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"ウソっぽいネタ"の拡散が気持ちいい理由

プレジデントオンライン / 2018年12月21日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/sharpshutter)

なぜ正しいニュースよりも、「ウソっぽいネタ」のほうが、より強く拡散してしまうのか。国際基督教大学教授の森本あんり氏は「荒唐無稽な話を広める人は、内容が事実でなくても構わないと思っている。なぜなら自分が納得できることが正しいと捉えているからだ。その『自分は正しいことを言っている』という意識は、酔いしれるような強い快感をもたらす」と分析する――。

■人を惹きつける「陰謀論」

世界の各地で、ポピュリズムが急速に政治的な発言力を増している。ポピュリズムの陰には、しばしば陰謀論も見え隠れする。アメリカでは、陰謀論を唱える「QAnon(Qアノン)」という不気味な集団がトランプ支持者たちの間で広まっている。日本では、ブログの呼びかけを背景に「反日」「在日」と決めつけられた弁護士の懲戒請求が各地の弁護士会に出された事件も発生した。陰謀論の素地や特徴はそれぞれ違っていても、彼らの掲げる主張はみな単純でほとんど荒唐無稽である。

だがそれでも、こうした主張は人びとを惹きつける強い魔力をもっており、いったん信じた人はその筋書きを熱狂的に支持するようになる。なぜ人びとは、それほどまでに陰謀論に魅せられてしまうのだろうか。そして、なぜ「事実」は、それらの人びとの誤った思い込みを正す力をもたないのだろうか。

■交通系ICカードの金額をチェックする人はいない

宗教社会学の用語で言うと、これは「信憑性構造」の問題である。それぞれの文化や社会には、誰もが当然と思って疑わない常識や前提というものが数多く存在している。それらは、正常に機能している間は誰の意識にも上らない。自らの存在を意識させずに機能しているものこそ、その社会の「正統」なのである。

ところが、いったんそれが問題となって人びとの意識に浮上すると、この認識構造に大きな変化が現れる。潜在していたものが顕在化し、それまで気がつかなかった力が自分を含むすべてのものを支配していたことに思い至ると、システムそのものに対する疑念が広がり、一挙に陰謀論の土壌ができてしまうのである。いわば、パソコンに不具合を起こした原因が個々のアプリケーションではなく、その土台となっているOS(オペレーティングシステム)だった、ということを発見した時のようなものである。

たとえば、われわれは電車に乗る時に交通系ICカードを使うが、改札口を通るたびに差し引かれる金額が本当に正確かどうかをチェックする人はいないだろう。これは「まさか鉄道会社が一回ごとに数銭をかすめ取るようなことはしないはずだ」という前提に支えられて乗車しているからである。

われわれの日常生活には、このような疑われざる前提が無数に存在しており、それが全体として社会の信憑性構造を形作っている。その一つ一つを疑わなければならないとしたら、まことに住みにくい社会となってしまうだろう。

■人が求めるのはカネだけではない

宗教学的に見ると、ポピュリズムや陰謀論には人間の本来的な欲求が関わっている、と言うことができる。このことを、日頃われわれがよく使っている、ある経済用語の歴史を振り返ることで考えてみよう。

英語に“interest”という言葉がある。これは「利子」「利潤」などという意味と、「興味」「関心」という意味とをもっている。自分がもうかる話には、誰でも興味や関心をもつものだから、この2つの意味がつながっていることは理解できる。

しかし、この言葉にはもう少し深い意味もある。『オックスフォード英語辞典』によると、“interest”の最初の用例は15世紀半ばにさかのぼり、それは「あるものに客観的に関わらしめられていること」(being objectively concerned)という意味であった。つまり「何かに興味をもつ」という認識のあり方ではなく、「その人が対象と関わりをもち、対象に参与する」という存在のあり方を示す言葉なのである。

どのような関わりか。同辞典によると、その内容には「霊的な特権」(spiritual privileges)が含まれる。たとえば17世紀のピューリタン神学者が「神の恵みにインタレストをもつ」と言えば、それは単に神の恵みに興味があって眺めている、という意味でなく、自分という存在がその恵みにあずかる者となる、という意味である。つまり、「インタレスト」は、単に「経済的な利益」だけでなく、個人の「物質的な幸福」を越えた、精神的な参与を含む願望を意味していたのである。

■ポピュリズムに浸かる人は「つながり」がほしい

今日のポピュリズムにも、同じような「インタレスト」がある。ポピュリズムに浸かっている人びとは、何を求めているのか。それは、参与である。自分が属する社会の一部として存在することである。彼らは、単に物質的な利害を求めて声をあげているのではない。ポピュリズムが前世紀に中南米や東欧で始まった時にはそうだったかもしれないし、今日でも経済的な関心は重要さを失ってはいない。

だが、今日のポピュリズムをそれだけで理解することはできない。人びとが求めているのは、階級的な利益ではなく、もう少し精神的な利益である。それは、自分の住む社会に有意義に存在することであり、そう認められることである。自分という存在の社会的な意義を確認したいのである。それは、人間としてごく当然の欲求かもしれない。

人は誰でも、金だけでは幸福になれない。人とのつながり、社会とのつながりを通して、自分という存在が、何らかの意味をもち、意義をもっている、ということを確認したいのである。そのために声を上げる。選挙の投票でも、ネット空間でも、これは同じである。

