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最強の投資家は寝つきの悪さで相場を知る

プレジデントオンライン / 2019年1月25日 9時15分

勝見明氏(写真提供=日刊ゲンダイ)

稀代の投資家ジョージ・ソロスは、投資を判断する際、客観的な指標ではなく、「寝つきの悪さ」を基準にしていた。どういうことなのか。ジャーナリストの勝見明氏は「現代は客観的なサイエンスがもてはやされているが、ビジネスでは言葉や数字で表せないアートの視点も欠かせない。ソロスの逸話はそうした『センスメイキング』の重要性を示している」という――。
連載『センスメイキング』の読み解き方

いまビジネスの世界では、「STEM(科学・技術・工学・数学)」や「ビッグデータ」など理系の知識や人材がもてはやされている。しかし、『センスメイキング』(プレジデント社)の著者クリスチャン・マスビアウは、「STEMは万能ではない」と訴える。
興味深いデータがある。全米で中途採用の高年収者(上位10%)の出身大学を人数別に並べたところ、1位から10位までを教養学部系に強い大学が占めたのだ(11位がMITだった)。一方、新卒入社の給与中央値では理系に強いMITとカリフォルニア工科大学がトップだった。つまり新卒での平均値は理系が高いが、その後、突出した高収入を得る人は文系であることが多いのだ。
『センスメイキング』の主張は「STEM<人文科学」である。今回、本書の内容について識者に意見を求めた。本書の主張は正しいのか。ぜひその目で確かめていただきたい。

第1回:いまだに"役に立つ"を目指す日本企業の愚(山口 周)
第2回:奴隷は科学技術、支配者は人文科学を学ぶ(山口 周)
第3回:稀代の投資家は寝つきの悪さで相場を知る(勝見 明)

■サイエンス偏重に警鐘を鳴らす「センスメイキング」

ものごとのとらえ方にはサイエンスとアートの二つの視点がある。サイエンスの視点は客観的・科学的・分析的・論理的であるのに対し、アートの視点は主観的・直観的・「ありのまま・まるごと」・実践的であり、すべてにおいて対照的だ。

また、筆者が20年近く一緒に事例取材を続けている世界的経営学者、野中郁次郎・一橋大学名誉教授が提唱する知識創造理論では、「知」のあり方には、言葉や数字などで表すことのできる「形式知」と、言葉や数字など表せない「暗黙知」とがあるとされる。

 アルゴリズム(コンピュータなどで問題を解くための計算の方法・手順)への極度の過信に警鐘を鳴らし、「人」が生み出す「文化」への再認識を説く本書は、形式知をベースにしたサイエンス偏重の現代の潮流に対し、暗黙知の重要性とアートの復権を訴えるものにほかならない。

その方法論として、戦略コンサルタントの著者は「センスメイキング」という知の技法を唱える。センスメイキングとは著者によれば、「文化的探求」を意味し、人々が身を置く「社会的文脈」を洞察し、理解する手段であるという。

センスメイキングはもともと、アメリカの社会心理学者カール・ワイクが唱えた概念で、日本語では「意味づけ」と訳される。ワイクは、人々の行動がどのように意味づけされて決定されていくかという過程に注目した。その意味づけは、その人の置かれた社会的文脈、すなわちその社会の文化に強く影響される。したがって、ビジネスにおいても顧客を真に理解するには、背景にある文化的探求や社会的文脈の洞察を行わなければならないと著者は説くのだ。

■個人ではなく文化、薄いデータより厚いデータを見る

その文化や社会的文脈は、人々によって共有された、言葉や数字では表現仕切れない暗黙知そのものだ。それを探求し、洞察するには、表層的な市場調査の形式知のデータなどをサイエンスとして分析するばかりでなく、自らを社会的文脈に投じ、そこで共有されている暗黙知を直観するというアートの世界に入らなければならない。そのセンスメイキングをビジネスにおいて実践する際の具体的な方法として、著者は次の五つの原則をあげる。

(1)「個人」ではなく「文化」を

顧客を、経済的な計算にもとづいてのみ行動する「合理的な個人」としてではなく、現実の社会的文脈=文化と切り離せない「心で動く文化的存在」としてとらえなければならない。

(2)「薄いデータ」ではなく「厚いデータ」を

データも、顧客の行動の痕跡から得られる市場分析の定量的な「薄いデータ」(典型がビッグデータ)だけでなく、顧客が社会的文脈=文化とどのような関係性を持っているかという定性的な「厚いデータ」に目を向けなければならない。

