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日産のドンを敵に回した男の"地獄の日々"

プレジデントオンライン / 2018年12月28日 9時15分

2300枚のファイル(撮影=石橋素幸)

日産の「絶対的権力者」がその座を追われたのはカルロス・ゴーン氏が初めてではない。かつて自動車労連の会長として日産の経営を牛耳った塩路一郎氏という人物がいた。塩路氏のもとで、名もなき多くのミドルの人生が犠牲になった。元豪州日産社長の古川幸氏もその1人だ。古川氏が過ごした“地獄の日々”を『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)から紹介する――。

※本稿は、川勝宣昭『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■元子会社社長が過ごした地獄の日々

日産圏の労組である自動車労連の会長として23万人の頂点に君臨しながら、生産現場の人事権、管理権を握り、日産の経営を壟断(ろうだん)。生産性の低下を招き、コスト競争力でトヨタに大きく水を空けられるに至った元凶である絶対的権力者・塩路一郎を倒し、日産のゆがんだ労使関係を正常化させる――。

日産の広報室の一課長であった私が、同じ30~40代の同志の課長たちと打倒塩路独裁体制に向け、極秘で地下活動を開始したのは1979年のことだった。塩路一郎に関する情報を収集するなかで、私は1つ上の世代のある人物のことを知った。

元豪州日産社長の古川幸さん。塩路一郎の異常なまでの復讐心の的となったことで、日産での人生を奪われ、奈落の底へと突き落とされた経験の持ち主だった。

古川さんの息子さんも日産に勤めていた。地下活動を開始した翌年の1980年4月、私は息子さんを介して連絡をとり、面会を申し込んだ。そして、その地獄のような日々の話を聞き、塩路一郎という人間の恐ろしさに身を震わせることになる。

■「今すぐここへ奥さんを呼びなさい」

横浜に住む古川さんから、落ち合う場所として指定されたのは、港の見える丘公園のふもとにあるホテルのティールームだった。席について待っていると、1人の年配の男性が少し離れた席から私のほうをしきりに見ていた。そして、ふと立ち上がり、近づいてきて、「古川です」と名乗った。

私を観察していたのは、実は塩路側の回し者ではないか、確認したようだった。それほどの警戒ぶりに驚かされた。

私は古川さんに思いのたけを語った。今の塩路体制が続く限り、日産に明日はない。これをなんとしても倒したい。それにはどう戦えばいいのか、塩路一郎をよく知る立場からアドバイスをしていただきたい。

まわりの耳もあるので、外では話せないことなのだろう。古川さんは私をご自宅へといざなった。

「君、今すぐここへ奥さんを呼びなさい。君は今、どんなに危険なことをやろうとしているか、わかっているのか。絶対やっちゃいかん。すぐ奥さんを呼ぶから電話番号を教えなさい。君にやめるよう、奥さんから説得してもらうから」

ご自宅に上がるなり、古川さんは目の色を変えて忠告し始めた。「いえ、やめるわけにはいきません」。私が決意を語ると、古川さんの奥さんまで出てきて、「絶対やってはいけません。主人がどれだけ大変な思いをしたか、ご存じですか」と、これまでの出来事をとつとつと語り始めたのだ。

■1年間続いた“座敷牢”での日々

以前、豪州日産の社長を務めていたとき、取材のため訪ねてきた新聞記者との間で自動車労連会長の話題になった。塩路一郎について若いころから知っていた古川さんは、何気なく、「あれはたいした人物ではありませんよ」と漏らした。ここから予想外の事態が始まる。

まもなく、豪州日産社長の職を解かれ、帰国命令が下った。

日本で待っていたのは、「人事部付」の辞令と人事部の部屋に置かれた机1つだった。仕事はいっさい与えられない。朝出社しても、誰からも声もかけられない。「ひと言も口を利くな」と部内で指示が出されていた。

何をするともなく時間だけが経過し、夕方になると退社する。やがて、精神状態が不安定になったのか、帰宅後、テーブルの角に額をガンガンと繰り返しぶつけ、血が流れてもぶつけ続けた。それはまるで自らの命を絶とうとしているかのようだった。

「そういう主人の姿を私は見ているんです。組合に刃向かうなど、お願いですからやめてください」

「いえ、もうやると決めました」

夫妻から必死の説得を受けても応じるわけにはいかなかった。夜も更けて終電もなくなり、その晩は泊めていただいた。

翌朝のことだ。

「これをあとで読んでください。誰にも見せたことがないけれど、あなたには渡しておきたい」

ご自宅を辞するとき、古川さんから、当時書いたという手記を託された。そこには、1年間も続いた“座敷牢”のような日々の壮絶な記録が、400字詰め原稿用紙16枚に手書き文字でぎっしりとつづられていた。

