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エヴァの作曲家は監督と一対一でやり合う

プレジデントオンライン / 2019年2月16日 11時15分

作編曲家の鷺巣詩郎氏(写真提供=鷺巣詩郎氏)

自らの「家」について語ることは、「人生」そのものを語ることだ。ノンフィクション作家の稲泉連さんは新著『こんな家に住んできた』(文藝春秋)で、17人の著名人に「あなたはどんな家に住んできましたか」と聞いた。今回はその中から、作編曲家の鷺巣詩郎さんのインタビューをお届けしよう――。

■『シン・ゴジラ』でも庵野秀明監督とコンビを組んだ

自分の生まれた家というものは、文字通り人生の原点なんですね。

というのも、いま住んでいる家の夢なんて全く見ないのに、僕は世田谷にあった生家についてはこんな夢をよく見るんです。

……食卓でご飯を食べていると、ドスン、ドスンと地震が起こる。勝手口の辺りがびりびりと揺れ、「なんだろう」と思った途端、巨大な怪獣の足がドーンと家を破壊して、上からいろんなものが落ちてくる――。

数々の日本人アーティストの曲や『新世紀エヴァンゲリオン』などのアニメ音楽を手掛けてきた鷺巣さん。近年の『シン・ゴジラ』でも庵野秀明監督とコンビを組んだ彼は、一九五七年東京都生まれの日本を代表する作編曲家である。父親は漫画家、アニメーター、特撮の大家として知られる故・うしおそうじ氏だ。

以前、ある雑誌のインタビューを受けた際、「人生の分岐点はいつですか?」と聞かれたことがありました。その問いに対して、僕は「生まれたとき」と答えたんです。

僕の生まれ育った世田谷の家には、別棟に特撮スタジオや作画スタジオが併設されていました。

いつもスタッフやお客さんが出入りしていて、そこここに徹夜組の作画スタッフや編集者、様々な人たちが必ず泊っていたものです。

■まさしく“人間CG”といった感じだった

物心ついた頃から僕のいちばんの遊び場だったのも、その中心になって働く父親の膝の上でしてね。スタジオの二階の部屋で絵を描く父親を真似て、自分も絵をどんどん描くようになったんです。

間近で見ていて子供心にスゴいと感じたのは、「マット画」という写実的な背景画です。アニメの背景や特撮に使われる大都会のビル群やネオンの照明を、写真と見間違えるほどの精密さで父は描くんですよ。

『マグマ大使』で宇宙の帝王ゴアの乗っている円盤が、地上に降りてきてビルが崩れる直前の風景。新幹線が走っている山の風景……。何しろ台本を読んだだけで、写真のような絵を描いてしまう。映画の看板の字の精密さも大変なもので、まさしく“人間CG”といった感じでしたから。

■小学校に上がった頃にはアニメの作画を手伝うように

父はアイデアが湧き出て湧き出て止まらないという人で、二〇〇四年に亡くなる直前まで絵を描き続けていました。

絵を父にいつも見せていた僕は、小学校に上がった頃にはアニメの作画やセル塗りを自然と手伝うようになっていました。中学生になってからは特撮スタジオでの仕事も手伝い始め、高校生になると父の会社「ピー・プロダクション」の事業部で請け負っている怪獣ショーの台本書き、オリジナル曲の作曲、セリフの録音までやる戦力になっていました。だから、父は当然、僕が跡を継ぐものだと思っていたはずです。

とにかく仕事と家庭が混然一体、家族の中に仕事があって、仕事の中に家族がある、という家でした。『快傑ライオン丸』を作っていたときなんかは、庭で撮影用の白馬まで飼っていました。ライオン丸は変身すると、羽の生えた白馬に跨って天から降りて来る。そのシーンの撮影の度に馬を借りていたのではまどろっこしいと、父が白馬を購入してしまったんですよ。

父親のうしおそうじ氏が率いる「ピー・プロダクション」は、手塚治虫原作『マグマ大使』の特撮が大きな人気を博した。事業拡大期のプロダクションを陰で支えたのは、母親の那古美さんだったという。

手塚治虫さんの家には二度、小学校低学年の頃に連れて行ってもらった記憶があります。その手塚さんに可愛がられていたのが母でした。

母はもともと父の担当編集者で、結婚後は「ピー・プロダクション」の経理や事務の全てを担っていました。スタッフからの人望も篤く、家族の間では、「鷺巣さんが『マグマ大使』をやるなら安心だ」と手塚さんが言ってくれたのも、おそらく「ママがいたからだ」ということになっているんです。

