天皇陛下が会見で「私」を多用された背景
プレジデントオンライン / 2019年2月15日 9時15分
※本稿は、矢部万紀子『美智子さまという奇跡』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■15分の会見で15回登場した「私」という言葉
2018年12月23日、天皇陛下は85歳になられた。事前に開かれた陛下の記者会見の映像がその日、たくさんのメディアで報じられた。
ご自身の人生と重ねながら、日本と世界の歩んだ道を振り返られる。そのような形で進められた約15分の会見だった。中で陛下は、「私」という言葉を15回使われた。
「私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました」
途中までは、この発言を含む数回だけしか出てこなかったのが、突如として増えた。最終盤で「明年4月に結婚60年を迎えます」と皇后美智子さまについてのお話になり、「私」がぐっと増えた。
「結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました」
この発言だけで3回。この後、陛下は美智子さまと国民への感謝をこのように語られた。
「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労(ねぎら)いたく思います」
時々、涙声になられた。
■「皇室の安定」は当たり前ではなかった
陛下が全身全霊で仕事をなさることで、即位のときから「象徴」と位置づけられた初めての天皇としての「旅」は、成功裏に終わろうとしている。今となっては、その成功が当たり前のことのようにも感じられる。だがそれは、決して当たり前に起きたのではなかった。美智子さまが「私」としての陛下を支えてこられたからこそ、実現した。それを改めて教えてくれた会見だった。
記者、編集者として、長く皇室報道に携わってきた。「お幸せな天皇ご一家」と当たり前のように報じ、「皇室の安定」も当たり前だと思っていた。
だがもしや、それは当たり前でないのでは。そう思うようになったのは、やはり皇太子妃雅子さまのご病気がきっかけだった。
かつて当たり前と思えたのは、なぜだったのか。それを考え行き着いたのは結局、美智子さまだった。
民間出身の初の皇太子妃になり、翌年に男の子を出産された。そのような幸運を当たり前のように実現され、皇后になられてからは災害が起こるたびに陛下とご一緒にいち早く被災地へ行かれ、国内外の戦争跡地では陛下の横で祈られた。当たり前のようにそうされる美智子さまのお姿から、私たちは「皇室の安定」が当たり前だと思うことができたのだ。
そのことに気づいたときに浮かんだ言葉が、「美智子さまという奇跡」だった。
■「何かすごい方になるとわかっていた」
池田山の正田邸のごく近くに住み、聖心女子学院の中等科、高等科でも美智子さまと同級だったシャンソン歌手の須美杏子さんに話を聞いたことがある。
須美さんの本名は萩尾敬子で、「タァコ」「ミッチ」とお互いを呼び合っていたという。80歳を超えても歌手活動を続ける須美さんには、ミニコンサートを開いたライブハウスで話を聞いた。
須美さんは、美智子さまについて冗舌に語らないことを長く嗜(たしな)みとしてきた。そう感じさせる堂々とした女性で、60年以上前の「ミッチ」についてはっきり語ったのはこれだけだった。
「どこへお嫁に行くとかそういうことではなく、何かすごい方になるとわかっていました。具体的にどうこうとは考えませんでしたが、私の周りの人はみな、そう思っていたと思います」
嫁ぐ前から、現在の皇后陛下へ至る伏線がいくつもある。美智子さまを知れば知るほど、そう感じる。そしてその「伏線」と出合うたび、美智子さまという人を皇室が得たことは奇跡だったのだという思いを強くする。
■美智子さまの母・富美子さんの実弟に聞いた
次に紹介するのは、美智子さまが小さい頃の話だ。
語ったのは、美智子さまの母・正田富美子さんの実弟、副島呉郎さん(元東京銀行監査役)。
話を聞いたのは、岩井克己さん。朝日新聞記者として、1986年から退職する2012年まで皇室を担当したジャーナリストだ。
富美子さんにインタビューを申し込んでいたが、正田家側からずっと色よい返事は得られなかったという。
病気がちだった富美子さんの体調がいよいよ思わしくないと聞いた1988年5月14日、岩井さんは副島さんから話を聞いた。富美子さんは5月28日に亡くなっているから、その2週間前になる。それが岩井さんの著書『皇室の風』に収められている。
■「自分たちが足手まといになってはいけない」
副島さんは、皇太子妃を受けるかどうか迷っていた頃の富美子さんの苦しみを「とても見ていられないほどのものでした」と振り返った。そして皇太子ご一家が幸せそうになり、国民の敬愛が深まると、さらに「自分たちが足手まといになってはいけない」と静かに見守り、多幸を祈る気持ちで生活していた、と語った。
同時に副島さんは、自分の娘が多くの人に信頼され敬愛されていることに、それなりの生き甲斐と限りない満足を覚えていたのではないかと、姉の心情を思いやっている。
そして、こう語った。
■「皇太子妃になるべき星の下に生まれた」
この本で副島さんの話は、インタビュアーの質問などをはさまない形でまとめられている。だが当然、一方的に副島さんが語り続けるはずはなく、岩井さんの問いが時々入っていただろう。
バラの話の後、多分、岩井さんは、「富美子さんのよい気質を美智子さまが受け継いだのですね」と水を向けたに違いない。副島さんがこう語っている。
副島さんの言葉を借りれば、「輝くバラ」である美智子さま。その美智子さまは、「輝くバラは日陰のバラがあってこそのもの」と、幼少時から認識していた。
これは、あらゆるものに通じる深い考え方だと思う。誰かが輝くためには、誰かが支える必要がある。だが、支える人が輝かなくては、輝くはずの人も輝かない。
皇室と国民の関係は、どちらも、輝く側であり、支える側ではないだろうか。小学生の美智子さんは、すでに自分の将来あるところの本質を理解していた。これは、深読みではないと思う。
副島さんは、それを「皇太子妃になるべき星の下に生まれた」と表現した。バラはそういう「伏線」だ。
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コラムニスト
1961年生まれ。83年朝日新聞社に入社し、記者に。宇都宮支局、学芸部を経て、「アエラ」、経済部、「週刊朝日」に所属。「週刊朝日」副編集長、「アエラ」編集長代理を経て、書籍編集部で部長を務め、2011年、朝日新聞社を退社。シニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長となる。17年に株式会社ハルメクを退社し、フリーランスで各種メディアに寄稿している。
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(コラムニスト 矢部 万紀子 写真=時事通信フォト)
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