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教科書ではわからない"応仁の乱"の面白さ

プレジデントオンライン / 2019年2月26日 9時15分

日本の歴史教科書にはしばしば、「いちばん大事なこと」が書かれていない――。境内の森で畠山政長と畠山義就の私闘が行われたことで、応仁の乱勃発の地とされる京都市上京区の上御霊神社(写真=PIXTA)

学校で学んだつもりになっている日本の歴史。だが本当の経緯や因果関係を理解している人は少ない。憲政史家の倉山満氏は「日本の歴史教育には欠陥がある。特に同時代の世界の歴史との比較がなく、わかりにくい。その筆頭が応仁の乱だ」と指摘する――。

■「比較」をしない日本の歴史教育

日本の歴史教育にはいろいろな欠陥がある。たとえば、英仏百年戦争(1339~1453年)が室町時代(1336~1573年)と同時代だと習わない。

当時は世界的に戦乱の時代なのだが、日本はまだマシなほうである。いかに室町人が日本人離れして凶暴だといっても、同時代の宗教戦争のような悲惨な殺し合いはしていない。そういう比較抜きに「戦国時代は動乱の時代でした」とだけ教えられても、じゃあどれくらいたいへんだったのかの物差しもないのでは、比較のしようがない。もちろん、百年戦争よりもマシだから、戦国時代が平和な時代というわけでもないが。

文系の学問は理系と違って、実験によって検証することができない場合が多い。そこで「比較」という手法が行なわれることがある。似たような現象を「比較」することで、何らかの発見を得ようとの試みだ。

ところが、日本の歴史学や歴史教育では「比較」が行なわれることが、まずない。だからこそ、私は『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(KADOKAWA)を書いたのだ。

高校生が使う世界史の資料集には、結構な分量の年表がついている。そのなかから、日本の室町時代の出来事を拾って東から並べていくと……。

1368年 明、建国(1351年~紅巾の乱)。
以後、洪武・建文・永楽の三代は粛清と外征の嵐。
1392年 李氏朝鮮、建国。高麗を亡ぼす。
1320年 トゥグルク朝、インドを平定。
1370年 チィムール朝、建国。アジアとヨーロッパを荒らしまわる。
1353年 オスマントルコ帝国、ヨーロッパ侵攻を開始。
1333年 カジミエシュ大王、ポーランドの地位を回復。
1378年 ローマ教会、大分裂。
1415年 エンリケ航海王子の大航海、始まる。

世界でどれほどの動乱が繰り広げられていたのかに唖然とする。

それはさておき、同時代の世界で何が起きていたかを説明しないのは、歴史学の使命を果たしているのであろうか。日本史の専門家なら日本列島、イギリス史の研究者ならブリテン島で起きたことは説明してくれるが、その時代の世界がどのようであったかを説明してくれる学者・教育者が何人いるだろうか。

ほかにも、歴史教育の欠陥を挙げてみよう。

とにかく、わかりにくい。とくに近代史など自虐的だと批判されるが、それ以前に教科書の説明で因果関係がわかるのだろうか。「ペリーが黒船に乗ってやってきて、幕府が鎖国をやめて明治維新になり、日清日露戦争には勝てたけど、調子に乗ってアジアを侵略したので、アメリカに負けた」としか読めない内容になっている。

これ、自虐以前に、説明不足の典型ではないだろうか。

『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(倉山満著・KADOKAWA刊)

■「応仁の乱」裏切りと寝返り

歴史教科書の説明不足といえば、応仁の乱が筆頭だろう。

「室町幕府8代将軍足利義政の後継を巡り、東軍の細川勝元が義政の弟の義視を、西軍の山名宗全が義政の息子の義尚を担いで11年も争い、京都は焼け野原になった」

さて、結果は? 九代将軍に就いたのは、義尚である。

では、西軍が勝ったのか? 逆で、三管領家の一人であった細川家は管領の地位を独占し、山名家は没落していく。教科書だけ読んでいては、応仁の乱の何も理解できない。むしろ、謎だけが残るだろう。現に高校生時代の私がそうだったので、勝手に概説書を読んで調べたものだ。

過程は複雑である。最初、義尚の母の日野富子は山名宗全を頼った。しかし、応仁の乱の初動で、細川勝元は花の御所を本営とする。そこで富子は宗全を裏切り、勝元も富子に応えて義尚の後ろ盾となった。これに居場所がなくなった義視は出奔し西軍に駆け込み、今度は宗全が義視の後ろ盾となる。いわば、敵味方が入れ替わる「外交革命」が起きていたのだ。これを説明しないと、何が何やらわからない。