■修道院で五歳からバイオリンとピアノを習った

ピープロの実務を一手に引き受けていた母は、仕事が忙しくなると離れの事務所に張り付いていました。だから、僕や姉、妹、父も食事を自分で作るようになりましてね。以後の我が家の食卓は、全員が違うものを好き勝手に食べている状態でした。家族五人が同じ食卓に座って団欒しているのに、並んでいる料理は別々、父は出前を頼んでいたりするのですから、いま振り返ると何だかとても不思議な光景です。

僕は父親に絵を見てもらい、母親には文章を読んでもらっていました。母は編集者だったので、校正が厳しかった。子供相手でも容赦がなくて、原稿用紙をいつも真っ赤にされて戻されていたものです。

音楽と出会ったのも、この母親・那古美さんの勧めによるものだった。家の近くにできた修道院で五歳からバイオリンとピアノを習った。しばらくして地元の小学校からフランス系カトリックの名門校・暁星小学校に編入した。

カナダのケベック・カリタス修道女会の修道院で、派遣されてきたシスターが何人かいましてね。彼女たちが宣教活動の一環で近所の子供たちを集め、修道院の聖堂を見せたり、音楽教室を開いたりし始めたんです。

修道院でのレッスンで楽しみだったのは、カナダの珍しいお菓子をもらえること。それとケベックはフランス文化を背景に持つ土地なので、修道院に充満していたフランス・カトリックの匂いに僕はすぐに惹かれていきました。その様子を見ていた母が、僕をカトリックの小学校に編入させたわけです。

■七〇年代の反体制の雰囲気にも影響されていった

僕が父親の仕事を継がずに音楽の世界に向かったのは、この学校で高校卒業までを過ごした体験が大きかったです。

一つは中学一年に上がったとき、先輩であるギタリストの渡辺香津美さんの演奏を聞いたことです。

彼は早熟で当時はまだ十七歳の高校生だったけれど、すでにアルバムを出していました。学園祭で演奏を聞いて、とても感銘を受けたんです。僕もクラブ活動でブラスバンド部にいたので、音楽って面白いな、という気持ちを素朴に抱き始めました。

それにあの頃は一九六六年にビートルズが来日して、いわゆる「外タレブーム」が始まった時期。学校は日本武道館のそばでしたから、ライブをすぐに見に行ける環境でもあった。七〇年代の反体制の雰囲気にも影響されて、小学生が漫画や特撮に惹かれていくのとは別の形で、ファッションや音楽に熱中していったんです。卒業後は一応、大学にも入りましたが、授業には一切出ずに音楽活動に専念していました。

暁星高校時代からブラスバンドの譜面を書いていた鷺巣さんは、一九七八年に「ザ・スクエア」のデビューアルバムに編曲家として参加。翌年には自身のグループでもレコードを発売し、プロのミュージシャンとしての道を歩み始めた。

長く暮らした世田谷の生家を離れたのはちょうどその頃です。世田谷の家やスタジオは借地だったのに加え、特撮スタジオが仙川や聖蹟桜ヶ丘に移った。もともとアニメ関係の会社は練馬に多いし、そこでいずれにも便の良い荻窪に引っ越そうという話になりました。

■松本伊代のデビュー曲を編曲することに

新しい家は土地が三区画分の三〇〇平米、鉄筋の二階建て。仕事と生活は相変わらず混然一体で、一階の居間は父親の映写室と兼用、倉庫はフィルム編集室でもあり、二階も子供たちの部屋や父の書斎、両親の寝室の他に、家族の居間兼ビデオ編集室になっている部屋がありました。

僕が作編曲家として忙しくなっていったのは、しばらくして筒美京平さんを紹介してもらい、LPやシングルのB面の曲を作る機会を戴いて以降です。

七〇年代の終わりから八〇年代の初めは、音楽業界がいちばん華やかだった時代でしょう。歌謡曲、ニューミュージック、演歌の三つがドル箱として業界を支えていて、筒美京平さんはその作編曲家の世界のトップでした。そのなかで「面白いじゃない」と筒美さんに認めてもらったことで、彼に依頼が来た松本伊代のデビュー曲(「センチメンタル・ジャーニー」)を僕が編曲することになったんです。

当時は僕が二十四歳、松本伊代が十六歳。よくぞ託してくれたなァ、と思います。そして、その曲がオリコンのランキングに出た翌日から、仕事依頼の電話が鳴りやまなくなりました。「作編曲家なら筒美京平さんと仕事をしなきゃ意味がない。名刺なんてなくてもそれがいちばんの名刺代わりだ」と言われていた理由がよく分かりましたね。