■「正しい」が与えてくれる快感

ポピュリズムがはやるのはなぜか。一口に言えば、それは「快楽」をもたらすからである。そこに独特の「情熱」を注ぎ込むことができるからである。ネット上で、いわゆる「炎上」が起きる時、他人に批判を浴びせかけるのも、同じ理由である。そこには、ある種の高揚感が漂っている。その高揚感は、「お祭り」と言われるように、宗教的な祝祭の高揚感である。

「悪いことをした」「間違ったことをした」と思われる人に容赦のない批判を浴びせるとき、自分は「正しい」側に立っている。自分の怒りは正当だ。これは公憤であり義憤だ。あの連中はそれだけのことをしたのだから制裁を受けて当然だ、という認識である。これは酔いしれるような強い快感をもたらす。人は正義を求める。というより、正義を愉しむ。この快感は、単に金銭的な利害という視点では捉えることができない。むしろ、多少の代価や犠牲を払ってでも、その快楽を求めるのである。

■「フェイクニュース」の種は昔からあった

昨今の選挙や投票では、世界各地で思わぬ結果が出て人びとを驚かせた。高所得者への減税と福祉予算の削減を唱える政治家が、なぜか低所得者の支持を集める。将来世代にツケを回すような政策を掲げる政治家が、なぜか若者の支持を受ける。「有権者は合理的な判断ができない」というリベラルな評論家の嘆きが聞こえてきそうである。

しかし、こうした不思議は、今に始まったことではない。戦後すぐに書かれたハンナ・アレントの『全体主義の起源』には、こういう一言が出てくる。「大衆にとって、階級や国民という総体的利害は存在しない。」つまり、投票をする諸個人にとって、自分の属する階級や国家というくくりは、大きすぎて自分の利害とは直接に結びつかない。だからいくら階級的な利害を訴えても、大衆には説得力がない、というのである。

アレントは、「事実というものは、もはや大衆への説得力を失ってしまった」とも書いている。われわれは今になって「ポスト真実」だ「フェイクニュース」だと騒いでいるが、それはすでに第二次大戦前に始まっていた大衆化の帰結だ、ということになる。

■「一貫した世界観」がほしい人たち

では、事実でなければ、人びとは何を求めているのか。アレントによれば、それは「一貫した世界観」である。身の回りに起きる個々のばらばらな出来事を、自分が納得のいく仕方で説明してくれる世界理解の方法である。

かつてそれは宗教であった。たとえ自分が苦難に遭っても、神や仏のみこころの中では「この不条理や苦しみに何らかの意味があるのだろう」と考えることができた。しかし、既成宗教が弱体化した今日、それに変わる説明原理を提供してくれるのが陰謀論なのである。

一見無関係と思われるような遠くの出来事のあれこれは、実はみなつながっているのだ、その背後にはこういう原因があって、これがすべての現象を動かしているのだ、という説明原理がそこにある。自分が失業して苦しんでいることと、中国やメキシコで起こっていることが、実は深いところでつながっている、それは誰かの陰謀なのだ、という一貫した説明原理である。

それが事実かどうか――それはあまり重要ではない。人は、正しいから納得するのではない。納得するから正しいのである。たとえ事実がそれと違うことを指し示しているように見えても、それはうわべだけのことである。自分は、より深いところにある、歴史の必然性を知っているのだ。いったんそう信じた人は、もはやどんな反証も受け付けない。まさに宗教的な原理主義に特徴的な信念形態である。

実は、このように信じさせることは、ナチズム以来の大衆プロパガンダの常道手段であった。ヒットラーの『わが闘争』を読むと、彼がアメリカの大衆宣伝の手法からいかに多くを学んだかが、彼自身の言葉で雄弁に書かれている。ナチズムの手法は、アメリカ生まれなのである。

■「納得できるか」が事実より大事

森本あんり『異端の時代――正統のかたちを求めて』(岩波新書)

ポピュリズムもまた、「移民」や「テロ」という簡単な原理で、身の回りの世界を一挙に説明しようとする。「ワシントンの政治家」「ウォール街の金融家」などが、重要なキーワードだ。ポピュリストは、こうした感情的にチャージされた用語を用いて、人びとの暮らし全体をわかりやすく説明してくれるのである。ポピュリズムの魅力は、このような疑似信仰ないし代替宗教の力に他ならない。

昨今はフェイクニュースに対応して、「ファクトチェック」の必要が論じられるようになった。だが、特定の世界観に生きる人びとにとって、あれこれの「事実」は結局さほど問題にならない。それらの全体を通して、ある種の納得感が得られるかどうか――それが「事実」の判断よりも上にあるからである。

以前は、何が事実であるかは、新聞を読んだり本で調べたりすることで判断することができた。信頼できる組織による裏付けや、論理的な整合性などが、真偽の判断を支える合理的な手段だった。しかし今日、真理の最終審級は、各人が直接心の内に感ずるものでしかない。宗教学の用語では、この直接性を「神秘主義」と呼ぶ。現代ポピュリズムの本質はここにある。これ以降の詳細は、拙著をご覧いただきたい。

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森本あんり(もりもと・あんり)
国際基督教大学 学務副学長・教授
1956年神奈川県生まれ。プリンストン神学大学院博士課程修了(Ph.D.)。専攻は神学・宗教学。著書に『アメリカ的理念の身体――寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社)『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)『宗教国家アメリカのふしぎな論理』(NHK出版新書)ほか多数。

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(国際基督教大学 学務副学長・教授 森本 あんり 写真=iStock.com)

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