応仁の乱の勝者は、将軍の地位を得た富子と義尚、管領の地位を独占した細川家である。ちなみに、勝元も宗全も、乱の七年目に揃って病死している。

受験問題では、登場人物の丸暗記が必須だ。

東軍 義視・細川勝元・斯波義敏・畠山政長
西軍 義尚・山名宗全・斯波義廉・畠山義就

三管領家の斯波家や畠山家の家督争いが複雑に絡み、東西両軍に分かれて抗争したと説明される。それはそのとおりなのだが、では、ここに書かれてある名前を全員丸暗記しなければならないのか。

畠山家の家督を争った、政長と義就は興味深い人たちだ。この時代を象徴する人物である。政長は政治力に長け、勝元死後も細川家との同盟を維持し、管領の地位を保っている。そして、勝元の息子の政元が1493年に明応の政変を起こしたとき、自害に追い込まれている。細川家の幕府乗っ取りのクーデター、管領家独占が完成する事件である。政長の生涯を追うことは、この時代のメインストリームを理解することである。

中央政界での地位を使って権力を維持しようとした政長に対して、義就は地元紀伊(和歌山県)にこもり、地元の土豪を掌握して対抗した。中央の権力を介入させない地盤を地方に築いたのだ。幕府の権威に頼らず、独自の軍事力で自らの権力を築いた畠山義就こそ、最初の戦国大名だと評する論者もいる。

政長と義就の個性に注目して答えさせるなら、その受験問題は良問だろう。

■戦国時代はいつから始まったか

一方、斯波義敏と義廉の違いを答えさせるなど、悪問だ。何の意味があるのかと思う。正直にいうが、私は室町の本を2冊書いているが、義敏と義廉の違いなど、いまだについていない。必要があるときに毎回調べなおす。実際、室町時代の歴史において、とくに重要人物でもないのだ。

むしろ、朝倉孝景のほうが重要人物である。孝景は、義廉の守護代として乱で大活躍していた。これに敵の大将である細川勝元が目をつけ、孝景は東軍に裏切る。見返りは、守護の地位である。下の者が上の者にとって代わることを下克上といい、戦国時代の代名詞のごとく語られる。朝倉孝景は栄えある(?)下克上第一号である。織田信長に滅ぼされるまで繁栄する、戦国朝倉氏の祖である。

細川勝元の行為は重大である。西軍の有力武将を引き抜くのはよいが、味方の斯波義敏の立場はどうなるのか。義敏は斯波家の惣領の地位とそれに伴う領地をめぐって争っているのだが、本拠地の越前をかつての部下の朝倉孝景に奪われた。かくして斯波氏と朝倉氏は越前の支配権をめぐって争うが、朝倉孝景は実力で越前を支配した。

室町幕府は権威主義体制で、守護と守護代には越えられない身分の壁が存在した。いくら下の者に実力があっても、越えられない壁である。ところが、細川勝元がその壁を壊した。これが、応仁の乱から戦国時代が始まるといわれる所以である。かつての通説だった。

ところが最近は、1477年に終わる応仁の乱ではなく、1493年の明応の政変を戦国時代の開始と捉える説が有力だ。このとき、細川政元は将軍親衛隊(奉公衆)を解体している。これが戦国時代の到来を象徴する決定的事件だというのだ。

■「奉公衆」解体こそ戦国時代到来の象徴

そういえば、応仁の乱では10万を超えるともいわれる東西両軍が殺し合いをしているのに、肝心の将軍義政は花の御所で宴三昧である。なぜ、そんなことができるのか? 奉公衆が将軍を守っているからである。花の御所を本営とした細川勝元も、奉公衆には手を焼いた。

義政の父の義教は「万人恐怖」と恐れられた強い将軍だったが、その権力基盤は奉公衆だった。義教はすべての戦争に勝利しているが、その中核は奉公衆である。応仁の乱ですら将軍を守った奉公衆の解体こそ、戦国時代の到来を象徴すると評価が修正されているのだ。

歴史とは、学べば学ぶほど同じ事実でも違った見方ができる。従来の通説、評価が修正されることにこそ、学ぶ醍醐味がある。いまの歴史教育では、学ぶ面白さが伝えられていないからこそ、良書で学んでほしいと願う。

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倉山満(くらやま・みつる)
憲政史家
1973年、香川県生まれ。中央大学大学院文学研究科日本史学専攻博士課程単位取得満期退学。在学中より国士舘大学に勤務、日本国憲法などを講じる。シンクタンク所長などをへて、現在に至る。『明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの十九世紀』(PHP新書)、『日本史上最高の英雄 大久保利通』(徳間書店)、『国民が知らない 上皇の日本史』(祥伝社新書)、『嘘だらけの日独近現代史』(扶桑社新書)など、著書多数。

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(憲政史家 倉山 満 写真=PIXTA)

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