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つまらない芸人ほど"素人ウケ"で満足する

プレジデントオンライン / 2018年12月15日 11時15分

毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)氏。

芸は刹那である。“上沼恵美子批判”で窮地に陥る芸人がいるように、一瞬のウケを狙うだけの言葉は自身に鋭く返ってくる。一方で、しぶとく生き残っている芸人は、ときに深みのある言葉をぽろりと吐く。田崎健太氏の著書『全身芸人』(太田出版)より、毒舌で人気の芸人・毒蝮三太夫のエピソードを紹介しよう――。

■「喋り」こそ、最高の娯楽

82歳の毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)は自分の芸――話すということをこう定義する。

「喋るっていうのは、人間に与えられた最高の娯楽じゃないの? 俺は下町、貧乏人のせがれだからね。金がないから映画館にも行けない。そういう点で喋るというのは大切だったんだ。俺の友だちに遊郭の息子がいたの。女郎屋(じょろうや)の息子。そいつが女郎屋の金をくすねて、浅草に行って鰻(うなぎ)をおごってくれた。俺、おごってくれと言うのは嫌なの。俺におごるといいことあるよって。相手が俺におごった上で感謝する。逆転の発想だよ。そいつが喜んで連れて行ってくれるから、天ぷらでも刺身でも鰻でも食べられた」

毒蝮三太夫こと石井伊吉は1936年3月に大阪市阿倍野で生まれた。一年ほどで一家は品川区中延(なかのぶ)に転居。そこで戦争が始まった。戦後、一家は現在の台東区竜泉に引っ越している。

「浅草のはずれの竜泉寺だよ。竜泉寺といえば樋口一葉の『たけくらべ』だよ。俺の家も一葉が営んでいた雑貨屋のすぐ近くだった。吉原の遊郭の裏だよ」

都電の三ノ輪橋と入谷の中間ほどに当たる。毒蝮はここで9歳から14歳になるまで過ごした。この竜泉寺での生活が、彼の芯ともいえる部分を形づくることになった。

■ざっくばらんな下町の言葉

遊び場の中には「お酉さま」と呼んでいた鷲(おおとり)神社があった。境内で野球をしていると、裏の病院に入院している女性が格子のついた窓から話しかけて来たことがあった。

「大きくなったら遊びにおいでって。着物の前をはだけてね。何のことかわからなかったよ」

恐らく遊郭で精神を病んだ女性が入院していたのだろう。母親のひさが営んでいた「たぬき」という甘味喫茶にも遊郭の女性たちが来ていた。

「お女郎さんがよくお汁粉を食べに来ていた。お袋は話し好きだから、よく親身になって話を聞いていた。その頃にはどんな仕事なのか察しはついていたけど、下賎(げせん)な商いだなんて思わなかったよ。生きるために必死だったんだから。上の兄貴とお女郎さんだった女性の結婚も持ち上がったぐらい」

通っていた東泉小学校の同級生は、下駄屋、魚屋、八百屋など自営業の子どもたちばかりだった。

「親が勤め人っていうのはほとんどいなかったね」

界隈の言葉遣いも中延とは違っていた。

「下町の言葉だよ。おばあさん、じゃなくて、ババアってみんな呼ぶ。ざっくばらんだよね」

■談志に誘われて、「笑点」の座布団運びに

中学生時代、友だちについて劇団のオーディションに行き、彼だけが合格。その後、学校に通いながら俳優と活動するようになった。

しかし、俳優としては大きな成功を収めることはなかった。

「映画は年に二、三本、テレビにも出演したけど、回ってくるのはチンピラ役とか御用聞きの役。こんな顔だからね、運動部のキャプテンってのもよくやったな」

頂点は特撮シリーズの『ウルトラマン』出演だった。同じ時期、友人の故・立川談志に誘われて『笑点』の大喜利の“座布団運び”にもなった。しかし、談志が選挙出馬により降板。毒蝮も後に続いた。

そんな彼が、天職とも言うべき、ラジオに出会ったのは、69年のことだった。TBSラジオの『ミュージックプレゼント』という帯番組に抜擢されたのだ。

まだまだレコードは高価な時代だった。毒蝮がスーパーマーケット、企業、工場などを訪れ、リクエストされた曲をスタジオから掛けるという番組だった。ほぼ毎日、彼は午前10時半から11時までラジオ中継車で現場を回った。

