江戸時代に生涯未婚者が多い"悲しい事情"

プレジデントオンライン / 2019年2月21日 9時15分

明治初期に撮影された呉服屋の様子(画像=『江戸暮らしの内側 快適で平和に生きる知恵』)

江戸時代は今とは違う意味で「生涯未婚」の人が多かった。雇われ商人が独立できたのは早くても30歳頃だが、江戸時代の平均寿命は30歳代。結婚したり子供を作ったりする前に、この世を去る人は少なくなかった。「死なずに生き抜くこと」が何よりも難しかったのだ――。

※本稿は、森田健司『江戸ぐらしの内側 快適で平和に生きる知恵』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■「長男以外の男性」は10歳で奉公に出た

江戸の庶民を代表するのは、「商・工」階級の人々である。賑やかな巨大都市に住んでいた彼らは、一体どのような人生を送ったのだろうか。これを、「呉服屋に勤める商人の男性」を例にして考えてみたい。

江戸時代の呉服屋は、大店を除き、そのほとんどが家族経営だった。店と住居が同じ建物で、家族が従業員も兼ねるという形式である。しかし、それだけでは、労働力の不足する場合が多い。そこで、家族以外の従業員も雇い入れるのだが、彼らの多くは経営者家族と起居を共にする奉公人だった。

奉公人の多くは、同じ商家だけではなく、近隣の地域の農家などの「長男以外の男性」である。長男は家督を継ぎ、商家や農家の主となる。しかし、次男以降は、そうもいかない。そこで、ツテを辿って、商家などに奉公に出るのである。奉公に出ず、そのまま実家に住み続けた場合は、結婚も許されず、居候のような立場で隠れるように暮らすしかなかった。

奉公に出る年齢は、多くの場合、10歳前後である。寺子屋で「読み書き算盤」を学び、それがおおむね身に付いた頃だろう。まだまだ甘えたい盛りの子供にも思えるが、この時期から家を出て、「丁稚(でっち)」と呼ばれる住み込みの従業員となった。

■脱落しても実家に居場所はない

丁稚である彼らに、いわゆる給料は出ない。寝食の保障が、給金代わりである。そもそも、丁稚はほとんど労働力として機能せず、研修を受けている段階である。できる仕事といえば、掃除や力仕事などの雑用に限られていた。こう考えれば、お金をもらえる方が不思議だろう。

ただし、盆と正月には、主に現物支給で「ボーナス」が出た。これは「仕着せ(しきせ)」と呼ばれた。現在も「上から一方的に与えられるもの」という意味の、「お仕着せ」という言葉が残っているが、由来はこの仕着せである。

容易に想像できるように、この丁稚の段階で脱落する子供たちも、たくさんいた。基本的に休みもなく、ひたすら見習いの仕事ばかりの日々は、10代前半の子たちには辛かったに違いない。しかし、多くの子たちには、実家に帰っても居場所はない。辞めて帰っても、違う奉公先を探して、また一からやり直しになるだけだった。

丁稚として真面目に勤めた者は、早ければ17~18歳ぐらいで元服を許され、「手代」に昇進する。この手代から、正式な従業員であり、立派な労働力となった。ただし、住み込みで働くという点においては、丁稚と同じである。

上に掲載した古写真は、明治時代初期の呉服屋を写したものである。江戸時代のそれと、ほぼ同じといってよいだろう。中央にいて、客の女性の顔色を窺っている男性が、この店の手代である。まだ随分若いように見える。

■一体いつ「結婚」したのか

手代になった後、大体10年以上働き、従業員として優秀であると認められれば、「番頭(ばんとう)」に昇進する。これが、従業員として最高の職位だった。先ほどの写真でいうと、右側で耳に筆を挟み、そろばんを弾いている男性が、この店の番頭である。手代に比べると、顔つきにも随分と貫禄があるように思われる。

番頭になった後、さらに業務に励み、主人の信認を獲得した者は、のれん分けが許されることもあった。商人誰もが憧れた、独立開業である。しかし、ここまで彼の人生を眺めて、ある一つの疑問が出る。彼らは一体いつ頃、結婚をしたのだろうか。

手代に昇進すると、羽織の着用や、酒、煙草などが許された。しかし、先ほど述べた通り、住居は丁稚同様、店舗を兼ねた主人の家だった。ここから推測できるように、手代に結婚は許可されなかった。

ようやく一人前となり、自分の家を持つことが許されるのは、番頭になった後である。このとき、彼らの年齢は30歳ぐらいだろう。昇進の早かった優秀な者でこの年齢なので、余り能力が高くない場合、頑張っても番頭となれるのは30代後半だった。

■結婚できたとしても30歳過ぎ

そのため、雇われ商人の多くは、無事に結婚できたとしても、その年齢は30歳を過ぎていたと考えてよい。歴史人口学者の鬼頭宏氏は、江戸時代の初婚年齢に関して、次のように述べている。

