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勤務時間外のメールは法律で禁じるべきか

プレジデントオンライン / 2019年1月31日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/iunderhill)

スマートフォンは私たちを豊かにしているのだろうか。フランスでは2017年から「勤務時間外メール禁止法」が始まっている。政治社会学者の堀内進之介氏は「『スマホ中毒』のような状態は望ましくない。意志の力には限界があり、法律のような『環境』を整えることも検討すべきだろう」と指摘する――。

■スマホの通知で「ADHD」に似た症状が生じている

TWS(Time Well Spent)という言葉を聞いたことがあるだろうか? 直訳すると「有意義な時間」ということになるが、スマホを眺めることで時間を浪費せずに、限りある時間を大切に使おうという意味だ。この言葉は、グーグルの元従業員で、「Time Well Spent」という名の組織を立ち上げたTristan Harrisが広めたものだ。

TWSは、GoogleやAppleをはじめとした多くの企業にとっても、無視できないものになってきた。スマホ使用の弊害が、いよいよ認識されるようになってきたからだ。

たとえば、ヴァージニア大学の心理学研究者であるKostadin Kushlevは、スマホの通知によって注意散漫になったり、多動的になったりするなど、ADHDに似た症状が生じていることを報告している。

スマホ使用の弊害は、多くは、スマホを手放さないことからくる。そう思われている。しかし、私たちは、注意力という通貨を無駄に消費しようとは思っていない。したがって、手放さないというよりも、実際には、手放せなく「させられて」いるのだ。

多くのサービスでは、人々が費やす時間が増えるほど、利益も増える。だから企業は、提供するサービスに、滞在時間をできるだけ長く、接触回数をできるだけ多くする仕掛け、デザインを施している。それは、こう言ってよければ、私たちの注意力という通貨を取り上げて、リアルなお金にエクスチェンジするのと同じだ。

■「見逃すことへの恐怖」をどうやってコントロールするか

騙されているとは言わないまでも、二度と取り返せない時間を、注意力とともに手放す価値はあるのか? TWSは、企業から提供されたサービスは、私たちが対価として支払った注意力に本当に見合うものなのか、それを再考しようという試みなのだ。

重要なのは、「注意力という通貨を無駄にしない」ことは、スマホ使用を単に制限することと同じではない、ということだ。無理な制限は、私たちのストレスを増すだけだ。それは生産性を上げることにもつながらない。

カーネギーメロン大学のシステム科学者であるLuz Relloたちの研究によれば、スマホ使用(通知)を仕事中に制限した場合には、ストレスや生産性が上がった一方で、自由時間に制限した場合は、むしろ不安を感じる結果になったという。昨今では、FOMO(Fear Of Missing Out)、つまり、見逃すことへの恐怖として知られる現象だ。

FOMOは、ある種の中毒症状だと考えることはできる。しかし、タバコや酒などとは違って、大半の人は、スマホを一切手に取らない生活を生涯続けることは不可能だろう。そうであるなら、必要なのは闇雲に制限することではなく、適切なタイミング、適切な場所、適切な目的に応じて、むしろスマホを「上手く使いこなす」ことであるはずだ。

これは、去年、話題になった「デジタル・ウェルビーイング(Digital Well‐being)」についても、少し見方を変える必要があることを意味している。どういうことだろうか。

■スマホ中毒は「分かっていても、やめられない」

この言葉は、デジタルデバイスから離れて心身のバランスを取り戻すこと、そのような意味で理解されることがほとんどだ。GoogleやAppleが、彼らが提供するスマホに使用頻度を通知したり、使用を制限したりする機能を実装したことから、デジタルデバイスから離れることが、「デジタル・ウェルビーイング」の意味として理解されるようになった。

「デジタル・ウェルビーイング」を解説する記事の多くは、必ずと言っていいほど、スマホ依存、スマホ中毒を引き合いに出している。デジタルデバイスから離れることの重要さを際立たせるためだろう。そして、決まって「スマホ使用に意識的になり、離れることも大切だ」と締めくくられる。

私には、こうした記事を読んで得られるものが何なのか、実は一向に分からない。対価として支払った注意力を返してほしいくらいだ。依存や中毒なら、意志の力ではどうにもならない。「分かっていても、やめられない」。それが依存であり、中毒だ。