(3)「動物園」ではなく「サバンナ」を

「薄いデータ」から論理分析的に顧客像を抽出するのではなく、日常の「生活世界」に生きる顧客を「ありのまま」にとらえなければならない。

これらの(1)~(3)の原則は、顧客に対するアプローチの仕方を説くのに対し、次の(4)~(5)の原則は、つくり手もしくは売り手に求められる発想のあり方を示す。

■生産より創造性、GPSではなく北極星

(4)「生産」ではなく「創造性」を

これまでにないものをつくり出す創造的なアイデアを生むには、発想を非連続にジャンプさせる“跳ぶ仮説=ひらめき”が求められる。これを「アブダクション(仮説生成)」と呼ぶ。アブダクションは、市場環境を科学的に分析するのではなく、社会的文脈に入り込み、自らを環境と一体化させるなかで立ち現れる。

(5)「GPS」ではなく「北極星」を

つくり手や売り手は、「薄いデータ」によるアルゴリズム的思考でその都度、分析的に解を導き出すことより、社会的文脈のなかで自分たちはどこに向かい、顧客とどう向き合うのかという立ち位置を明確にしなければならない。要はデジタルだけでなく、アナログの世界観を大切にしろと。

■古代ギリシャから続くサイエンスとアートの対峙

著者によれば、このセンスメイキングのルーツは、古代ギリシャの哲学者で自然科学から論理学、芸術分野におよぶ広い範囲で偉業を残した知の巨人、アリストテレスが唱えた「フロネシス」という知のあり方にあるという。フロネシスは知識創造理論においても重要な概念で、「何がよいことか」という価値基準を持ち、その都度、個別の文脈のただ中で最善の判断ができる「実践知」を意味する。

なぜ、話がアリストテレスに飛ぶのか。それは、サイエンスとアートの対峙が、古代ギリシャ哲学に始まる二つの系譜の延長上にあるからだろう。一つは、知識は理性によって演繹的に導き出されると主張する「合理主義」であり、もう一つは、知識は感覚的経験を通じて帰納的に得られるとする「経験主義」だ。

合理主義は、アリストテレスの師、プラトンの哲学に始まる。プラトンは、真善美とは限りなく神に近いものであり、身体の五感を一切排除した理性によってのみ認識できるものであると説いた。すなわち、世の中の事象にはすべてに普遍性があるから、基本をなす普遍性をとらえなければならないと考えた。

これに対し、弟子のアリストテレスは、真善美は現実に存在すると考え、個別具体のなかから普遍化していくと説いた。世の中にはさまざま事象があるから、その一つひとつをとらえていかなければならないと考え、経験論的な視点から「知識は知覚から始まる」とした。

■サイエンスの流れはデカルトから始まった

近代に入り、プラトン思想の流れを汲んだのが、合理主義哲学の祖とされる17世紀のフランスの哲学者デカルトで、本書にもたびたび登場する。「我思う、故に我あり」という有名な命題が示すとおり、デカルトは、「思惟する我」という精神は身体から独立して存在し、真なる知識は身体による感覚ではなく、精神によってのみ獲得できると説いた。

この「思惟する我」は、自分を自分以外の世界から分離させることで知識を得ようとする。このようにデカルトは、心と身体、主体(知るもの)と客体(知られるもの)とを分ける心身二元論、主客二元論を主張した。顧客の現実を対象化し、客観的・科学的・分析的にとらえようとするサイエンスの流れは、このデカルトの二元論から生まれ、現代において主流を占めるに至るのだ。

■「意味づけ」を探求する

これに対し、心身二元論、主客二元論を克服しようとしたのが、ドイツの哲学者フッサールが打ち立てた現象学だった。ビジネスのあり方を説く本書も、デカルトの二元論に批判的な立場をとりながら、フロネシス(実践知)とともに、現実に対する現象学的なとらえ方を一貫して中心テーマに据えているのだ。

現象学ではわれわれが直接経験できる「生活世界(レーベンスヴェルト)」を重視し、心身一如、主客一体の境地で顧客の現実をありのままにとらえる。その際、科学が前提とする客観的事実は「カッコ」に入れ、その判断をいったん停止してしまう(「エポケー」という)。そして、絶対に疑いきれない直接与えられている感覚の意味をとらえる。つまり、科学による客観的・分析的成果に対して、主観的・感覚的な意味づけが行われる。

