日本がここまで子供嫌いの国になった理由

プレジデントオンライン / 2019年2月24日 6時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/kohei_hara)

今年も認可保育園の入園可否が届く季節になった。SNSには、落選した保護者からの嘆きの声も。待機児童問題は依然として深刻な状況だ。働きたくても働けない苦しむ親がいる一方で、保育園の建設計画を良く思わない人もいる。なぜ日本社会は、こうも子どもに冷たいのだろうか。

■気の合う友人が見せた衝撃的な一面

センスのいい、素敵な友人だ。年も近く趣味も合うし、彼女のキャリアを尊敬している。その女性が、気の置けない友人たちとの会話が深まり酔いも回る中、目の前でそれはもしかしてNIMBYではないかと聞こえる演説を繰り広げたとき、私は戸惑った。(NIMBY:not in my backyard うちの裏庭には作らないで、の意。原子力発電所やゴミ焼却施設などの必要性は認めるが、居住地の近くに作られるのは困るという考えを表す言葉/三省堂 大辞林)

彼女の自宅がある瀟洒な住宅地の一角に、区が新しい認可保育園の建設計画を発表したのだという。財界人や芸能人などの邸宅も多く、風光明媚で文化的、住みたい街ランキングでも常に上位にある憧れのエリアだ。「待機児童の問題が差し迫っているのはわかる。でも、“また”そこである必要はないと思う」と彼女は眉根を寄せた。

実はすでに数百メートル離れた場所に、古くからの認可保育園が存在する。だがその収容児童数が既にパンクしているがゆえの、新規建設計画である。

■なぜ、私たちが我慢しなければならないのか

「駅から近いから、利用者に便利だからという理由で、なぜこのエリアが2軒もの保育園を抱えて我慢しなければならないのか」。駅から近い環境だからこそ気に入って、少し駅から離れたエリアより格段に地価が高いのを少々無理してでも購入しているのに、その駅から離れた格安エリアに住む住民が車でこのエリアに子連れで乗りつけ、騒音や違法駐車という迷惑行為を日々垂れ流してメリットを享受するのは納得がいかない……と彼女は続けた。つまり、彼女のエリアの住人は高齢だったり所得が高かったりで認可保育園を利用する人はほとんどいないのに、なぜ自分たちにメリットのない保育園を他のエリアの住民のために「抱えてあげなければ」いけないのかという主張だった。

■自分も子育てしていたはずなのに

しかしその彼女にも、既に大きくなったとはいえ子どもがいるのだ。いま保育園に子どもを通わせる親たちと同じように幼い子どもを育てた経験があるのに、そういう考えになるのか……と、私はどう受け止めればいいのか困ってしまった。

その場がみな彼女の意見に肯定も否定もしかねて当惑しているのに焦れるかのように、彼女はその計画を推進している地元の議員にも批判の矛先を向け、議員が票集めのためにしてみせるポーズのせいで自分たちが不利益を被るのだ、だから自分は住民の反対運動に参加すると締めくくった。これは自分の好悪だけのエゴイズムではなく、質の悪い政治家の失策に振り回されることへのNOであり政治的態度である、と話を彼女なりの“高次元”な場所に上げてみせたように感じられた。

私は、高い教育を受け理性的だと思っていた大好きな友人の中から、きっちりと理論武装されてはいるがNIMBYネスらしきものが酔いに任せてひょっこりと表出したことにひどく衝撃を受け、どう消化していいものか困ってしまった。

■小学校でも近隣対応に追われている

そういえば、息子が地元の公立小に通っていた時、私はPTAの役員を引き受けていた。新任でやってきた50代の副校長はとてもよく気のつく女性で、ときどき神経が細やかすぎて参っている様子でもあった。彼女が特に神経をすり減らしていたのは、学校の近隣住民や地元有力者との付き合いだった。

「学校の大きなシンボルツリーの落ち葉が多すぎて、周辺にお住まいの皆さんからご迷惑とのクレームがあったので」と、落ち葉の季節は毎日早朝に出勤し、1時間以上もかけて自ら学校の敷地をぐるりと一周掃いて回っていたのを見て、PTA役員が慌てて手を貸した。月例会議でも、彼女はクレーム対応の苦悩をぶちまけた。「地域の方から、子どもたちの登下校の声がうるさいとお電話をいただきました」「地域の方が、○○方面に下校する子どもが民家の高級車を触っていたとお怒りです」「校庭の砂が風で舞い、洗濯物が汚れたとのお電話がありました」……。