私たちのスマホ使用のあり方が、本当に、依存や中毒であるなら、私たちには、スマホの機能や意志の力だけでなく、その機能を使い続けようと意志できる「環境」こそが必要だ。ここに言う「環境」には、人間関係や労働条件、居住環境、法律や制度といったものが含まれる。

■なぜフランスは「勤務時間外メール禁止法」を始めたのか

フランスでは、2017年1月1日から「勤務時間外メール禁止法」が始まっている。これは、労働者に、勤務時間外にデジタルデバイスの電源を切る権利を与えようという試みだ。ニューヨークでも同様の条例が検討されている。夜間や休日に仕事のメールを送った上司には、罰金が科されるそうだ。イタリア、ドイツでもこうした動きは広がっている。夜間にメールサーバーの電源を切り、物理的にメールが送受信できない様にすることで、労働者のプライベートを守ろうという企業もある。

顧客に対しても、スマホや携帯電話の使用を控えるように促す試みがある。イギリスで、イタリアン・アメリカンのレストランチェーンを展開するFrankie and Benny’sは、昨年末、“No Phone Zone” ポリシーを実施した。食事中、携帯電話をレストランのスタッフに預ければ、14歳以下の子ども全員に無料の食事を提供するというもので、「食事中は携帯電話よりも、家族や友人との時間を大切にしてほしい」と訴えた。携帯電話の使用を控える動機、それを生み出すようなサービスを店舗側が用意したわけだ。

これらはみな個人の努力でも、最新の機能でもない。私たちを取り巻く「環境」からのアプローチだと言っていい。

私たちはどういうわけか、デジタルについての話になると、人間の知性や感情、意志などの人間本性(Human Nature)、もしくはデバイスの機能に目を向けるだけで、私たちやデバイスを取り囲む「環境」には、まったく目を向けなくなる。これは大きな問題だ。

■なぜ私たちは「SNS疲れ」に悩まされているのか

情報技術は、インターネット黎明期の1990年代には、すでに物理的な距離や時間を不問にする技術として理解されていたように思う。地球の裏側の出来事もほぼ同時に知ることができ、国際郵便とは違って、情報も一瞬で届くようになる技術は、同時期に人口に膾炙した「グローバリゼーション」という概念の中心的な内容でもあった。

情報技術は、時間と場所を不問にする。私たちは、この20年の間、この理解でやってきた。しかしこのような理解が、そもそも拙かったのではないだろうか。確かに情報技術は、時間と場所を不問にしたが、それは、20年前に、私たちが期待した通りのことではない。いまや明らかなのは、情報技術は、私たちから不要な時間と場所を「省いた」のではなく、その全てを「奪い去った」ということだ。

思うに、私たちが、いま取り戻したいと望んでいるのは、物理的な時間であり、距離であり、場所なのではないだろうか。「SNS疲れ」というのも、情報技術があまりにも対人的な距離と時間を奪い、つながり過ぎることで生じている問題だ。

にもかかわらず、私たちは、目下の状況を改善する試みにおいてさえ、「環境」をおざなりにしたままで済まそうとしている。先ほども述べたように、私たちの意志力や、デバイスの機能ばかりに注目し、それだけで何とかしようとしているのだ。

■総務省の「テレワーク」に決定的に欠けていること

「デジタル・ウェルビーイング」の一環として新たに実装された機能を、自動車のシートベルトに譬えるのは、適切だとは思えない。なぜなら、シートベルトが身の安全を守るのは、装着する意志やその機能のおかげというよりも、道路交通法という「環境」とそれによる規律訓練によるところが大きいからだ。スマホ使用の過剰を改善する試みには、そうした「環境」への注目が、まったく不十分だ。

総務省が進めているテレワークも同じ轍を踏んでいる。「平成29年版 情報通信白書」では、「テレワークは、ICTを活用して、時間と場所を有効に活用できる柔軟な働き方を可能にするものであり、就業者のワーク・ライフ・バランス向上や、企業の生産性向上に貢献するもの」だとされている。ICT(Information and Communication Technology:情報通信技術)を活用すれば、会社の所在地へ出勤する必要がなくなるので、通勤の負担もなくなれば、エネルギー消費も抑えられるし、過疎化が進む地方への人の移動も促せ、ワーク・ライフ・バランスも回復できる、と良いこと尽くめだと謳っている。