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江戸時代の男女はかなり早婚だったと言われる。たしかに初婚年齢が女性で27歳に、男性が28歳に近づきつつある現在からみればそのとおりである。しかしそれは女子にはあてはまるけれど、男子の初婚年齢は一般に現代の水準に近かった。中央日本の農村では、18・19世紀における長期的な平均初婚年齢は、男25~28歳、女18~24歳の間にあった。夫婦の年齢開差はふつう5~7歳、男が年上で現在よりもかなり大きかった。しかし江戸時代の初婚年齢は地域や階層などによって、非常に大きな差があったことがわかっている。 ―『人口から読む日本の歴史』

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この極めて整理された文章は、多くの人が江戸時代に対して持っているイメージを覆すに違いない。一般に、江戸時代、しかも農村においては、初婚年齢は相当低いものだったと思い込んでいる向きは多いはずである。ところが、実際のところ、男性は25~28歳ほどだったのである。しかもこれは、平均年齢であることに注意が必要だ。もっと上の年齢に至ってから、初めての結婚をした人も大勢いたということになる。

なお、2015年の厚生労働省統計情報部「人口動態統計」によると、平均初婚年齢は男性が31.1歳、女性が29.4歳となっている。江戸時代の平均初婚年齢は、現在より男性は3~6歳ほど、女性は5~11歳ほど若かったということになる。バラつきの大きい女性はともかく、やはり江戸時代といえども、男性はそれほど早くに結婚していなかったのである。

■都市部に流入した人々が「どんどん死んでいた」

先ほどの「雇われ商人」の話に戻ろう。30歳を超えていても、最終的には結婚をして家庭を持てるのであれば、それはそれで結構な人生だという考え方もあるだろう。ところが、これもまた正確な事実の認識に基づいたものとはいえない。少なからぬ「雇われ商人」が、結婚をしたり子供を作ったりする前に、「死んでいた」からである。悲しいことだが、江戸時代に限定すればこれは間違いない。

森田健司『江戸ぐらしの内側 快適で平和に生きる知恵』(中公新書ラクレ)

既に紹介したデータだが、江戸時代の中・後期、濃尾地方の農村における女性の合計特殊出生率は5.81だった。女性たちは今とは比較にならないぐらい、たくさんの子供を生んでいたのである。

それにもかかわらず、江戸時代における日本の総人口は、ほとんど増加していない。19世紀半ばまで、日本の人口は約3000万人で安定していた。なぜ増えなかったのだろうか。これには、大きな理由が二つある。一つは、乳幼児の死亡率が非常に高かったこと。もう一つは、都市部に流入した人々が、「どんどん死んでいた」ことである。だから、子孫を残さずこの世を去る者も、決して少なくなかった。

都市で人々が「どんどん死んでいた」要因の第一は、流行病である。例えば、文久2年(1862)のはしか大流行では、江戸だけで24万もの人が亡くなったと伝えられる。百万都市江戸の、4~5人に1人が死んだということになる。

19世紀の終わり頃から、衛生状態の向上、医療の飛躍的発展によって都市は「地獄」ではなくなっていった。しかし、それ以前の時代においては、職場での出世競争以上に、「死なずに生き抜くこと」が、何より難しかったのである。今とは違った意味で、一生涯未婚の人々が多い時代だったといえるだろう。

■「七つまでは神のうち」と言われていた

多くの歴史人口学者の研究によって、江戸時代の平均寿命は、265年間を通して30歳代だったとわかっている。「人生50年」という表現があるが、それにも全く及んでいない。しかし、これは江戸時代において、老年まで生きる人がほとんどいなかったということを意味しない。流行病で突然死んだ人、および物心つく前の乳幼児の段階で死んだ人の多さが、平均値を引き下げてしまっているのである。

江戸時代中期~後期において、一歳未満の乳幼児の死亡率は10パーセント台後半という結果が出ている(前掲書『人口から読む日本の歴史』)。他の調査でも似たような数字となっており、当時の農村においては、おおむね2歳になるまでに2割の子が死亡していた。

七つまでは神のうち――かつての日本には、このような悲しい言葉があった。簡単にいえば「7歳まではいつ死んでもおかしくない」という意味である。小さな子供が背負って面倒をみていた赤子は、いつ神様の元に帰ってしまうかわからない「脆い存在」だった。七五三という習慣は、「神様が子供を連れて行かなかったこと」を感謝するものなのである。最後が「七」というのも、7歳の体力があれば、簡単な病気では死なないからなのだろう。

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森田健司(もりた・けんじ)
大阪学院大学経済学部 教授
1974年神戸市生まれ。京都大学経済学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間・環境学)。専門は社会思想史。とくに江戸時代の庶民文化・思想の研究に注力している。著書に『石門心学と近代』(八千代出版)、『石田梅岩』(かもがわ出版)、『かわら版で読み解く江戸の大事件』、『外国人の見た幕末・明治の日本』(以上、彩図社)、『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『明治維新という幻想』、『現代語訳 墨夷応接録』(作品社)などがある。

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(大阪学院大学経済学部 教授 森田 健司)

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