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韓国に「武士の情け」を見せる日本の甘さ

プレジデントオンライン / 2019年1月31日 15時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/zeremski)

レーダー照射問題などで日韓関係が悪化する中、「大人の対応」で譲歩し続ける日本。余裕ある態度を取るのはなぜか。歴史著述家の上永哲矢氏は「今回の日韓問題に『武士の情け』を見た」という――。

■韓国に「大人の対応」で譲歩し続ける日本

レーダー照射問題などで泥沼化の様相を呈している日韓関係。韓国側は非を認めないどころか、日本側の「低空・威嚇(いかく)飛行が問題」と主張し、激しく非難している。

日本の防衛省が協議打ち切りを表明するも、韓国国防部は「また日本の哨戒機が、韓国艦艇に接近した」と発表し、新たな火種を投入してきた。

レーダーを照射した「加害者」の韓国が、「被害者」であるはずの日本に謝罪まで求めている始末。いつの間にやら韓国が攻撃側になり、日本が守勢にまわっている。

これまで、日韓関係にはさまざまな問題があったが、日本は「大人の対応」で譲歩しつづけ、後手にまわることが多かった。

今回も日本は映像を証拠に韓国の非を訴えるも、激しく非難したり、謝罪を要求したりはせず、あくまで正攻法で「再発防止」を求めていた。その余裕ある態度が、韓国側に反論する余裕を与えてしまったように思える。

この問題で連想したのは「宋襄之仁(そうじょうのじん)」という言葉。不必要な情けや哀れみをかけたために、かえってひどい目に遭うことだ。

■「宋襄の仁」と「武士の情け」の共通点

これは古代中国、春秋時代に宋の襄公(じょうこう)が、敵国の楚(そ)と戦った泓水(おうすい)の戦いから来ている。

紀元前638年、楚軍は宋を攻めようと泓水(川)を渡りはじめた。宋軍も川のほとりまで迎撃に出た。襄公の部下・目夷(めい)は「楚軍が川を渡りきる前に攻撃しましょう」と進言する。

だが、襄公は「そんな卑怯なことはできん。敵の弱みに付け込むのは君子ではない」と情け(仁愛)を見せ、敵が川を渡りきってから戦闘に入る。結果、宋軍は大敗し、襄公自身も矢を受け、その傷がもとで2年後に世を去った。

この故事が『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』に記される「宋襄之仁」の由来だ。敵に対する情けを否定的な意味として伝えるもの。大陸的価値観では、襄公は無能で愚かな人物とされている。

現代では「ビジネスには機略も必要、宋襄之仁だけではいけません」といった形で使われる。つまり反面教師にせよ、という教えでもある。

同じ中国の兵法書『孫子』で「兵は拙速を尊ぶ」とか「兵は詭道なり(だましあい)」という言葉がよく紹介される。とにかく勝てばいい、勝つために手段を選ばないのが戦いのセオリーである。

だが、日本ではどうだろう? むろん個人差はあるだろうが、襄公のこうした行為に対し「武士の情け」と見る人も一定数いるのではないだろうか。

▼エピソード1:<日露戦争>ロシア兵626名を救助した上村彦之丞の生き様

「武士の情け」という概念は、武士道が確立した江戸時代以降の価値観といわれるが、上杉謙信の美談とされる「敵に塩を送る」にしても、日本人には伝統的に根付いた感覚かもしれない。たとえば、以下のような例でも分かる。

明治37年(1904)8月、日露戦争において、蔚山(ウルサン)沖海戦があった。ロシアのウラジオ艦隊と上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)が率いる第二艦隊が激しい撃ち合いを展開した海戦だ。

激しい砲撃戦の末、第二艦隊は巡洋艦リューリックを撃沈、ほか2隻を大破させる。その2カ月前、ウラジオ艦隊は日本の輸送船3隻を撃沈した憎々しい相手だったが、見事にリベンジした。

しかし、沈みながらも砲撃を止めないロシア巡洋艦「リューリク」の姿を上村は見過ごせなかった。「敵ながら天晴れである」と言い、海に投げ出された乗組員の救助と保護を命じたのだ。

上村は、部下たちに捕虜を虐待しないよう重ねて命じた。その後、甲板の上では負傷して横たわるロシア兵に対し、日本兵が扇子で仰いでやる光景が見られた。こうした厚遇に、救助されたロシア兵626名は、みな涙を流して喜んだという。