当初、戸惑いがあったと振り返る。

「スタジオのマイクでラジオドラマを収録するのは慣れていたけど、現場でマイクを人に向けて生放送するのは勝手が違う。練習はなしでいきなり本番。最初の中継は今も覚えている。練馬の工場だった。十月でもう涼しいはずなのに、汗びっしょり。マイクを持つ手も震えが止まらなかった」

■“このババア”が生まれた理由

話す内容もありきたり、だった。

「みなさんお元気で何よりですね、おじいさん、どちらからいらっしゃったんですか、とか。だって俺は元々俳優だよ。落語家のように小咄のネタが沢山あるわけじゃない。浅草にいたときの同級生から“喋りがお前らしくない”って言われたこともあった」

自分らしい喋りとは何なのか、噺家に負けない話術はあるのか、毒蝮は袋小路に入っていた。このままでは、いつ首を切られるかもしれない。そんな不安な日々が四年ほど続いた。

1973年8月、母親を亡くしている。75歳だった。

「母親は俺のことを本当に可愛がってくれた。亡くなって、心にぽっかり穴が開いたような状態だった。それでも、いつも通りラジオの生放送はある。その日の現場でも、死んだお袋と同年代の年寄りがいて、元気にお喋りしているんだ。お袋の顔が脳裏に浮かんで、“俺のお袋は死んだのに、このババアは元気だな”と思わず言っちまったのが“ジジイ、ババア”の始まりだ。お袋のことをよく“たぬきババア”って呼んでいた。おじいさん、おばあさんじゃなくて、ジジイ、ババアじゃないと俺らしくない」

放送後、TBSラジオに多くの抗議の電話が来た。

■「無から有」をつくる商売の本質

「番組のディレクターが、“まむしさんには悪意はなく、ババアは愛称のつもり。下町では日常の挨拶です。全てを聴いて判断して頂ければ”と答えてくれた。番組のスポンサーも俺を守ってくれた。ありがたいよね」

そこから毒蝮は自分なりの手法を確立することになる。

「ジジイ、ババア、くたばり損ないって辺り構わず言っているわけじない。そう言われて笑って受け流しそうな人、口答えできそうな人をちゃんと選んでいる。本当に弱い人、元気のない人には言わないよ。弱い人を思いやるようにっていうのが、お袋の教えだったからね。俺はあまのじゃくなんだ。普通ならば人に嫌われるような言葉を掛けて、相手に笑ってもらい、また俺に会ってもらいたいと思ってもらえれば面白いじゃないか」

毒蝮は自分の話芸をこう分析する。

「俺たちというのは、ある意味人から妬まれる商売なんだ。無から有を作る。百円のところを千円取るようなものだろ? おはようございますって言うだけでも、なんか味があるとか、なんか面白いとかがあって、聞いちゃうよねってならないといけないんだ。よく“横断歩道を渡ってください”って言うだろ。それだけじゃ面白くない。誰も聞きゃしない。だから俺はこう付け加えるんだ。“横断歩道を斜めに渡る。これが近いのよっていうババアがいる。でも、それはあの世への近道だよ”って」

■同業にウケる際どさとは

彼の言葉はぴりりとした毒がある。しかし、決定的に傷つけることはない。その差配が絶妙である。

田崎健太『全身芸人』太田出版

「紙一重のところが聞いていて面白いんだろ? ここまで言ったら社会問題になるかな、客が怒るかなという、ヤジロベエが面白いんだ」

声だけが頼りのラジオは、普段隠している話し手の奥底が露わになりやすい。

利口が鼻につく人間、言葉遣いが丁寧でも高みから話をする人間は避けられる。毒蝮の番組が長年続いてきたのは、彼の温かさが伝わっているからだろう。

しかし、媚びない。

彼が常に頭に置いているのは、芸名「毒蝮三太夫」の命名者である、立川談志の視線である。

「際どくないと同業者が俺のこと、気にならない。素人は甘いんだ。談志は同業者に受けない奴は嫌っていたね。素人に受けようとする奴はせこいってね。雑誌でも芸能人でも同業者の評判が大事なんだ。素人を狙っている奴は飽きられる」

長く続けるには何が必要か。毒蝮の言葉は腹にずしりと来る。

(ノンフィクション作家 田崎 健太 撮影=関根虎洸)

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