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"一生に一度"で五輪ボラに参加する大学生

プレジデントオンライン / 2018年12月18日 9時15分

2018年09月26日、2020年東京五輪・パラリンピックのボランティア募集が始まった(写真=時事通信フォト)

2020年東京五輪には約11万人のボランティアが必要とされている。その主力と見込まれているのが大学生だ。国際基督教大学の有元健准教授が大学生にアンケートしたところ、5割程度が参加に否定的だった一方、3割程度の学生は「一生に一度」などと肯定的だった。有元准教授は「五輪は何となく『ニッポンの私たちのイベント』として知覚されてきたが、冷静に考えたほうがいい」と指摘する――。

■大学生にボランティアへの賛否を聞いた

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私は東京オリンピックのボランティアに関して参加に反対である。Twitterでボランティアに関連したツイートを度々見たが、ブラックだという旨の内容が多くて参加しようという気にはなれなかった。

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東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(以下2020東京大会)のボランティアについて投げかけた私の質問に対し、ある学生はこのように答えた。11月21日、募集開始から2カ月足らずで、組織委員会は大会ボランティアの応募者が目標の8万人を突破したと発表した。

募集に先立ち文部科学省とスポーツ庁は、全国の大学などに開催期間にあたる2020年7~8月の授業や試験の日程を柔軟に調整するようにとの通知を行った。それに呼応して明治大学や国士舘大学などすでに授業日程の変更を発表した大学もある。1日8時間を10日間以上という条件でのボランティアの担い手として、大学生たちはオリンピックのオール・ジャパン体制にとって貴重な人材なのだ。だが当の大学生の気持ちはいささか複雑なようである。

ボランティアをめぐる学生たちの声を知るために、筆者の勤務する国際基督教大学(ICU)と、非常勤を務めている大学で調査を行ってみた。ICUでは2人の肯定派の学生および3人の否定派の学生とともにディスカッションを行った。また非常勤を務める大学では大人数のクラスで自由記述のアンケート調査を行った。その結果分かったのは、ボランティアについて否定的な学生が多数派であるということ、またオリンピックというイベントに関わることをめぐって学生たちの中には大きな認識の違いがあるということだった。

なぜ無償で働かなければならないのか

まずは、多数派であるボランティアに否定的な学生たちの意見を考察してみたい。非常勤を務める大学でのアンケートでは有効回答240名中135名(約56%)が否定的な意見だった。特徴的なのは、多くが2020年大会ボランティアの条件面を批判していることだ。

1日8時間を10日以上、炎天下での作業、交通費・宿泊費が支給されないこと、さらに外国語などの能力が要求されること。そうした条件に対しては多くの学生が不満を表明していた。また、オリンピックが商業イベントであるという認識も強く持っており、なぜ企業が利潤を上げるにもかかわらずほぼ無償で働かなければならないのか、という批判が多く見られた。

参加しようと考えていましたが要項を見てやめました。理由は不当に使われている感が強かったからです。

私はオリンピックのボランティアはブラック労働であり、やりがい搾取であると考える。なぜなら東京オリンピックは非常に大きな商業イベントであり、スポンサーの収入が多いはずであるのにもかかわらず、この大きなイベントを支える人々は無償で働くということが問題であると思うからだ。

本間龍さんの『ブラック・ボランティア』を読んで、上の奴らのために何で自分が暑い中8時間もアリみたいに働かなきゃいけないんだと思いました。

災害救援や地域活性化のボランティアは無償でやっても良いと思えますが(実際にNPO法人のボランティア団体に所属しています)、オリンピックのボランティアには給料が発生してもおかしくないレベルの労働だと感じます。

■五輪ボラを「労働」と捉える学生たち

こうした学生たちの多くは独自にオリンピック・ボランティアに関する情報に接していた。とりわけテレビやネットニュース、SNSを介して批判的な意見が流通していたことは彼らに少なからず影響を与えていたようだ。否定派の多くがネット上で話題となった「やりがい搾取」や「ブラック・ボランティア」という言葉を用いていた。

また注目すべきなのは、そうした反対派の学生たちが今回のボランティアを労働として捉えているということだ。労働であるからにはその条件が適正なのか、そしてそこに十分な対価があるのかという基準で是非が判断される。そこには「ブラック・バイト」や「ブラック企業」といった、学生たちが現在経験しているか、あるいは今後経験するかもしれない搾取への不安がある。そしてその不安は、自分たちを巧みに搾取しようとする存在(東京都、政府、企業)への批判的態度を育んでいるようだ。