■部下もなく、仕事もなく、書類もなく

手記は、机1つだけを与えられた早春のころの回想から始まる。

部下もなく、仕事もなく回される書類も一枚も無い。

晴れた日には太陽の日射しがまぶしく私の沈む気持を鋭く奥底まで射し通した。明るい他人の笑顔が何故かうつろに遠くこだまし、人生に喜びも笑いも何処にも見当たらぬような目まいで、ボーッとした。

雨の日は、泣くに泣けない気持が往きも帰りも会社通いの重い足を、更に重くした。坐った会社の席での雨の一日は殊に長く、近くのビルの屋上に叩きつけられる雨足を飽きずに物悲しく眺めていた。

エリートコースの豪州日産社長から、一転、座敷牢の日々を強いられ、魂の抜け殻になった。それが、オーストラリアで古川さんが発したひと言を知った塩路一郎による報復だったことは、手記のなかで人事担当役員から聞いた話として示されている。精神的ストレスから胃潰瘍になり、足もしびれるなど、身体的にも異変が生じるようになり、通院しているうちに夏も終わった。

手記の記述は秋へと移る。古川さんは、人事担当役員から、日産を離れ、群馬県の小さな町にある、従業員40人のプラスチックメーカーの役員として出る案を提示された。

古川さんは長く従事した営業販売関係の仕事を希望したが、塩路一郎の意向により、自動車労連傘下の労組がある企業、すなわち、日産圏の販売会社などへ転じることはできないこと、そのプラスチックメーカーであれば、日産圏外なので、了解が得られたことが伝えられた。

それでも一縷の望みを抱いて面会を申し込んだ川又会長(当時)からも、こう言い渡されるのだ。

■息子を“人質”に取るかのような発言

「波紋を大きくする事は会社にとっても君個人にとっても得策ぢゃない。まして息子(長男)も日産にいるわけだから……。君一人が犠牲になったようで可哀相だが、だからといって(波紋を大きくすれば)鉄板の上で一人でやけどをして焼死ぬ丈だよ」

経営トップが部下に対し、その息子を“人質”にとるかのような発言をしたり、「鉄板の上で焼け死ぬのみ」と脅したりしてまで、承諾を求める。人間としての良心の判断よりも、塩路一郎との関係を優先させ、「早く出ろ」といわんばかりに、1人の人間を扱う言葉だった。

手記は、日産で自分の身に何が起きたかを書き残しておこうと思ったのだろう。最後は、不本意ながらも、与えられた次の仕事に向かおうとする思いをつづって終わる。

自分はいま揚げるべき凧を持っていない。しかし何かを揚げなければならぬ。
――そんな思いがやってくる。
凧に似たものを、
高く揚がるものを、
烈風に舞い狂うものを、
高く揚げなければならぬと思ふ。

曼珠沙華 ゆく雲遠く人遠く

■常軌を逸した塩路一郎の復讐心

川勝宣昭『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)

「あれはたいした人物ではありませんよ」のひと言を耳にして、相手から日産での人生のすべてを奪おうとする、常軌を逸した塩路一郎の復讐心。

その異常な要求を丸のみし、海外法人社長の座から窓際の座敷牢へと追いやったばかりか、労使関係を維持するため、古川さん1人をいけにえに差し出し、日産から追い出した経営陣の情けないほどの及び腰。

日産は病んでいるどころか、腐っている。古川さんの手記は私の胸に芽生えた義憤に火をつけた。人としての正義と尊厳をかけて、絶対に塩路一郎を倒す。

塩路一郎は異常な男だ。ならば、自分もこの男以上に異常にならなければ倒せない。これからはこのことを片時も忘れずにいよう。私は心に誓った。(文中敬称略)

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川勝宣昭(かわかつ・のぶあき)
経営コンサルタント
日産自動車にて、生産、広報、全社経営企画、更には技術開発企画から海外営業、現地法人経営者という幅広いキャリアを積んだ後、急成長企業の日本電産にスカウト移籍。同社取締役(M&A担当)を経て、カリスマ経営者・永守重信氏の直接指導のもと、日本電産グループ会社の再建に従事。「スピードと徹底」経営の実践導入で破綻寸前企業の1年以内の急速浮上(売上倍増)と黒字化を達成。著書にベストセラーとなった『日本電産永守重信社長からのファクス42枚』(小社刊)。『日本電産流V字回復経営の教科書』(東洋経済新報社)がある。

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(経営コンサルタント 川勝 宣昭)

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