし、クラウドファンディングで資金が集まるなら、一定の関心があることはわかる。また、開店前からファンができることも大きい。私たちが利用した仕組みは出資者に配当を出すので、出資してくれた方はおのずと僕らを応援して店に人を連れてきてくれたりします。

【田原】実際、専門店は大当たりした。いま何店舗ですか。

【右田】18年11月の時点で19店舗です。香港にも1店舗あります。社員は現在約50人です。

■「お嬢サバ」と「よっぱらいサバ」を自社で養殖

【田原】飲食店は成功した。いまはそれだけじゃなく、鯖の養殖にも乗り出したそうですね。

【右田】僕らはトロサバという大きな鯖を世に広げようとして料理店「SABAR」をつくりました。ただ、3年前に大きな鯖が全然獲れない時期があったんです。その状態が将来も続けば、商売が成り立ちません。安定的に事業を続けたければ、自分たちの好みに合ったおいしい鯖を自分たちでつくったほうがいい。そう考えて養殖を始めました。具体的には、2種類の鯖を養殖しています。1つは、JR西日本と提携して鳥取県で陸上養殖している「お嬢サバ」です。

【田原】陸上?

【右田】海洋深層水をくみ上げて、陸上で、無菌状態で育てます。鯖にはアニサキスという虫がつくことがありますが、無菌なので、“虫がつかない箱入り娘”の鯖が育つ。これは19年の3月8日に出荷式を行います。いまのところ2万匹を出荷予定です。

【田原】だから「お嬢サバ」ね。もう1つは?

【右田】福井県小浜市で育てている「よっぱらいサバ」です。小浜市は、かつて日本海の海産物を京都に運ぶ「鯖街道」の起点でした。一方、出口に当たる京都出町柳には、松井酒造という酒蔵がある。そこで、小浜でつくった酒米を京都に運び、それで日本酒をつくり、そのときに出た酒粕を小浜に戻して、畜養する鯖のエサに混ぜる。酒粕で育つから、「よっぱらいサバ」です。こちらも18年度中に1万匹の出荷を計画しています。

【田原】今後は天然より養殖ですか。

【右田】方向性はそうです。この2つの鯖に加えて、いま静岡県の熱海と伊東でも完全養殖をスタートさせようとしています。僕らが目指しているのは、飲食業のSPA。自分たちでつくったものを自分たちで販売して、お客様のニーズをくみ取ったうえで、また生産側に戻していく。そんな仕組みをつくりたいです。

【田原】右田さんが成功すれば、漁業も盛り上がるかな。

【右田】実際に養殖に関わってみて、漁業の世界は所得が低く、後継者がいないという現実を目の当たりにしました。この問題を乗り越えていくために、消費者参加型の「クラウド漁業」ができないかと模索中です。たとえば、世の中にある共通ポイントを使って消費者がスマホでエサを買い、魚の成長を見届け、出荷されたものを食べられるモデルができたら面白い。漁業者だけが漁業をするのではなく、消費者が一次産業に関わり、リスクを取って応援していく。そんな世界ができれば、漁業も活性化するのではないでしょうか。

【田原】わかりました。頑張ってください。

■右田さんから田原さんへの質問

Q. 日本の水産業、どうなりますか?

僕は専門家じゃないから、具体的なことは何も言えません。ただ、昔は普通に食べていた魚がどんどん獲れなくなり、高価になったり、輸入物にとって代わられたりしている。僕は鯖なんていくらでも獲れるものだと思っていましたが、もはや鯖でさえ安心していられないと聞いて、今日は本当に驚きました。持続可能性という意味で、日本の水産資源が厳しい局面にあることは、もはや間違いないのでしょう。

天然物が獲れなくなるとしたら、今後は養殖に頼るしかありません。右田さんは自分を「根性なしの小ヤンキー」と言っていましたが、養殖産業の立ち上げについては、腹をくくってやってもらわないといけない。大いに期待しています。

田原総一朗の遺言:おいしい養殖魚に期待!

(ジャーナリスト 田原 総一朗、鯖や 社長 右田 孝宣 構成=村上 敬 撮影=今村拓馬)

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