年末風物詩「第九」にまつわる意外なウソ
プレジデントオンライン / 2018年12月29日 11時15分
※本稿は、かげはら史帆『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』の一部を再編集したものです。
■そもそも『第九』とはどのような曲なのか
『交響曲第九番』――今日では、クラシック音楽の代名詞として語られることの多い作品だ。ベートーヴェンが作った最後の交響曲で、クライマックスである第四楽章にオーケストラ、ソリスト、合唱団全員での合唱をともなう大作である。
謎めいた和音で幕を開ける第一楽章。速いスピードで疾走するスリル満点の第二楽章。うってかわって、ゆったりとした美しい曲調を奏でる第三楽章。そして、それまでの演奏を強い衝動でもって一緒くたに否定し、人類の喜びを歌い上げる第四楽章。フリードリヒ・シラーの詩『歓喜に寄す』を用いたこの有名な第四楽章はプロからアマチュアまで幅広く歌われており、日本でも演奏を聴く機会は多い。
■有名音楽家に関する新事実
世界中で親しまれる名曲『第九』だが、実は、その作曲者・ベートーヴェンにまつわるエピソードには疑わしい点が多い。伝記に書かれている挿話のいくつかは、“耳の病を乗り越えて『運命』や『第九』を作曲した偉人”というイメージを強化するためのフィクションにすぎないのではないか。
かねてから研究者の間でささやかれていたその疑惑が確信に変わったきっかけは、20世紀後半から本格化した「会話帳」研究であった。会話帳とは、聴覚を失ったベートーヴェンが、家族や友人、仕事仲間とコミュニケーションを取るために使っていた筆談用のノートのことで、ベートーヴェンの暮らしぶりや人となりを知るための重要な一次資料となっている。
しかし1977年の国際ベートーヴェン学会で、会話帳研究チームから、それまでのベートーヴェン伝が覆される新事実が発表される。会話帳のなかに、ベートーヴェンの死後、故意に言葉が書き足されている形跡を発見したというのだ。
■ベートーヴェンとの「会話」を改竄した秘書
その犯人の名は、アントン・フェリックス・シンドラー。ベートーヴェンの晩年に、音楽活動や日常生活の補佐役をつとめていた人物だ。1827年にベートーヴェンが亡くなったのち文筆活動に目覚め、1840年から1860年にかけて、全部で3バージョンの『ベートーヴェン伝』を書いている。
伝記というものは、おのずと書き手の性格やポリシーをあぶり出す。シンドラーの場合は、著者であると同時に、「ベートーヴェンの秘書」という伝記上のいち登場人物であるのでなおさらだ。
彼の自己描写にはどうにも誇張ぎみなところがあった。自らをベートーヴェンに献身する「無給の秘書」として描く一方で、ベートーヴェンの家族やほかの側近たちのことは、音楽家の人生をおびやかす俗物であるかのように悪しざまに書いている。うさん臭いと言わざるをえない。
■重要な音楽史『第九』の初演にまつわる嘘
会話帳研究チームによると、そのシンドラーが、自らに都合のよいベートーヴェン像を作り上げるために会話帳を改竄したというのである。そして、その改竄箇所の多くが、研究者や伝記作家らが重要な史実の証拠として引用してきた一次ソースだったのだ。
たとえば、『交響曲第九番「合唱」』の初演について。この大作の演奏会を成功させるべく、シンドラーは万事を投げ打って駈けずり回った。参加アーティストをベートーヴェンのもとへ斡旋したり、会場や日取りを選定したり。
しかし当のベートーヴェンは、自分に過度にのめりこむシンドラーのことを内心うっとうしく思っており、この初演が終わったら彼を追っ払おうと心に決めていた。そして初演が盛況のうちに終了したたった2日後、さっそくベートーヴェンはシンドラーに「おまえは演奏会の収益を盗んだ」と言いがかりをつけたのである。
このエピソードを、シンドラーは初演ではなく「再演」の後に起こったと改竄した。彼は伝記作家として、初演の感動を金銭トラブルの描写で穢したくなかったのだろう。
■「運命が扉を叩くのだ」と述べたというのもウソ
ほかにもシンドラーの改竄は数知れない。『悲愴ソナタ』をはじめとする、数々の音楽作品のテンポをめぐる議論。『交響曲第八番』の第二楽章が、メトロノームの発明者・メルツェルに贈った『タタタ・カノン』をもとに作曲されたという創作秘話。のちに「ピアノの魔術師」の異名で知られることになる少年フランツ・リストとベートーヴェンとの対面をめぐる交渉。
それだけではない。シンドラーが「平気で嘘をつく男」であることが、疑惑から事実となったいま、会話帳上の改竄のあるなしにかかわらず、彼の証言のすべてをいまいちど徹底して疑わなければならなくなった。
たとえば、ベートーヴェンが、『交響曲第五番』の「ジャジャジャジャーン」というモチーフについて「このように運命が扉を叩くのだ」と述べたというエピソード。あるいは、『ピアノ・ソナタ第十七番』について「シェイクスピアの『テンペスト』を読みたまえ」と忠言したという話。
これらのあまりに有名な伝説は、シンドラーの『ベートーヴェン伝』によって最初に報告され、その後、爆発的に世に広まった。他にソースとなる史料はない。
■「音楽史上最悪のペテン師」の烙印