口をそろえて「一生に一度」

一方、ボランティアに肯定的な学生たちはどうであろうか。

アンケート調査ではボランティアに肯定的な学生は78名(32.5%)だった。またそのうち10名が留学生(全14人)だったことは、今回の組織委員会の発表内容(外国籍の応募者が44%)とも親和性がある。「東京2020大会のボランティアになって、中国語・英語・日本語を活用して、さまざまな国から来る外国人観光客を手伝うことが良い社会経験になると思います」(中国人留学生のコメント)というように、留学生や帰国生たちは自分の国際経験を生かせるチャンスとして、ボランティア参加に前向きな傾向が強く見られた。

肯定派の多くの学生が2020年大会を国際交流・異文化交流の機会として捉えていたが、さらに特徴的だったのは、ほぼ皆口をそろえて「一生に一度」というフレーズを用いていたことだ。

たとえ、やりがい搾取と言われているとしてもオリンピックが母国で開催されることは人生で一度しかないかもしれませんし、何らかの形で関わりたいと思っている人は少なくないと思います。待遇面がよくなかったとしても、人生経験としてやっていいと思います。

次、東京でオリンピックやるときは自分は死んでるかなって、一生に一度って考えたら、やらないで後悔するよりも、やって後悔したほうがいいかなと。

■「そんなに愛国心はない」

しかしこうした回答の背景に必ずしも日本を誇りに思う意識、いわんやナショナリズム感情があるわけではない。ボランティアの意志と国民意識は結びついているかという質問にICUの学生たちは次のように答えた。

そんなに愛国心はないです。自分の生まれた国で、今住んでいるけど、日本バンザイみたいなのはないですね。せっかくオリンピックやるなら経験としてできるのは今回だけだし。もてなしたいというよりは、ただ自分で経験したい。

(ボランティアの経験に)「日本人として」っていうのは私の中ではあまりないです。

■「私の物語」としてのオリンピック

学生たちのこうした意識をうまく説明しているのが、東京大学でボランティア研究を行っている仁平典弘氏である。彼は1964年の東京大会と今回の東京2020大会における国民の動員を比較して、64年には戦後復興を遂げた姿を世界に示すという国家的な大きな物語があったが、今回についてはそうした動員の大きな物語は見失われ、自分の語学力を試すとか、ただ大きなイベントに参加したいといった“個人の小さな物語”が集積されていくのではないかと分析している(※1)。

(※1)仁平典宏・清水諭・友添秀則「座談会:ボランティアの歴史と現在-東京2020オリンピック・パラリンピックに向けて-」『現代スポーツ評論』37号、2017年。

まさしく仁平氏のいうように、参加を表明している学生たちにとって、今回の東京大会は「ニッポン」というナショナルな物語ではなくて、自分の人生の特別な時間、つまり「私」の物語の1ページとして位置づけられているようだ。そして組織委員会によるボランティア募集の呼びかけも、そうした小さな物語に訴えている。そこには「二度とないチャンス」「一生に一度」「新しい自分」「感動」といった言葉がちりばめられている(組織委員会HP)。

外国からの選手や観光客だけでなく新たな自分にも出会えるチャンス。ある学生は、このようなイベントにタダで参加できる喜びを表明さえしていたのだ。それは「労働」とは対極的な認識である。

五輪の最も強力な「政治性」

さて、学生たちのこうした意見の分断からオリンピック・ボランティアについて評価してみたい。そもそも今回の東京大会は二つの理由から批判されるべきだと私は考えている。一つは政治的な側面だ。スポーツ社会学者の佐伯年詩雄氏は、五輪の最も強力な政治性は祝祭の力によって現状の政治体制が肯定されることだという(※2)。

(※2)佐伯年詩雄「現代オリンピック考――モンスタービジネスに群がるビジネスと政治」、『現代スポーツ評論30』2014年。

開催決定後、シンクタンク森記念財団の理事を務める市川宏雄氏は大会招致の成功が「安倍首相を中心とするアベノミクス推進派」の勝利であったといい(※3)、同理事である竹中平蔵氏は同大会を「アベノリンピック」と呼んだ(※4)。彼らはオリンピックの成功によって安倍政権が戦後最長の政権になるというが、これは現状肯定の政治学と呼べるだろう。