■「パリに仕事場を持ちたい」と考えた理由

以来、作編曲家として多忙を極めるなか、鷺巣さんは荻窪の家を離れ、港区に自宅兼仕事場を構えた。数々のアイドルの曲を手掛け、レコード大賞の総音楽監督や『笑っていいとも!』のオープニング曲も担当。一九八〇年代の末からはパリに仕事場を持ち、クラブ経営を行なった時期もある。

アニメの聖地が練馬・杉並近辺であるのに対して、日本の音楽業界の聖地は港区でした。僕の所属する事務所も飯倉にあったので、その近くに引っ越すことにしたんです。

借りたのはロシア大使館の斜め前、麻布郵便局の裏手にあったマンションの一室です。一〇〇平米くらいの3LDK。六世帯しかないマンションで、国会でも話題になった松野頼三さん、細川護熙さん名義の部屋もあるいわくつきの物件でした。そこで暮らしていたのは五年くらいです。とにかく仕事が忙しくて、記憶が曖昧になるほど働いていた期間です。

パリに仕事場を持ちたいと考えたのは、そのうちにファクスが普及したのが第一の理由です。僕らのような“譜面書き”は、スコアを書き終えると、朝でも深夜でも写譜屋さんに電話をして取りに来てもらっていました。でも、その譜面をファクスで送れるようになれば、もうどこにいても構わない。

■ホテル王・コスト兄弟が、珍しがって買いに来た

僕は子供の頃にカトリックの文化に影響されたので、以前から旅行する度にパリという場所に居心地の良さを感じていました。それで一九八九年、ポンピドゥーセンターの近くのサン・マルタン通りに部屋を借りたんです。エレベーターのないアパルトマンの五階、三〇平米くらいの簡素なワンルームでした。

クラブの方はバスティーユのかつての城壁のすぐ外、職人街の一角に見つけた家具屋さんを改築しました。これまでのパリにはないスペースだったので話題になり、「フィガロ」紙に見開きで紹介されたりもしたんですよ。

その後、家はサン・マルタン通りから、クラブの近くの家具付きの物件へ移しました。深夜二時に帰って、日中は日本に送る音楽の仕事をして、夕方からまたクラブに出るという二重生活でしたね。

このクラブを経営していたのは二年ほど。ある日、「カフェ・コスト」で有名なフランスのホテル王・コスト兄弟が、珍しがって買いに来たんです。画期的ではあったけれど集客が思わしくなかったので運が良かったともいえます。

■東京は仕事の総仕上げをして、成果を皆と分かち合う場所

クラブ経営ではイギリス人のDJを呼ぶ機会も多く、ロンドンのミュージシャンと交流を深めた。ちょうど同時期に西武百貨店の海外でのバイヤーだった女性と結婚。ロンドンにも自宅を借り、次第にパリと東京と合わせて三都市を行き来する日々を送るようになる。都市の移動は常に夫婦二人だという。

ロンドンに家を借りたのは一九九六年、クロックスリー・ロードという場所で、地上階に二部屋と奥庭のある一軒家です。周囲には知り合いのミュージシャンが多く住んでいます。

思えば一九九〇年代以降は年に六回から十二回、パリとロンドン、荻窪の家を往復する生活を送っています。

三都市の拠点にはそれぞれ役割があって、パリでは譜面を集中して書く。スタジオとミュージシャンの多いロンドンでその書いた譜面を録音する。そして、東京は仕事の総仕上げをして、成果を皆と分かち合う場所――という感じですね。

特に重要なのは、やはり曲を書くパリです。夜中にどこにいても歩いて帰れるし、徒歩圏内にオーケストラの演奏を聴ける場所がいくつもある。自分が子供の頃、最初に音楽に親しんだ修道院と同じ文化圏だからでしょう、ピアノやバイオリンを習い始めたときの感情がそのまま心の裡側から出てくる気がするんです。

■庵野監督とはいつも「一対一」のやり取りをする

鷺巣さんの近年の代表的な仕事の一つと言えば、庵野監督の『シン・ゴジラ』の音楽を担当したことだろう。庵野監督とはNHKで放送された『ふしぎの海のナディア』を振り出しに、『エヴァンゲリオン』シリーズを経て長年のパートナーであり続けている。