もちろん、シンドラーが実際にベートーヴェンからこれらの話を聞いた可能性はゼロではない。だが、シンドラーの改竄行為が明らかになった以上、こうした証言を頭から信じることは不可能になってしまった。それはベートーヴェン像の崩壊に等しかった。彼はいまや、百年以上にわたって人びとをだまし続けた「音楽史上最悪のペテン師」の烙印を押されるに至った。
しかし、シンドラーが行った改竄を、彼自身の自己顕示欲や嫉妬の産物として片付けてしまっていいものだろうか。というのも、彼が行った故意の加筆には、よくよく見ると個人的な動機とは考えにくいものも含まれているからだ。
たとえばシンドラーは、会話帳にセリフを書き入れるにとどまらず、自分以外の人が書いたよからぬ書き込みを黒塗りし、事実を隠蔽したりもしている。
たとえば、1820年1月にベートーヴェンの友人ヨーゼフ・カール・ベルナルトが書きつけた「私の妻と寝ませんか? 冷えますからねえ」という言葉には、上から線を引いて判読を妨げようとした痕跡がある。シンドラーがやった可能性が高い。いったい何のために。
■「不滅の恋人」をめぐるシンドラーの真の目的
その謎を読み解くヒントが、ベートーヴェンが書いた有名な書簡「不滅の恋人の手紙」にある。まぎれもなくベートーヴェン自身の真筆ではあるものの、宛先が書かれておらず、また、実際に出されたのかどうかもかわらないというミステリアスなラブレターだ。
シンドラーは、『ベートーヴェン伝』でこれらを大々的に公表した上に、宛先はジュリエッタ・グイチャルディであると断言した。ベートーヴェンがかつて交際していたうら若き女弟子だ。
シンドラーは、ラブレターの宛先がジュリエッタだと本当に確信していたのだろうか? おそらくそうではない。ラブレターが書かれた時期を彼は1806年であると判断していたが(実際は1812年だと判明)、ジュリエッタはその何年も前にベートーヴェンと別れていた。そもそも、シンドラーがベートーヴェンの秘書になったのは1822年秋以降なので、それより前の恋愛模様など知るよしもない。確信のないままジュリエッタ説をぶち上げたと考えるのが妥当だろう。
故人の情熱的な一面がうかがえる秘蔵のラブレターは公表したい。ただし、その宛先が尻軽な友人の妻だと思われたりしたら困る。あくまでお相手は清純なヒロインでなければ。うむむと悩んだ末にひらめいたのが、妙齢で、身元もしっかりした貴族令嬢のジュリエッタを引っ張り出すことだった。
ひとりの女性を一途に愛する主人公としてベートーヴェンを演出したいがために、いかがわしい会話帳の一節を抹消し、かつ、伝記上で架空のラブストーリーをでっちあげる。それが「不滅の恋人」をめぐるシンドラーの真の目的だった、と考えられないだろうか。
■シンドラーがあってこそ、ベートーヴェンは有名になった?
シンドラーは、ベートーヴェンの本性をたしかに目撃していた。そして、それを衆目から隠そうとした。見るに堪えないものを見るのは自分ただひとりでいい。そう思っていたのかもしれない。
![](https://president.jp/mwimgs/6/b/-/img_6be2ead4fa0de710b4e29a2830761936149876.jpg)
シンドラーの改竄事件の発覚は、1970年代後半以降のポスト・モダンの風潮とあいまって、ベートーヴェンのイメージ受容に大きな変化をもたらした。シンドラーの書いた伝記のようにベートーヴェンを大きな物語として語ることはダサいと見る向きが強くなってきた。
しかし、二十世紀も終わりに近づき、ポスト・モダン思想のピークアウトが見えはじめると、ポスト・モダンは結局のところ近代に敗北したのではないかという声が出てくる。世の中では大河的なベートーヴェン像が主流で、専門家やオタクはさておくとして、一般人はみな『交響曲第五番』を「運命」と呼び続けているじゃないか、という声である。
揺り戻しのように、シンドラーの業績を擁護する意見もあらわれだした。これほどまでにベートーヴェンの作品が超有名になったのは、シンドラーの『ベートーヴェン伝』があってこそではないか、というのである。
■いつの世も、名プロデューサーは嘘をつく
不朽のベートーヴェン伝説を生み出した、音楽史上屈指の功労者。それがシンドラーの正体だ。音楽ビジネスの世界で生きた男に対して、嘘つきとか食わせ物とか、そんな文句こそが野暮ったいのではないか。いつの世も、名プロデューサーは嘘をつく。
音楽史に大きな爪跡を残したシンドラーの功罪。嘘も、シンドラー自身も、決して一筋縄ではいかない、アンビバレントで混沌とした思想や感情の総体だ。あらゆる嘘や人間がそうであるように。
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1982年、東京郊外生まれ。一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。音楽関連企業に勤めるかたわら、音楽家に関する小説や考察を手がける。本書が初の単著。
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(かげはら 史帆 構成=万亀すぱえ 写真=iStock.com)
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