(※3)市川宏雄『東京五輪で日本はどこまで復活するのか』、メディアファクトリー新書、2013年。
(※4)竹中平蔵(編)『日本経済2020年という大チャンス!』アスコム、2014年。

■社会に「例外状態」が生まれる

もう一つは経済的側面である。アメリカの社会学者ジュールズ・ボイコフはオリンピックと資本主義の特殊な結びつきを「祝賀資本主義」という概念で分析している(※5)。オリンピックのようなメガ・イベントの開催が決まると社会にある種の「例外状態」の雰囲気が生み出され、その祝賀のためであれば普段では認められないような政策が実施され、公金によって特定の民間企業がリスクを負わずに莫大な利潤を得るような状況が生み出されるという。

(※5)ジュールズ・ボイコフ『オリンピック秘史』早川書房、p.198。

2020年大会では組織委員会が資金不足に陥った場合に東京都、そして最終的には国が補填するということになっているし、当初は1,500億円と見積もられていた国家の大会関連支出が、2018年10月段階ですでに8,000億円以上支出されている(※6)ことを考えても、このボイコフの議論は的を得ている。

(※6)会計検査院「東京オリンピック・パラリンピック競技大会に向けた取組状況等に関する会計検査の結果について」2018年10月4日。

■「ニッポン」に代わるレトリックの登場

この現状肯定の政治学と祝賀資本主義とをつなぎ合わせるレトリックが「ニッポン」だった。2020年大会に向けては招致段階からスローガンやプロモーション映像、CMなどで「日本」ではなく「ニッポン」という言葉が多用されてきた。「ニッポン」という言葉は、東京という具体的な地理を包み隠し、情緒的なコミュニティー感覚を呼び起こしながら国民を巻き込み、現実の政治問題や個別具体的なオリンピック関連の受益者を私たちの目から遠ざけてきた。

オリンピックは何となくニッポンの「私たちの」イベントとして知覚されてきたのである。しかしボランティア募集をめぐって新たなレトリックが登場した。上述のように、「一生に一度」、「新しい自分」である。これはオリンピックに主体的に関わることを導いているようでいて、その実、オリンピックの構造的な諸問題から目を背けさせると同時にその労働力を提供させる、魔法の言葉ともいえる。

なぜ2020年に3兆円を超えるともいわれるコストをかけてまで東京にオリンピックを招致する必要があったのか、その受益者は誰なのか、そこで見落とされる問題はないのか……。いやもうそんなことは考えずにその時を一人一人の良い経験にしましょう、ということだ。

オリンピックの歴史に多種多様な人々の交流があったこと、そして多くの平和的共存の瞬間があったことは事実である(※7)。そこに一人の「私」として関わっていきたいという思いは理解できるし、その経験が後の社会貢献意識に結びつくこともあるだろう(※8)。

(※7)清水諭編『オリンピック・スタディーズ』せりか書房、2004年。
(※8)石坂友司「オリンピック・パラリンピックのボランティアは何をもたらすのか」、Yahooニュース2018年5月24日。

だが今回のボランティアが、現状肯定の政治学そして祝賀資本主義に結びついたオリンピックというイベントの「あり方」を支えることは否定できない。つまり、多くの人々の善意や自己実現の物語によって、オリンピックをこういうものとして続けていくことが肯定されてしまうのだ。今回のボランティアをめぐる一番重要な問題はそこであり、多数派の学生たちの批判的な態度はそうした状況に対する抵抗なのである。

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有元健(ありもと・たけし)
国際基督教大学教養学部 アーツ&サイエンス学科 准教授
1969年生まれ。ロンドン大学ゴールドスミス校社会学部博士課程修了。社会学Ph.D。現代社会の身体文化、特にスポーツをテーマにして、人々のアイデンティティーの構築を研究している。専門はスポーツ社会学。著書に『オリンピック・スタディーズ:複数の経験・複数の政治』(共著)、『大衆文化とメディア』(共著)、『耳を傾ける技術』(翻訳)、『メディア・レトリック論-文化・政治・コミュニケーション』(共著)など。

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(国際基督教大学教養学部 アーツ&サイエンス学科 准教授 有元 健 写真=時事通信フォト)

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