■運動会前は、一軒一軒頭を下げて回る

運動会などの行事は、彼女にさあ疲弊しろと言うようなものだった。気の利いたお菓子に校長署名の手紙を添え、副校長を筆頭にPTA役員が列をなして地域の民家や地主宅を一軒一軒すべて、頭を下げて回るのだ。「○月○日○時~○時に運動会を執り行います。子どもたちの歓声や放送の音量、保護者の出入り、周辺の違法駐車駐輪、喫煙やゴミの投棄など、地域の皆さまには決してご迷惑をおかけせぬよう校内で取り締まりますので、何とぞご理解ご協力を賜りますようお願いいたします」。運動会におけるPTAの仕事とは、ひたすら児童や保護者の行動を「マナーを守ってください(しかしそれは誰のためのマナーなのか)」と時間ごとにパトロールして回る、組織的な「取り締まり」だった。

上の娘はその10年前に同じ小学校に通っていて、その時も私はPTA役員を引き受けていたが、こんなピリピリした様子ではなかった。しばらくの海外生活を経て帰国し、その小学校を今度は息子と訪れた時、同じ校舎のはずの学校敷地が周辺へ音や砂で迷惑をかけないよう、そして外から見えないよう暗い防塵シートですっかり囲まれ、正門は鉄鎖で閉じられ、防犯カメラとインターホンで武装された通用門から防塵シートをくぐって入るというスタイルになっているのを見て、「日本の学校はこんな状態になっているのか」と異様さにギョッとしたものだ。

■日本の子ども嫌いは加速している

「人に迷惑をかけてはいけない」というプレッシャーがある日本社会において、そもそも子育ては親がかなり無理を強いられる行為のような気がしている。のどかさを残した時代であったなら子育ても「お互い様」と言えるが、少子化で子どもと接するチャンス自体が昔より明らかに減った現代都市では、子どもはイレギュラーな存在だ。鹿の仔とは違って産まれてすぐに自分の脚で立つわけでもなく、自分で食べ物を取りに行けるわけもない人間の子どもは、親からの注意を引きケアしてもらうべく大声で泣く。存在自体が本質的に「迷惑をかける」のであり、それが当たり前なのだが、少子化社会の都市生活は、そんな迷惑者への寛容さを著しく低めていくことで、都市としての機能や効率を上げているのではないか。

効率を尊ぶ社会では、「非効率の塊」とさえ言える子どもを持つ動機も低減する。そうして社会生活の中で子どもと接する機会自体が減れば、さらに子どもや子育て中の親への共感は低くなる。だから日本の子ども嫌いは加速している。――海外から帰国したばかりの頃、私はそんな印象を持った。

そう理解してから世の中を見ると、目黒区の閑静な住宅地での保育園建設反対署名であるとか、球技や大声を出すのが禁止されている数々の「児童」公園とか、ベビーカーや幼い子連れが乗り込むと露骨に舌打ちする電車内の乗客とか、地域で見過ごされる児童虐待とか、「いかにも(本当は子どもを迷惑な存在だと思っている)日本らしいな」と思うのだった。

■誰の中にも冷淡で利己的な自分がいる

あるいは、自分の子どもは可愛くても、他人の子どもには同じ感情は持たないという部分もあるのかもしれない。人間とは、当事者意識や、社会的・協調的であろうとする努力を失うと、本来冷淡で利己的な顔をしている。きっと私も、何かの側面においてそうなのだ。

例えば先日、混雑時間帯の急行電車に揺られて仕事に向かう時、大型ベビーカーに子どもを乗せてそのまま混雑した車内に乗り込み、スマホで誰かとチャットを繰り広げるお母さんを見て、彼女にも今日は何か理由や事情があるのかもしれないとわかりつつも、冷めた視線を投げかけている自分に気づいてハッとした。

私の中にだって、狭量なNIMBY予備群は存在している。そうか、私も自分の子どもが大きくなったことで、小さい子どもへの関心や共感が薄まってきてしまったのかもしれない。とはいえ、誰もが一人でこの世に生まれてきたわけでも、一人で大きくなったわけでもない。「子どもは社会の宝」とか政治めいた表現をする以前に、あの大声で泣き大人にあやしてもらう子どもこそ自分自身のかつての姿であると思えば、子どもを「イレギュラーな迷惑者」と見なして自分のエリアから排除しようと“日本的な”NIMBYネスをあからさまに外に出す人たちは、何か人間的に大事なものを忘れてしまった自らの姿が見えていないような気がする。

(フリーライター/コラムニスト 河崎 環 写真=iStock.com)

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