総務省が想定しているテレワークの働き方は、在宅勤務、モバイルワーク、施設利用型勤務の三つだ。施設利用型勤務は、どこか別のオフィスや施設を就業場所にすることだから、出勤場所が変わるだけのこと。モバイルワークは、移動中の車内やカフェなどでの仕事が想定されているが、仕事を家に持ち帰ることもままあることだろうから、結局は、在宅勤務を含むことになる。

■「子どもを抱えて自宅で仕事をこなせる人」はいるか?

要するに、総務省がテレワークとして念頭に置いているのは、実質的には「在宅勤務」なのだ。実際、総務省が作成した資料には、「テレワーク(在宅勤務)」と表記されたものがいくつもある。ICTは、時間と場所を不問にするゆえに、在宅でも仕事ができ、子どもがいる女性も働ける、そう言いたいわけだ。在宅勤務を説明した文章に添えられたイラストは、まさにそれを示している。

しかし、子どもを抱えながら自宅で仕事をこなせる人は、一体どれだけいるだろう。テレワーク(在宅勤務)で、収入が増えたり、やりがいを見出したり、出勤が困難な障害を持つ人が勤労のチャンスを得る可能性は、むろん否定しない。だが、それを除けば、在宅勤務が、ただそれだけでワーク・ライフ・バランスの向上につながるとは到底思えないのだ。

ワークとライフのバランスを取ることは、ワークとライフを適切に切り離すことではないのか? 働く時間とそれ以外の生活時間を、意志の力だけで、截然と切り分けることはそんなに容易い事ではない。職場と自宅が同じ場所なら、なおさら時間を切り分けることは難しいのではなかろうか。

■いつでもどこでも仕事にアクセス「しない」工夫が必要

私には、場所を分けることは、ワークとライフを適切に切り離すという点では、それなりに有効な手段であるように思われる。仕事に必要なものは職場だけに置いておく。何でもかんでもクラウドを利用して、いつでもどこでも仕事にアクセスできるように「しない」工夫、それは「環境」の力を借りるということだ。

地方活性化やエネルギー消費の抑制、通勤の負担からの解放は、とても意味のあることだ。このような情報社会に生きる人間にとって、QOL(quality of life)、つまり、生活の質を上げることは、時間と場所を取り戻すことと同義だ。

都心の高級マンションに住むようになるよりも、地方の緑の中を自転車で“仕事場”まで通うことができるだけで、私たちのQOLは、格段に向上するように思う。そうした“仕事場”が、コワーキングスペースのように、互いに少しは顔見知りで、ときに話をしたり、ときに飲みに行ったりする程度の人たちのいる場所なら、孤独に苛まれることも、人間関係に疲れ果てることもなく、充実した勤務になるのではないだろうか。

総務省のプランが魅力的ではないのは、20年前の理想を未だに引きずって、「環境」の大切さに目を向けていないからだ。意志の力やデバイスの機能だけで、ワーク・ライフ・バランスを回復できるなら、もうとっくに、みなが充実した生活を送れているはずだ。そうでないからには、足りないものがあるのだ。

TWSであれ、デジタル・ウェルビーイングであれ、テレワークであれ、それらを実質的に意味のあるものにするには、ICTから意志や機能によって離れるのではなく、「環境」の力を借りながら適切に、適度に離れられる工夫が重要だ。

つながり過ぎた対象から少し離れてQOLを上げるのは、水泳で息継ぎするのと変わらない。水に潜り過ぎれば溺れ、離れすぎては泳ぐことはままならない。上手に泳いで前に進むには、水面近くに居続けねばならないのである。だからこそ、私たちには、「環境」という浮き輪が必要なのだ。

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堀内 進之介(ほりうち・しんのすけ)
政治社会学者
1977年生まれ。博士(社会学)。首都大学東京客員研究員。現代位相研究所・首席研究員ほか。朝日カルチャーセンター講師。専門は、政治社会学・批判的社会理論。近著に『人工知能時代を<善く生きる>技術』(集英社新書)がある。

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(政治社会学者 堀内 進之介 写真=iStock.com)

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