このエピソードは終戦後に讃えられ、「上村将軍」という軍歌になった。また軍人の鑑(かがみ)と賞賛され、海軍の教本にも載せられたという。

▼エピソード2:<太平洋戦争>英兵422名を救助した工藤俊作の心意気

それから約40年後の「太平洋戦争」でも似たようなことがあった。昭和17年(1942年)3月1日、インドネシア・スラバヤ沖海戦において、日本海軍は連合国軍の艦隊を撃破した。

2日後、駆逐艦「雷(いかづち)」の艦長・工藤俊作はイギリス海軍の重巡洋艦の乗組員たちが海に大勢で漂流しているのを見て、救助を指示。敵潜水艦などからの攻撃を受ける危険性もあるなかで、懸命な救助活動が開始される。

日本兵が甲板から差し出した棒に捕まったとたん、安心して急に力が抜けて沈んでいく英兵もいた。それに対し、海に飛び込んでまで救助にあたった日本兵の姿もあった……。

こうした救助活動は3時間にわたって行われ、「雷」の乗員らは自分たちの倍におよぶ422名もの英兵を引きあげた。シャツと半ズボンと運動靴が支給され、熱いミルク、ビール、ビスケットがふるまわれた。

工藤は彼らに対し「諸君は勇敢に戦った。今諸君は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と英語でスピーチしたという。工藤たち乗組員は、日露戦争時の上村彦之丞の行いを学んでいたに違いない。

■騎士の国に認められた「武士道的な行為」

工藤は助けた捕虜をオランダ海軍の病院船に引き渡したが、終戦後、このことを誰にも、家族にさえ語らないまま1976年に亡くなった。

戦後から40年あまりたった1987年、アメリカ海軍の機関誌に「Chivalry(騎士道)」と題する寄稿が載る。それは工藤に命を救われたサムエル・フォール元海軍中尉によるものであった。

フォールは「24時間にわたり海上を漂流していたわれわれに、友軍以上に丁重にもてなしてくれた」と工藤の行為を忘れておらず、騎士道的として讃えた。

当時、天皇陛下による英国訪問に反対する声があがっていたが、この投稿が彼らを沈黙させる。工藤の遺族が、その救助活動のことを知ったのは、フォールのこの行動がきっかけだった。

フォールは2008年に、89歳の身をおして来日。埼玉県にある工藤の墓参りを行い「助けられなければ死んでいた。この体験は一生忘れることはない」と、墓前で感謝の思いを伝えている。5年後の2014年、彼は静かに世を去った。

■国際大会でもフェアプレーを好む日本人

戦争とスポーツを一緒にすべきではないが、オリンピックなどの国際大会でも日本人は常にフェアプレーを好み、選手にもその姿勢を求める。

反則をおかしてでも勝ちにこだわる国が多いなか、正攻法で戦うのが最低限の礼儀とされ、もちろん勝てれば喝采を送るが、勝てなくても「よくやった」と讃えられる。

下手に負けたら国民が暴動が起こすという例もあるなかで、希有なお国柄といえよう。

冒頭の問題でも、日本は韓国に謝罪までは要求せず、あくまで正攻法で「再発防止」を要求した。言ってみれば倒れかけた相手にとどめをささず、起きあがる機会を与えたような形だ。

ロシアに対してもそうだ。日本は北方領土の返還交渉でも、なかなか強硬な姿勢に出られない。常に相手に配慮しつつ交渉を行うのが慣例である。それは良い部分もあれば悪い部分もあるだろう。

もちろん、こうしたフェアプレー精神に、先のフォールのように相手がフェアプレーで応じてくれるかは分からないし、それは期待すべきではない。

いずれにしても、日本人は長く根付いた「武士の情け」を捨てきれない。その点が国際社会において「甘い」といわれてしまう部分なのかもしれない。

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上永哲矢(うえなが・てつや)
歴史著述家/紀行作家
日本史・三国志および旅に関する記事をメインに、雑誌・WEBに連載多数。日本各地における史跡取材の傍ら、城や温泉も行なう。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』『三国志 その終わりと始まり』『ひなびた温泉パラダイス』。

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(歴史著述家/紀行作家 上永 哲矢 写真=iStock.com)

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