現象学はまさに意味づけを探求する。そして、その意味の本質は何か、過去・現在のあらゆる経験や知識、さらには未来予測も総動員して概念化し、顧客との相互理解を目指す。ここにサイエンスとアートが総合される。

クリスチャン・マスビアウ『センスメイキング』(プレジデント社)

本書では、フロネシスならびに現象学を実践する人物の事例が数多く紹介される。文化的探求により、ユーザーとクルマとの関係性の変化を読み取り、凋落した高級車ブランド、リンカーンを復活させたフォードの社長、マーク・フィールズ。コーヒー文化への洞察からスターバックスを立ち上げたハワード・シュルツ、などなど。なかでも最も印象的なのが希代の投資家ジョージ・ソロスだ。

■「寝つきの悪さ」で投資判断

フロネシスを発揮する際、「何がよいことか」の明確な判断基準を持つには、量・質ともに豊かな経験とともに、ドラッカーが「マネジメントはリベラル・アーツだ」と述べたように、哲学、歴史、文学、美術などの主に人文科学の教養に精通していることが重要になる。ソロスは、第二次世界大戦中のナチス占領下のハンガリーで青少年期を送りながら、複雑怪奇な歴史の動きを感じとり、政治の世界の大きな事件も一見些細な出来事に端を発していることに気づいた。そして、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学生時代は哲学を専攻し、人文科学の素養を濃厚に身につけた。

注目すべきは、そのソロスが五感で得られる知覚や感覚を重視し、心身一如、主客一体の現象学的世界で市場をとらえていることだ。著者によれば、「ソロスは自分の身体が市場システムの“一部”になっていると説明する。サーフボードや波の動きと一体となっているサーファーのように、ソロスは市場データを一種の意識の流れとして体感していて、市場データが自身の知覚に複雑に絡みついているのだ」「実は、ソロスが大きな投資をするときには、背中の痛みか寝つきの悪さで決断するという」。

ソロスは、まさに市場環境と“一体”となることで、市場データも単に科学的に分析するのではなく、センスメイキングにより、データの背後に流れる社会的な文脈を直観的に読み取り、投資のベストなタイミングを判断する。サイエンスとアートを総合して判断することで、多くのサイエンス志向の投資家がおよばぬ投資手腕が発揮されることを明かす著者の慧眼に敬服する。

■社会的文脈を読み解く時「生き方」が問われる

社会的文脈をいかに読み取るか。その洞察には自らの価値観や世界観が反映されるため、自分は何のために存在するのかを問われることにもなる。ソロスも一投資家の域を超え、政治経済における公共的利益の重要性を説くが、そこには自らの存在意義、すなわち「生き方」が投影されているように見える。

主体と客体を分け、現実を傍観者的に対象化して分析している限りは、自らの存在意義は問題にされない。しかし、主客一体で環境と一体化し、社会的文脈に入り込むときは、自らの生き方も問われる。なぜなら、社会的文脈とは人々によって共有される暗黙知であり、一方、自らの生き方も暗黙知であり、両者が共振・共鳴・共感し合うとき、センスメイキングが成り立つからだ。本書でも、最終章は「人は何のために存在するのか」と題して、読者に生き方を問いかけている。

前出の野中教授によれば、今の日本企業はアメリカ流経営学に過剰適応した結果、オーバー・アナリシス(過剰分析)、オーバー・プランニング(過剰計画)、オーバー・コンプライアンス(過剰法令遵守)の三大疾病に陥ってしまい、自社の存在意義や社員たちの人間としての生き方には無関心になってしまったという。

そんななか、戦略コンサルタントというサイエンスの典型のような職にある著者が、サイエンス全盛のアメリカにおいてフロネシスと現象学的経営を説き、一人ひとりの生き方を問う著作を著し、全米で注目を集めている。

新たな潮流を予感させる秀逸の書だ。

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勝見 明(かつみ・あきら)
ジャーナリスト
1952年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退後、フリージャーナリストとして、経済・経営分野を中心に執筆を続ける。著書に『鈴木敏文の統計心理学』『選ばれる営業、捨てられる営業』ほか多数。最新刊に『全員経営』(野中郁次郎氏との共著)。

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(ジャーナリスト 勝見 明 写真提供=日刊ゲンダイ 写真=iStock.com)

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