アニメーションの仕事をし始めたのは、一九八〇年代の前半からです。当時は僕が「うしおそうじの息子」だと知っている人は誰もいなかったのですが、「機動戦士ガンダム」の『めぐりあい宙』の編曲をすることになった。それがヒットしたので、アニメ業界のプロデューサーが注目してくれたんです。そうしてアニメ関係の仕事を引き受け続けたからこそ、その頃は作画スタッフの一人だった庵野監督とも後に知り合えたわけです。

庵野監督との仕事が他と異なるのは、いつも“外野”の関係者が全くいない状態で、一対一のやり取りをすることです。

僕は作った曲を彼にそのまま送ってしまいますし、彼も何かあれば僕に直接、物事を伝えてくるので、お互いにものづくりだけに集中できる。そういう関係が四半世紀にわたって続いているのは、とても稀有なことだと思います。『シン・ゴジラ』もお正月に家族同士で食事をしているときに出た話でしたから。

それにしても、東宝のスタジオは五歳くらいのとき、父親に初めて連れられて行った場所。五十年の歳月を経てまたあの場所に仕事で戻ってくるとは、夢にも思わなかったです。さらに『シン・ゴジラ』のときは、パリで書いてロンドンで録音したその曲を、荻窪の家のスタジオに庵野監督が聴きに来ていました。

二人でかつての映写室に入って、絵のデータに音を入れながら、ああでもない、こうでもないと話をしたのですが、そのときに何とも言えない懐かしさを胸に抱きました。

父が愛した映写室で作業をしていると、僕はまるで子供の頃過ごしたあの家に、自分が帰ってきたような気持ちになったんです。

■家庭と職場と遊び場が混然一体となった家

▼取材のあとで

鷺巣詩郎さんは生まれ育った家について語るとき、「そこは自分にとっての原点ですね」と、インタビューの一言目にはっきりと言った。

アニメーションや特撮の大家である父・うしおそうじ氏、かつて手塚治虫の担当編集者でもあった母、両親の仕事をめぐって自宅に出入りする人々や住み込みのスタッフ――。

彼にとってそこは生家であると同時に、両親の職場であり、様々な人が集うコミュニティの拠点だったからである。

家庭と職場と遊び場が混然一体となった家。その思い出を振り返りながら、あれも楽しかった、こんなこともあった、と尽きることなく話す鷺巣さんは、実にうっとりとした表情を浮かべていた。

スタジオや撮影室、作画室を行ったり来たりし、素晴らしく精密な背景画を描く父の手元を膝の上から見る。ときには特撮のための白馬まで飼っていたというその場所は、子供の頃の彼にとって、決して退屈することのない夢の世界のようなものだったのだろう。そうして豊かな「表現」のエッセンスを幼い時から吸収してきた彼は、天性の才能を「家」によって開花させたのだといえる。

■父の「謎」を人生を通して解こうとしている

また、話を聞くうちにぼくが胸に抱いたのは、鷺巣さんは才能の塊ともいえる父の「謎」を、自らの表現者としての人生を通して解こうとしているような人だ、という思いだった。

稲泉連『こんな家に住んできた』(文藝春秋)

「父は『アイデアが湧き出て湧き出て止まらない』という表現者でした。朝から晩まで何かを描いていたし、家族で旅行に行っても何かが気になると、いつの間にか漫画を描き始めている。こんなに見ていて楽しい人はいませんでしたよ。本当に死ぬまでそうしていたんですから。その様子を間近で見ていた僕は、クリエイションとはそういうものなんだ、と思い続けてきたんです」

鷺巣さんは父であるうしおそうじ氏から、何かを教わったことは一度もなかったという。文字通り父親の背中を見つめるうち、自然と表現の世界へ足を踏み入れていった――。そう語った上で鷺巣さんは現在の自分について、「父と生き写しだと思います。まァ、僕が父を真似ているんですけれどね」と微笑んだ。

そのように父のスタイルを模倣することで、彼が確かめようとしていること。それは愛してやまない父親の見ていた世界が、どのようなものであったかというその答えなのではないか。三時間近くにわたったインタビューを終えたとき、そんな考えがふと胸によぎったのである。

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鷺巣 詩郎(さぎす・しろう)
作編曲家
1957(昭和32)年東京都生まれ。作編曲家。78年「ザ・スクエア」のデビューアルバムに参加。90年代以降はロンドン・東京・パリの三拠点で活動している。『シン・ゴジラ』など劇伴音楽も多数作曲。著書に『執筆録』、CDアルバムに『録音録』『アニソン録 プラス。』などがある。
稲泉 連(いないずみ・れん)
ノンフィクション作家
1979年生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(文春文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)などがある。

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(作編曲家 鷺巣 詩郎、ノンフィクション作家 稲泉 連)

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